フィールド・レコーディング創世記 第1話:ミシシッピの泥道
はじめまして、作者のかつをです。
この度は、数ある作品の中から『音楽創世記~音の拓者たちの足跡~』の最初のページを開いてくださり、誠にありがとうございます。
この物語は、私たちが当たり前に聴いている音楽のルーツが、まだ影も形もなかった時代に、その礎を築いた「知られざる開拓者たち」の物語です。
記念すべき最初の章は、アメリカ南部の魂の音楽を、消滅の危機から救い出した音楽学者、アラン・ローマックスに光を当てます。
音楽の知識は一切不要です。
ただ、歴史の裏側で繰り広げられた人間ドラマとして、楽しんでいただけたら幸いです。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
それでは、壮大な音楽創世記の旅へ、ようこそ。
2025年、東京。
コンクリートとガラスに囲まれたカフェの、計算され尽くしたスピーカーから、ざらついた音質の古いブルースが流れている。
ギターの弦を擦るノイズ、そして、まるで魂そのものが摩擦を起こしているかのような、しゃがれた男の声。
その音楽は、清潔で無機質な都会の喧騒の中で、時間を超えた異物のように、不思議な存在感を放っていた。
テーブル席の一人で、若者がスマートフォンの音楽認識アプリを起動する。
画面に表示されたのは、伝説的なブルースマンの名前と、「1936年録音」という無機質なテキストデータ。
彼はその曲を自分のプレイリストに加え、また日常へと戻っていく。
しかし、その一行の下に隠された、途方もない旅路を知る者は、決して多くはない。
なぜ、90年近くも前の、名もなき男の声が、今この極東の都市で聴けるのか。
その音を、歴史からの完全な消滅の瀬戸際で記録した、一人の開拓者の物語を。
物語の始まりは、大恐慌の爪痕がまだ生々しい1930年代のアメリカ南部、ミシシッピ・デルタ地帯。
うだるような夏の熱気が地面から立ち上り、視界の果てまで続く綿花畑の緑を陽炎のように揺らしている。
そこには、文明の象徴である舗装された道はなく、雨が降ればたちまちぬかるむ赤土の泥道だけが、蛇のようにうねりながら続いていた。
一台のオンボロのセダンが、泥にタイヤを取られ、エンジンを苦しげに唸らせながら、ゆっくりと進んでいく。
ハンドルを握っているのは、まだ20代の若者、アラン・ローマックス。
ハーバード大学で学んだ彼のインテリ風の眼鏡の奥で、その目は学者というより、失われた文明の遺跡を探す冒険家のように、好奇心と使命感で輝いていた。
彼がやろうとしていることは、友人たちから見れば酔狂であり、学者仲間から見れば狂気の沙汰だった。
ラジオからは、グレン・ミラーやベニー・グッドマンといった、洗練された白人たちのスウィング・ジャズやポップスが流れる時代。
彼は、その対極にある音楽を探していた。
アフリカから奴隷として連れてこられた人々の末裔が、労働の合間に、あるいは粗末なジューク・ジョイント(酒場)で、親から子へと歌い継いできた魂の歌。
ブルース、ワークソング、ゴスペル。
それらの音楽は、高尚な芸術とは見なされず、楽譜にも、ましてやレコードにも、ほとんど残されていなかった。
歌い手が年老いて死ねば、その歌もまた、歴史の闇へと永遠に失われる運命にあった。
「記録しなければ、すべてが消えてしまう」
その焦燥感だけが、彼をこの過酷な旅へと突き動かしていた。
彼の旅は、歴史からの救出作戦だった。
武器は、一台の気まぐれな車と、後部座席とトランクに満載された、巨大で繊細な録音機材だけ。
目的地は、地図には載っていない。
道端の農夫から聞き出した、「川向こうのプランテーションに、ギター弾きの老人がいる」といった、曖昧な情報だけが頼りだ。
ただ、どこからか聞こえてくる、本物の歌声だけが、彼を導く唯一のコンパスだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
第1部 第1章 第1話、いかがでしたでしょうか。
アラン・ローマックスは、父親のジョン・ローマックスと共に、アメリカ議会図書館のプロジェクトとして、このフィールド・レコーディングの旅を始めました。
まさに、国家事業だったのです。
さて、泥道を進むローマックス。
彼が頼りにする「巨大な録音機」とは、一体どんな代物だったのか。
次回、「巨大な録音機」。
現代では考えられない、当時の過酷な録音技術との戦いが始まります。
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それでは、また次の更新でお会いしましょう。
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