夢見る小さな令嬢の初恋記録~恋の終わりと、まだ名もなき想いの始まり~
お屋敷の使用人たちが忙しく立ち働いている中。
わたくしは、二階へと続く螺旋階段を慎重に上がっておりました。
わたくしの一日は、シャルリアーナお嬢様の『王子様部屋』の扉を開けることから始まるのです。
え? 『王子様部屋』とは何か、ですって?
……フフ。それは、お嬢様専用の呼び方なのでございます。
正式には、オルムスウェル家が誇る可憐なご令嬢、シャルリアーナ様の私室のことなのです。
「おはようございます、お嬢様。朝でございますよ」
重厚ながらも優美な彫刻がほどこされた扉を、そっと開ける。
まず目に飛び込んでくるのは、壁一面に飾られた肖像画。
――と申しましても、シャルリアーナお嬢様のものではございません。
ルドウィン国の第一王子、ギルフォード殿下の肖像画、肖像画、肖像画……なのでございます。
そのどれもが、わたくし、アデルレアンノ・フォーゲルが、お嬢様のご要望により描かせていただいたものです。
……けれど。
こうして毎朝目にすると、さすがに少しやりすぎたかしら……と思うこともあります。
なぜなら――この部屋にある殿下のお顔は、いったい幾つあると思われます?
微笑んでいらっしゃるお顔、少し憂いを帯びたお顔、馬にまたがり凛々しく遠くを見つめるお顔、読書にふける知的な横顔……。
お嬢様は、わたくしが新しい殿下の絵を仕上げるたびに、
「次はこんなギル様が見たいわ!」
「もっとキラキラしたお姿のギル様もお願い!」
瞳を輝かせながらご注文なさるので、この部屋の壁は、もうほとんど隙間がないくらいなのです。
没落貴族の娘であるわたくしの絵が、このようにご立派なお屋敷の壁を飾ることを許されているのは、ひとえにお嬢様の強いご希望があってこそ。
そのご恩に報いるためにも、わたくしは日々、心を込めて筆を走らせているのでございます。
「ん……アデル……? おは……よぉ……」
天蓋付きの大きなベッドの上で、もぞもぞと動き出す小さなお体。
プラチナブロンドの柔らかな巻き毛が、シルクの枕に天使の輪のように広がっています。
寝ぼけまなこのお嬢様の、愛らしいことと言ったら!
まだ七つでいらっしゃるのに、陶器のようになめらかなお肌、宝石のようなアメジスト色の瞳、形の良いお鼻、潤いのあるツルンとした唇……。
まさに、この世のものとは思えないほどの美貌をお持ちなのです。
ああ……!
将来は、どれほど気高い淑女になられることでございましょう。
このアデルレアンノ、今から楽しみでなりません!
「よくお眠りになりましたか?」
「うん……。あのね、ギル様の夢を見たの」
ほぅら、始まった。
お嬢様の朝は、大抵ギルフォード殿下の話題から始まるのです。
初めて参加なさった王宮の夜会で殿下にお会いしてからというもの、お嬢様の頭の中は、殿下のことでいっぱいなのですから。
「まあ、それは素敵でございますね。どのような夢をご覧になりましたの?」
「えっとね、ギル様がね、わたくしをお馬さんに乗せてくださったの! それでね、『シャルは、僕だけの可愛いお姫様だよ』って……」
うっとりとした表情で夢の内容をお話しになるお嬢様。
頬はほんのりと薔薇色に染まっていらっしゃいます。
あまりにも純粋で、一途なそのお心。
微笑ましく思いながらも、わたくしの胸の奥はチクリと痛むのです。
どうしてかと申しますと……。
オルムスウェル家とルドウィン国の王家――特にギルフォード殿下との間には、わたくしのような立場の者が軽々しく口にできない、複雑な事情が横たわっているからです。
お嬢様は、まだ何もご存じありません。ただひたすらに、憧れの王子様に恋い焦がれていらっしゃるのです。
……その無垢さが、時として危うく思えてしまう、わたくしなのでございます。
「さあ、お嬢様。そろそろお着替えのお時間でございますよ。本日は午前中にダンスのレッスンもございますから、しっかりと朝食をお召し上がりになりませんと」
「はぁい……。ねえ、アデル。今日のドレスはどれがいいかしら? もし、ギル様が突然、わたくしに会いにいらっしゃったとしても、恥ずかしくないようなのがいいわ!」
わたくしは苦笑しながら、クローゼットから空色のドレスを選び出しました。
殿下が突然いらっしゃることなど、まずあり得ないのですが……。
お嬢様の健気なお願いを、無下にするわけにはまいりません。
身支度を整え、朝食のためにダイニングルームへ向かう途中、廊下で厳しい顔をした執事とすれ違いました。
何やら、難しい書簡を手にしていたようですが、わたくしたちを見ると、慌ててそれを隠すように背後に回しました。
……また何か、良くない知らせでなければ良いのですが。
このお屋敷には、時折、重苦しい空気が漂うことがあるのです。
それは決まって、ルドウィン国の王家に関する話題が出た時――。
お嬢様がギルフォード殿下に心奪われていることを、旦那様や奥様は、複雑な思いで見ていらっしゃるご様子。
