7.体調不良
次の日、ボクは目を覚ましてすぐに辺りを見回し、声を出した。そして、文字や声から色が出ないことに気がつく。
「あぁ、よかった」
ボクはホッと胸を撫で下ろす。正直なところ、ボクは昨日のカラフルな世界に疲れてしまっていた。お母さんが喋っても、お父さんが喋っても、宿題をしていても、ゲームをしていても、常に関係ない色が目に飛び込んでくるのだ。見たくもないのに延々と。
途中でボクは気が滅入ってしまい、大好きなゲームもそこそこにベッドに潜り込んだ。それでもどこまでも追いかけてくる色、色、色。目を閉じてたって頭の中に浮かんでくる。気を抜くと、頭がおかしくなって叫び出してしまいそうだった。だけど、それをしなかったのはユウマの「他人の世界に飲み込まれるな、バカ! しっかりお前自身を保て、バカ!」という真っ赤な警告の声が蘇ってきたからだ。
「うん。飲み込まれないよ。ボクは、ボクだ」
ボクはユウマがまるで目の前にいるように、言葉を呟いた。
そして迎えた朝。ボクにはもう色が見えない。カーテンを開けるとどんよりとした雲がボクにおはようと声をかけてくる。今日も傘を持って学校に行かないと。
早めに起きたボクはTシャツとショートパンツに着替え、今日の授業の教科書がびっしりと入っているランドセルを背負い、リビングのある一階へと降りる。空調のない階段も廊下もすごく蒸し暑かった。
「あら、ツバサ。今日は早起きなのね。お父さんもまだ起きてないのよ」
お母さんが台所に立ちながら、ボクの姿を見て、驚きの声を上げる。炊けたご飯の良い香りがした。
「うん。学校に行く前にユウマの家に寄ろうと思って」
ボクは椅子に腰掛けながら、お母さんの問いに答える。フライパンからベーコンと目玉焼きが焼ける音がする。その音に反応して、ボクのお腹はギュルルルと音を立てた。
「そうなの。お母さん、ツバサとユウマくんが前みたいに仲良くしてくれてとても嬉しいわ。……だけど、こんなに朝早くに訪ねて、迷惑じゃないかしら」
お母さんはしゃべりながら、手際よくお皿にベーコンとカチカチの目玉焼きを盛り付ける。ボクの家はダイニングキッチンになっているため、お母さんの動きは手に取るようにわかるのだ。
「多分、大丈夫だと思うけど」
「本当に? ユウマくんに迷惑かけないようにね? ……はい。本当は早起きしたお母さんの分だけど、ツバサに特別にあげちゃいます」
と言うが早いかお母さんはお盆にお味噌汁、ベーコンと目玉焼き、ご飯を乗せ、ボクの前に並べる。
今日のご飯は格別に美味しい感じがした。ご飯を食べても色が見えないからだ。
朝食がすむと、ボクは勢いよく外へと飛び出した。じめっとしてまとわりついてくる湿気も、走る感覚も、なんだかとても心地がいい。
——それはきっと、誰かの世界でモノを感じているのではなくて、ボク自身の世界でモノを感じているからなんだ。
「よっす。調子はどうだ?」
玄関から出てきたユウマの表情はやつれ切っていた。
「それはこっちのセリフ。顔色が悪いよ。どうしたの?」
「あー……。昨日の夜、見えたもの全てに『味』を感じて寝れなかったんだ。布団のふわふわはわたあめで、暗闇はピーマンみたいな味がして……口の中がかなり気持ち悪かった」
ユウマはわざと顔を顰め、舌を出した。わたあめの甘みとピーマンの苦味が混じった味を想像してみる。
「それは、キツイね」
「ま、自分じゃない感覚が流れ込んでくるのはいつものことだから。……てか、こんな朝早くにどうしたんだよ」
ユウマは、立ち話もなんだし上がれよ、とお母さんたちがよく言うような言葉を言いながら、ボクを家の中に招き入れてくれた。
玄関ドアが閉まる途中で、ゴォーッと音を立てながら生ぬるい風が吹き抜ける。今日はすごく風が強い。今の風の色が見えたならきっと、灰色だ。
ボクはまたまたユウマの部屋にお邪魔する。ボクは改めてユウマの家の中を注意深く見た。昔ボクが訪れた時とほとんど変わっていない。だけど、一つだけ変わっていることがあった。
廊下や階段、至る所に飾られていた写真が外されていたのだ。ユウマ家族の東京旅行の写真、ユウマが作文コンクールで一番になった時の写真、ユウマのお父さんとお母さんとのツーショット、全ての写真が外されている。
ジメジメと蒸し暑いはずなのに、しんとした階段が冷え冷えと深い影を落とす。物静かな廊下と階段を歩き、ボクたちはユウマの部屋に入り込む。家の中は誰の気配も感じられなかった。
「母さんはまだ寝てるんだ。夜遅くまで仕事だったから」
ボクの心を見透かしたように、ユウマが先回りして答える。そうなんだ、とだけしか言えなかった。どうして仕事始めたの?とか、夜遅くまでってなんの仕事してるの?とか、聞けなかった。なんとなくなんだけど、聞いたらユウマが困ってしまような気がしたから。
ユウマとまた仲違いをしたくなくって、妙にユウマに気を遣ってしまう癖がついてしまったようだ。
「それで、世界はどうなった? 前のように戻ったか?」
ユウマがジオラマを机の上に置いて、尋ねる。ボクは頷いた。
「ツバサの場合は、寝る、または、感覚の持ち主に触れることで世界が戻るんだろうな。そして、ツバサの中に流れ込む世界はたった一つだけ」
ユウマの部屋も薄暗かった。カーテンが開いていて、電気も付いているのに暗いのは、このどんよりした天気のせいだろう。
「今日も触ってみる? それともやめとく?」
自然な動作でユウマはジオラマをツバサの方へと動かす。ボクはじっと不思議なジオラマを見た。今日のジオラマは真っ白な壁紙と床に囲まれ、真っ白なベッドがただ一つ中央に置かれているシンプルなものだった。
余分なものはなに一つ置かれていないスッキリとしたその部屋は、白で明るく見えるはずなのに、どこか陰鬱な空気をはらんでいるようだった。
ボクは思わず体を反らせた。ジオラマの重苦しげな雰囲気がボクを襲ってくるような気がしたからだ。どんよりとした部屋と置かれた陰気臭いジオラマにボクの体が溶け込んでいく。その感覚が気持ち悪くて、ボクはジオラマに触れた。この陰陰滅々たる臭いから逃れられないと感じたのだ。
世界がぐらりと揺れる。右に左に、上に下に、くるくると視界が巡る。
あぁ、やばい。座っているのもキツい。
ボクは耐えられなくなって、ローテーブルの上に突っ伏す。世界がグラグラと回る感覚と、吐き気が同時に襲いかかってきた。目の前に黒雲が立ち込めたみたいだ。
この感覚は一体、何? クラクラして、ゾワゾワして、体がドッと重くなった。起き上がってるのも、座っているのも、目を閉じているのですら辛い。この感覚は一体、何?
