広がる距離
教室はいつもと変わらなかった——同じようなざわめき、時計の規則的な音、いつも通りの日常を過ごす生徒たち。それなのに、理香にとってはどこか違和感があった。
いつからかははっきり覚えていないが、高橋蓮の様子が変わっていた。
もともと彼は特に話し好きなわけではなかった。むしろ、必要以上に会話を交わさずに隣にいるという暗黙の了解は、二人にとってちょうど良かったはずだ。
しかし最近、彼はそれ以上に距離を置いているように感じた。
避けられている。
ここ数日、彼が彼女の方に目を向けることは一度もなかった。理香が動いても、彼の視線は決して自分に向かない。荷物を取るときに腕が少し触れても、彼はほとんど反応しなかった。まるで突然、彼女が彼にとって見えなくなったかのようだった。
そして理香は、それがなぜか気になってしまう自分に戸惑っていた。
気にしたくなかった。そもそも、これが理香の望んだ関係ではなかったのか?噂もなく、無駄な関わりもなく、自分の評判を守れる。
けれど今は違う。
意図的な気がして、苛立たしかった。
偶然聞こえた会話
その日も他の人たちにとっては普通の日だった。
けれど理香にとっては、いつもよりも蓮の存在が気になっていた。
だからこそ、普段なら気づかないようなことにも目が向いた。
彼が、誰かと話していたのだ。
授業前のざわめきの中、生徒たちがいつものグループで集まって談笑しているとき、理香は友人たちと軽い会話をしていた。だが、近くから聞き慣れない声が耳に入った。
「お前、いつも机に座ってるよな。たまには日光浴びろよ、高橋。」
理香はほんの少しだけ顔を向け、声の主を確認した。
林大輝。
クラスで特別目立つわけではないが、蓮よりはずっと社交的な、話しやすいタイプの男子だった。
蓮は肩をすくめただけで答えた。「別に構わない。」
「そう言いながら、窓の外見つめて五分は経ってるぞ。逃げ出したいって正直に言えよ。」
蓮の口元にかすかな笑みが浮かんだ。「かもな。」
大輝は笑って首を振った。「ほんと、お前は無理だな。」
理香はそのやり取りを驚き混じりに見つめていた。
蓮は無表情でもなければ、冷淡でもなかった。ただ、彼が関わる相手を選んでいるだけなのだと気づいてしまった。
その気づきは、思っていたよりも長く彼女の心に残った。
変化した日常
昼休みのベルが鳴り、自由時間が始まったとき、蓮が立ち上がった。
それだけで異変だった。
蓮は昼休みに教室を出ることは決してなかった。これまで一度も。
けれど今日は何も言わずに、バッグを肩にかけてドアに向かって歩いて行った。
その行動が何故か彼の意思表示のように思えた。
理香はわずかに眉をひそめた。
関係ないことだと自分に言い聞かせた。けれど、数日前の出来事が頭をよぎる。——彼が自分に視線を向けなくなったこと、最後の会話の後にさらに距離を取るようになったこと。
あの時、彼に言った言葉が原因なのか?
気にしないと言い聞かせても、ドアの向こうに消える彼の背中を見つめながら、無意識にペンを強く握りしめている自分に気づいた。
静かな変化
日々は同じように過ぎていった。
蓮は相変わらず距離を保ち、大輝と時折会話を交わすだけで、それ以外はますます閉ざされたように見えた。
理香はそれに気づかないふりをした。
けれど、二人の間に何かが変わったという感覚は消えなかった。
そして、それが心のどこかで嫌だった。
ある日の放課後、終業のベルが鳴り、理香が席を立とうとしたとき、蓮が目に入った。
彼はもうドアのところに立っていて、バッグを持っていた。
いつもと同じ光景。
ただ、今回は違っていた。
彼はドアを出る前に、ほんの一瞬だけ振り返り、理香と目が合ったのだ。
それは一秒もなかった。
そして、何事もなかったかのように、彼は去っていった。
理香はその場に立ち尽くし、机の端を握りしめていた。
彼が彼女を見たのは、ここ数日で初めてだった。
そして彼女は初めて、彼が目をそらさなければよかったと思った。