哀しく儚い方への重力
底辺作家の創作論を開陳しても需要はないだろうが、奇特な人よ聞いてくれ。
私は、遅筆な方で、何十分もタブレットと睨めっこし、小説を読み、漫画を読み、本業を進め、そうこうしているとようやく一枚のイメージがぼんやり浮かび上がってくる。
そのイメージは夢みたいなもので、油断するとすぐに忘れてしまうから、急いでメモを取る。そのメモをもとに人物と状況とが動き出すのだが、彼らはプロットのガードレールを突き破って必ず転落死してしまう。
私の書いたものの中ではなぜか、世界が滅びるか主人公が死んでしまう。
見えない重力場に囚われるように、どんな設定を作っても哀しく儚い方へ引っ張られていってしまう。政策課程論の用語に「経路粘着性」というものがあるそうだが、そんなことを繰り返すうちにこの傾斜はますます強化されていった。
私だって無駄に悲劇だ終末だを描きたい訳じゃない。けれども、ハッピーエンドというものを思い浮かべるとどうしても嘘くさいと思ってしまう。なるほど、人生で幸せな時期というのがあるとしよう。けれども、それは必ず終わりあるものだ。だから、ハッピーエンドとは切り取り報道に過ぎない。
現実は、総合的に見れば哀しく儚いものである。そのことが真実とどこかで信じているから、私はハッピーエンドを描けないのかもしれない。
一体、創作にまで散文的で非情な(お前の信じる)現実を持ち込んでどうするのだという声がする。せめて楽しい空想を用意すべきじゃないか、切り取り報道などというレッテル貼りをやめて、一連のプロセスの中の輝きにこそ目を向けるべきではないかと。
私の心はやはり冷めているのだと思う。これは優越でも劣後でもなく扱える事柄の種類を意味する。私が幸福を扱うと火傷をする。そういうものを扱うには耐性が足りないし、それ用の消化酵素をいつからか持ち合わせていない。
いくら美味しいからと猫にチョコレートを食べさせる人はないだろう。
そういうものは毒となって死に至る。
私は高所恐怖症だ。幸福感というものは、降り始める前、急な角度でガタガタを音を立てて登っているジェットコースターのように感ぜられる。いつでも落下して、私をペシャンコにしかねない位置エネルギーが私の認識するそれだ。
あるいは、香りがよく味がよく、愉しんでいる時はよいが、家に帰ってトイレに頭を突っ込んで延々苦しみ続けなければならない類の強い酒だ。吐くのは嫌いだ。
そういうものをそういうものと分かって愉しむ強さはどうにも持ち合わせない。
だから、これ以上落ちない底の底に安心したいのだろう。
この感情は、イデアに憧れてどこまでも登っていくエロースではなく、アパテイアか、もっと言えばニルヴァーナを求める、求めるというよりそこに降着していく仏教的な心の動きに近いかもしれない。
そういう際限なき沈下への憧憬というより懐かしさが、私の書いたものを軒並み引き摺り下ろす。捕らえて安らかな場所へ引っ張り込む。
飽くなき膨張を是とする資本主義国家に生まれ、養われた身としては不義理で申し訳ないのだが、何かを痛烈に求めるということはあまり心当たりがない。
もしこういう人間が増えると、旧来、サービスとは与える事であったのが、奪い取り除くことがサービスとなる日が来るかもしれない。
退職代行、家事代行、育児代行、墓掃除代行、就活代行、人事代行、研修代行。これらはその萌芽かもしれない。けれども、これらは資本主義の上昇的哲学にまだ符合する。なぜなら、サービスによって生じた間隙に他の何かが流れ込む展望がある限りで、これらは、時間その他を「与える」サービスだからだ。
真に下降的哲学の需要に適えるサービスが生ずるとしたら、それは人間をより空虚に近づけること自体を、人間に不断に流入するものをシャットアウトし、デトックスすること自体を目的としたものであるはずなのだから。
星新一先生のある短編(題は思い出せない。残念ながら)に、記憶を消して一切の情報のない(ワインボトルのラベルの文字さえない!)場所で静養するという場面があったが、ああいうビジネスが流行る日が来るのかもしれない。一切の電磁波を遮断する建物の中でゆったり過ごせ、その間の一切の事務を代行するようなサービスが。
そう言えばホテルで医学的サポートの下、気軽に(?)断食を体験できるサービスがあるらしい。
あるいは、生前葬などというものはある種の清算であって、人間の下降的欲求を満たすかもしれない。墓じまいとか年賀状じまいとかもそう言おうと思えば言えなくもない。
結局、端的に言えば、我々は疲れたのだと思う。
私のような人間が生じてくるのは、けれども、人類の終末だとは思わない。ヘレニズムなり末法思想なり、歴史上、こういった思想は繰り返しているのだ。産業革命以来、頑張り詰めであった人類が、ここらで小休止して次のもうひと頑張りに備えようとしている。
それが悟り世代に表象される一連の事象なのではないかと思う。
悪酔いして二度と酒は飲まんと誓っておきながら、美味そうな酒があると手を伸ばし、手痛く失恋してもう一生独身貴族を貫くと言っていた奴から結婚式の案内が送られてくるのも人間の性分の真実の、少なくとも一断片だ。何物も貫徹しないのだ。
人類のバイオニズムがこのまま停滞期に入るのか、何かの原因で再び急速に高揚するのかは分からない。
哀しく儚い方への重力は多分気まぐれに、我々を捕らえたり解放したりする。