教会にブルースを持ち込んだ男:神への祈り、ブルースの響き
作者のかつをです。
第3話、お楽しみいただけましたでしょうか。
絶望の淵から歴史的な名曲が生まれる、その感動的な瞬間を描きました。
彼自身の苦悩が、多くの人々の心を救う普遍的な祈りの歌へと昇華されていったのです。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
絶望の闇の中で、数週間が過ぎた。
トーマス・ドーシーはまるで生ける屍のようだった。
未来も希望も、何も見えなかった。
ある日の午後、友人が彼のことを心配して近所の音楽学校へと無理やり連れ出した。
「少しでも気を紛らわせろ」と。
ぼんやりと誰かが練習しているピアノの音を聴いていた、その時だった。
彼の耳に一つの、古くからある賛美歌のメロディが不意に流れ込んできた。
その瞬間、彼の内側で何かが静かに動き始めた。
彼はまるで夢遊病者のように、ピアノの前にふらふらと歩いて行った。
そしてそのメロディを、ゆっくりと鍵盤の上でなぞり始めた。
最初はただの、弱々しい音の粒だった。
しかし彼の指が動くにつれて、そこに彼が長年培ってきた「ブルース」のフィーリングが自然と滲み出し始めたのだ。
悲しみと苦悩、そしてそれでもなお神に救いを求めずにはいられない魂の叫び。
彼の指は鍵盤の上で祈り、そして泣いていた。
その時、彼の頭の中に言葉とメロディがまるで天啓のように、一体となって降りてきた。
“Precious Lord, take my hand,
Lead me on, let me stand,
I am tired, I am weak, I am worn.”
(尊き主よ、我が手を取り、導き、支え給え。
我は疲れ、弱り、擦り切れてしまった)
それは彼の、ありのままの心の叫びだった。
彼は夢中で、その歌を最後まで紡ぎ出した。
弾き終えた時、彼の頬を涙がとめどなく流れていた。
暗闇の底に一条の、細い光が差し込んだように感じた。
彼はブルースを捨てたつもりだった。
しかしブルースこそが、彼を救ったのだ。
彼が「悪魔の音楽」と信じていたものが、彼の「神への祈り」を最も誠実な形で表現してくれた。
トーマス・ドーシーは、この日生まれ変わった。
彼はもはや、ブルース・ピアニスト“ジョージア・トム”ではない。
彼は神の言葉を、ブルースという民衆の言葉で語る新しい伝道師となったのだ。
彼がこの時生み出した曲「Take My Hand, Precious Lord(尊き主よ、我が手を)」。
この一曲がやがて、ゴスペルという全く新しい音楽ジャンルの金字塔となる。
しかし、その道は決して平坦なものではなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「Take My Hand, Precious Lord」は後に、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が暗殺される直前にリクエストした曲としても知られています。
まさに、公民権運動の時代を象徴する魂の歌となったのです。
さて、個人的な救済の中から生まれた新しいスタイルの賛美歌。
しかしそれは、当時の教会から激しい拒絶反応を受けることになります。
次回、「教会からの追放」。
彼の新たな戦いが始まります。
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▼作者「かつを」の創作の舞台裏
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