わたくしには、その理由が痛いほどわかる気がするのです。
かつて、このオルムスウェル家から、殿下の暗殺計画に関与していた者が、たった一名にしろ存在したという……あの忌まわしい過去のことを思えば。
お二人のお顔に影が差してしまわれるのも、無理のないことなのですから……。
お嬢様が、いつかその事実を知る日が来るのでしょうか。
その時、この純粋な恋心は、どうなってしまうのでしょう。
わたくしは、ただお嬢様の傍らに仕え、そのお心を見守ることしかできません。
そして、お嬢様がお望みになる限り、何度でも、何枚でも、〝憧れの王子様〟の絵を描き続けるのです。
たとえそれが、叶わぬ恋の幻を、この部屋に閉じ込めているだけなのだとしても……。
「アデル、見て! かわいい小鳥さんがいるの!」
廊下の窓にお顔を向け、庭の木を指さして、ふわりと微笑むお嬢様。
その無邪気な笑顔が曇ることのないように――。
今はただ、そう願うばかりでございます。
それから数週間が経ち、ルドウィン国の王宮では、久方ぶりに盛大な夜会が催されることになりました。
招待状が届いた日。
お嬢様は、初めのうち参加をためらっていらっしゃいました。
隣国の姫殿下であらせられるリナリア姫様も、ご招待されているとお知りになったからです。
お噂では、ギルフォード殿下はリナリア姫殿下に、たいそうご執心であらせられるとのこと。
そのお二人が揃うであろう場所に、足を踏み入れるのが怖かったのでしょう。
けれど、お屋敷に閉じこもってばかりいるお嬢様をご心配なさった旦那様や奥様、そしてわたくしの説得もあり、お嬢様は、ほんの少しだけ迷うような表情をお見せになりました。
「……ギル様は、必ずご出席なさるのよね……?」
ポツリとつぶかれた言葉に、殿下への強い想いが溢れていらっしゃいます。
――わたくしの胸は締め付けられました。
リナリア姫様にお会いするのはためらわれても、せめて、殿下のお姿だけでも拝見したいとお思いなのでしょう。
お嬢様をお励ましするためにも、わたくしは精一杯明るい声でお応えしました。
「もちろんでございますとも! 王室主催なのですから、必ずや、ギルフォード殿下もご出席なさいますわ。お可愛らしくドレスアップしたお嬢様をご覧になったら、殿下もきっと、お声掛けくださるはずです。――さあ、一番素敵なドレスを着てまいりましょう。わたくしが髪を結い上げて差し上げます」
その言葉に、ようやくお嬢様は小さくうなずかれました。
わたくしは腕によりをかけて、お嬢様の身支度を整えたのでございます。
淡いライラック色の、下ろし立てのドレス。
プラチナブロンドの髪には、銀糸の刺繍がほどこされたリボンを編み込み、首元には小さな真珠のネックレスを。
鏡に映るお嬢様は、まだお小さいながらも、息をのむほどお美しく、守って差し上げたくなるような可憐さを、たたえていらっしゃいました。
……けれど。
お嬢様の淡い恋心は、王宮のきらびやかなホールに足を踏み入れた瞬間、打ち砕かれることになるのです。
ホールの中央には、ひときわ華やかなご衣装に身を包まれたギルフォード殿下と、そのお隣でお幸せそうに微笑んでいらっしゃるリナリア王女のお姿がありました。
そして、王室楽団のファンファーレと共に、国王陛下が高らかに宣言なさったのです。
「皆、今宵は集まってくれて感謝する! 我が息子、ギルフォードと、ザックス王国のリナリア王女との婚約を、ここに正式に発表させてもらう!」
わああ……! と沸き起こる歓声と拍手。
祝福の言葉が飛び交う中、お嬢様は、まるで時が止まったかのように立ち尽くしていました。
小さなお体が微かに震えています。
みるみるうちに血の気が引き、アメジスト色の瞳から光が失われていくのを、わたくしは見ていることしかできませんでした。
「お嬢様……」
わたくしがお声掛けするよりもお早く、お嬢様はくるりと背を向けられ、わたくしの制止を振り切るようにして、ホールの喧騒からお逃げになりました。
人々の好奇の視線が、痛いほど突き刺さります。
オルムスウェル家のご令嬢が、王子の婚約発表の場で……。
そんなささやき声が聞こえてくるようでした。
わたくしは慌てて後を追いましたが、お嬢様は迷うことなく、月明かりが差し込む中庭へと向かっていきます。
その奥にある、白い東屋へ……。
そこは、お嬢様が王宮で開かれたパーティーに初めてご出席なさった時に、
「とってもステキな場所を見つけたの! アデルにだけ教えてあげる」
と、こっそり教えてくださった場所でした。
追いつくべきか、それとも、今は一人にして差し上げるべきか……。
迷いながらも、わたくしはお嬢様のお姿を見失わないように、そっと後を追いました。
東屋にたどり着いたお嬢様は、入り口でおみ足をお止めになりました。
中には、先客がいらっしゃったのです。
月明かりを浴びて、手すりに寄り掛かり、一人静かに夜空を見上げている少年。