ボクは感覚の不愉快さに加えて、覆い被さってくる空気の重さで押しつぶされそうだった。
ユウマが慌ててボクの横に並んだのがわかった。ユウマがボクの背中をさする。伏した顔を横に向けると、心配そうな表情をしたユウマの顔が目の前に飛び込んできた。
「冷や汗がやばいぞ。大丈夫か?」
ボクは今の自分の体調を口にしてユウマに伝えるのは困難だとすぐに悟った。声を出すのも苦しかった。そしてボクはなんとも形容し難い体調の悪さをユウマにバレたくなかったのだ。机に突っ伏している時点で、体調が悪いのは一目でわかるのだけど。
ユウマはボクの背中を優しく撫で続けた。そして、他人の世界に飲み込まれるなよ、と言って、子供の頭を優しくポンポンッと叩くくらいの強さで、ボクの背中を叩く。
「他人の世界に飲み込まれる……」
ボクは独り言のように言うと、突っ伏したまま、やはり黙って思考を巡らせる。ユウマに現状を話したくないのも、具合の悪さも、他の人の感覚、ボクの感覚じゃない。わかっていたはずなのに、ジオラマに触れるたびにわからなくなる。このままユウマのベッドに潜り込み、寝てしまいたい。だけどボクは、目を閉じていてもグルグルと回り続ける暗闇の中で、意を決した。
「ごめんね。ずっと黙ってて。また世界に飲み込まれてたみたいだ」
ボクは顔をあげて、ユウマの瞳を捉える。ユウマは優しい手つきを止め、そっと距離を取った。ボクは大きく息を吸うと、溜め込んでた悪いものを体から押し出すように話し始めた。ユウマは口を挟むことなく、真剣な顔つきで黙ってボクの現状を聞いてくれた。
話し終えると、ボクの心はスッキリしていた。鬼ごっこで鬼から逃げ切った時のような爽快感がある。全ての心の膿を出し切ったような感覚になる。ボクはずっとずっと、自分の体調の悪さを誰かに理解して欲しかったのだ。
「ナオユキの感覚だろうな」
「ナオユキくん? 授業中だろうが、休み時間だろうが、いつでも寝てる日比野ナオユキくん?」
出窓についたカーテンがパタパタと揺れていた。目眩や気持ち悪さにもだいぶ慣れ、なんとか起きていられそうだ。
「あぁ。多分な」
「なんでわかるの?」
「小二の頃だったかな。ナオユキが具合悪そうにしててさ、大丈夫かって聞いたんだ。そしたら、今のツバサと同じような反応をしたんだよ。それと、お前が突っ伏してる時の背中、まんまナオユキだったぜ」
まんまナオユキだったぜ、と、ユウマはバカにしたように、でもどこか苦しげに言ったので、ボクは口をつぐんでしまった。ボクはなんだかナオユキくんも気の毒なように思えてきた。
ユウマの部屋である程度休んだ後、ボクはユウマに支えられながら、学校へ向かった。一人で歩くのでさえ、辛かったからだ。支えられた体でボクはぼんやりと景色を眺める。
学校に近づくと生徒たちがどんどんとボクたちのことを抜かして歩く。多分、同じクラスの人もいた。だけど、彼らはボクたちを横目で見るだけで、声をかけはしなかった。
ボクはホームルーム直前に教室に入ってきたナオユキくんを注意深く観察した。一番前の窓側の席にナオユキくんは座る。座って間もなく、猫のように背中を丸めて、机の上に突っ伏してしまった。今までナオユキくんを見ても何も感じなかったけれど、彼は乾いた枯葉のように萎れていると、ボクは思った。彼から生気を感じられないのだ。
ナオユキくんは授業が始まっても、ぴくりとも動かず、机の上で寝ている。一息一息が台風に怯えて震えている子供のように小さく、か細い。今のボクは彼の辛さがよくわかる。痛くて、苦しくて、気持ち悪くて、たまらないのだ。
しばらくナオユキくんを観察していたが、一時間目が終わる頃にはぐるぐると目まぐるしく回る視界に耐えられなくなって、ボクはナオユキくんに触れた。そして倒れてしまうほどの吐き気を催し、ボクの中からナオユキくんの世界が消えた。