それは、ルドウィン国第二王子であらせられる、フレデリック殿下でした。
フレデリック殿下もまた、どこか所在なげで、寂しげな雰囲気を漂わせていらっしゃいました。
「……フレデリック……様」
お嬢様のか細いお声に、殿下はゆっくりと振り返りました。
美しい青い瞳が、驚いたように少し見開かれます。
「……なんだ。オルムスウェルの小さなご令嬢か。……おまえも逃げてきたのか?」
そのお声には、いつものような刺々しさはありません。
むしろ、自嘲するような響きすら感じられました。
「おまえは確か、兄上に夢中だったものな。兄上の幸せそうな顔を見るのが、辛かったんだろう?」
続けられたお言葉に、お嬢様は唇をキュッと噛み締めました。
けれど、反論する代わりに、お気丈にもお訊ねになったのです。
「……フレデリック様こそ、どうしてこのような場所にいらっしゃるのですか? パーティーは、はじまったばかりですのに」
フレデリック殿下は、ふいっと視線をおそらしになりました。お嬢様にお返事なさるおつもりはないようです。
けれど、その横顔に浮かんだ一瞬の苦い表情を、わたくしは見逃しませんでした。
もしかしたら、殿下もまた――お二人のご婚約を素直に喜べない理由があるのかもしれない。
……例えば、あの太陽のように明るいリナリア王女に、淡い恋心を抱いていた、とか……。
そんな考えが、ふと頭をよぎりました。
気まずい沈黙が、お二人の間に流れます。
月明かりだけが、静かにお二人を照らしていました。
やがて、フレデリック殿下が、ポツリとつぶやきました。
「……べつに、おまえだけじゃない。まばゆいものに焦がれて、勝手に傷つく奴なんて。……掃いて捨てるほどいる」
それは、慰めとも、自嘲とも取れるようなお言葉でした。
「――ほら。くだらない感傷になんか浸っていないで、さっさと戻れ。みっともないぞ」
投げ掛けられるお言葉は、やはり乱暴です。
けれど、そのお声には……不思議な優しさがにじんでいるように、わたくしには思えました。
お気持ちを見透かされているようで、お嬢様は、なかなかお顔を上げられないご様子。
ハラハラしながらわたくしが見守っていると、ようやく――。
「……フレデリック様こそ、お戻りになればよろしいのに」
「うるさいな。……僕は、少し夜風に当たっているだけだ」
そうおっしゃりながらも、フレデリック殿下は、東屋から出て行かれようとはしませんでした。
代わりに、お嬢様のお隣にそっとお立ちになり、同じように夜空を見上げていらっしゃいます。
「……今夜は、星が綺麗だな」
思いがけないお言葉に、お嬢様はようやくお顔を上げ、殿下をじっとご覧になりました。
月明かりに照らされた横顔は、いつもより少しだけ大人びていらっしゃるように見えます。
そして、殿下の青い瞳の奥に、自分と同じ〝叶わぬ想い〟を抱えた者の寂しさを、感じていらっしゃるような気がしたのです。
共通する境遇、そして――叶わぬ恋。
オルムスウェル家とルドウィン国第二王子という、それぞれの複雑なお立場。
言葉には出さずとも、お二人の間には、確かな共感が生まれていらっしゃるようでした。
「……ええ、本当に。とってもキレイ……」
お嬢様のお声は、まだ少し震えていらっしゃいました。
ですが、そこには――先程までの絶望とは違う、穏やかな響きがありました。
初めて、フレデリック殿下に対して、心の壁が少しだけ取り払われた瞬間だったのかもしれません。
わたくしは、少し離れた柱の影から、そっとお二人を見守っておりました。
お嬢様の涙はまだ乾いておりませんし、お隣にいらっしゃるのは、もう〝憧れの王子様〟ではございません。
けれど、傷ついたお心をお抱えになった者同士、寄り添うように星空を見上げるそのお姿は、不思議と絵になっているように思えました。
今夜のささやかな出来事が、お嬢様の凍てついたお心を溶かす、新しい光となるのでしょうか。
今はまだ分からないけれど……。
ほんの少しだけ、そんな予感がした夜でした。
お屋敷に戻った後。
わたくしは、この夜の出来事を決して忘れぬことがないように、そっと日記に書き留めたのでございます。
お嬢様のお心に、いつかまた、穏やかな春が訪れますように――と、心から願いながら。
こちらは、【桜咲く国の姫君】の続編、【赤と黒の輪舞曲】のその後のお話です。
連載終了時、ギルの弟のフレディには可哀想なことをしたなと、ずっと気になっておりまして。ほんの少しではありますが、彼にも救いを……と考えた時に、思いついたのがこのお話なのです。
ですが……この二人がカップルになるとしたら、かなり先のことになってしまいますね。ますます可哀想なことになってしまったか? と思わないでもありませんが……。
作者にとっては、お気に入りの一作になりました。
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