6.世界に飲み込まれる(2)
「ユウマ!」
ボクはすぐさま駆け寄る。ちなみに、ボクの声の色は黄色と赤だ。注意や警告のマークのような色をしている。
ボクは力持ちとは反対側にいた。瞬発力はある方なのでスポーツは得意だけれど、こと力比べや腕相撲になるとからきしダメであると、ボクは認めている。そんなボクが、ガタイのいいユウマを突き飛ばすなんて、ありえないことだ。
「ユウマ、ごめん。ボク……ボク……」
「いいよ、別に。暴走が止まったみたいだし」
ユウマはぶっきらぼうに言って、体勢を立て直す。
「暴走……?」
「あぁ。たまにあるんだ。他人の世界が俺の世界を超えて、俺ごと他人の感覚が乗っ取ってきて、無理やり突っ走らされることがさ」
ボクはわかったようなわからないような変な気持ちだった。
「つまり……?」
ユウマはため息を吐いて、
「だからさ、ツバサは今、誰かの世界とシンクロしているわけだけど、その誰かの感覚を通じて絵を描きたくなった……違うか?」
ボクはコクコクと頷く。ユウマはボクの今の世界が見えているわけじゃないのに、どうしてわかるんだろう。もしかして、透視ができる人の世界とシンクロしているのかもしれない。
「そして、ツバサは描きたいっていう衝動を抑えきれずに、暴走した」
「暴走ってほどじゃ、ないけど……」
ボクはそう言いながらも、暴走という表現はまさに正しい気がした。
「自分の意思で自分の行動を止められなかったんだろ? それは十分暴走だよ」
ユウマがボクを諭す。ユウマの表情はとても硬くて、いつもよりもずっと大人っぽく見えた。ユウマが難しい言葉をたくさん使ってるからっていうのも理由かもしれないけど。
「それで、今、衝動は落ち着いたのか?」
ボクはボクの手のひらを見つめて、
「うん。大丈夫そう」
「よかった。感覚の暴走は意識がほんの少し逸れるだけで、自然と収まるんだ。コレ、俺が何日もかけてわかった事実ね」
ユウマが満足げに鼻を鳴らして、にやりと笑う。
「ありがとう。ユウマがいてくれなかったら、ボク、色に飲み込まれてた気がするよ」
ボクは深いため息をつく。ゆらゆらと揺れる吐息の色は落ち着いた青色だった。
「なんでかわからないんだけど、言葉や文字に色が見えるんだ。今のユウマの言葉は緑色。ボクの言葉は青色に興奮のオレンジがほんのりと混じったような色だ」
ユウマはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「共感覚、だな」
ユウマはさらに言葉を続けた。
「俺もそうなる時がたまにある。音楽を聴いているときに、色のついた線が見えてその線が金属の球体になったりすることもあれば、ご飯を食べている時に砂糖の味に丸を感じたり、シナモンに尖った槍のようなものを感じたりすることもある。もちろん、ツバサのように文字や音に色を見るときもある。……こんな風に一つの感覚刺激から、複数の感覚が引き起こされることを『共感覚』って言うらしい」
ユウマの難しい言い回しと、難しい言葉を聞いて、目に映る色がぐちゃぐちゃに混ざって胸がざわついたので、ボクは目を閉じながら、「なるほど」と呟いた。
「つまり、ボクは今、共感覚を体験しているってこと?」
「あぁ。そういうことになるな」
「共感覚って、大変だね」
目を閉じているというのに、暗闇の中に色が煌めく。目を開ける覚悟はまるでなかった。
「大変だと思う。……だけど、ほとんどの人間は他の人間と世界を共有しない。だから、自分が大変な感覚を持っているってことに気がつかないのかもしれないな」
「……そうなのかな」
「そうだよ。たくさんの人間の世界を共有している俺が言うんだから間違いない」
黒色に近い赤色の言葉でユウマが言い切る。多分、自信満々なんだ。
「たしかに、ボクも感覚が変わるだけで、世界がこんなにも変わるなんて思ってなかったし、ユウマの言ってることは正しいのかも」
「ていうか、お前、大丈夫か? ずっと目、閉じてるけど……」
「あぁ。うん。目を開けるといろんな色が見えちゃうから、目を閉じている方が楽なんだ」
「そっか。……ここ二日のツバサの様子を加味すると、『寝る』か『感覚の持ち主に触れる』かで元の感覚に戻ると予測できる。『感覚の持ち主に触れる』っていうのは今日は無理だろう。だから、今の感覚を消すためには寝るしかないわけだけど……。それまで耐えられそうか?」
声から発せられるほのかな紫の色が、瞼の裏でゆらゆらと揺れる。心配していることが手に取るようにわかった。
「うん。大丈夫だと思う」
「よかった」
ユウマの声が安心感を表す緑色に変化した。
「それにしても、すごいね。共感覚を持ってる人たちが見えている世界とボクが見えている世界は全く違う。同じ日本、同じ地域、同じ場所に生きているのに、本当に別世界にいるみたいだ。こんな色だらけの中で生きていくなんて、大変だなって思うよ」
「そうだな。……でも、生まれた時からその世界しか見えていないなら、何も問題ないんだよ。その世界しか見えてないってことは、それがソイツの『当たり前の世界』になるわけだから。……だけど、俺やツバサのように他の奴らの世界を共有した瞬間、その『当たり前』が崩れる。否応なしに、自分の世界が客観的に見られるようになってしまう。自分の見えている世界がいかに大変だったか、他人がいかに大変なのか、がそこで初めてわかるんだ」
「そう、なのかな……」
「そうだよ」
「ねぇ、あのさ、話は全然変わるんだけど、聞いてもいい?」
ボクは目を閉じたまま、首を傾げてみる。
「なんだよ」
「ユウマさ、なんか、口調が変わったよね。難しい言葉たくさん使うし。ユウマと喋ってると、なんだか、その……大人と喋ってるみたいだ」
ハッと息を呑むユウマの吐息が聞こえた。
「……言われるまで、気が付かなかった。そう、かもしれない。頭の中に思考と言葉がどんどん流れ込んできて、俺の言葉が俺の言葉じゃなくなるんだ。あぁ……。そうか、世界は言語にも影響するのか……」
絶望の黒が見える。あぁ、ユウマ。ユウマはすごく苦しんでいるんだ。
ボクは目を開けて、ぎゅっとユウマを抱きしめた。そうしなければいけない気がした。ユウマは驚いてボクの顔を見る。ボクは笑った。
「見えてる世界が変わっても、言葉が変わっても、ユウマはユウマだよ。ボクの見えてる世界が変わったって、ボクがボクなのと同じように、ね」
ボクは優しいパステルカラーの言葉を口から出すように柔らかく言うと、ユウマから体を離した。ユウマは目をぱちくりとさせている。ほんの少しの間のあと、ユウマの顔がカーッと赤くなった。
「おい! 急に抱きつくなよ、気持ち悪い!」
「え、あっ、ごめん」
「……ま、今回は特別に許してやるよ。その代わり、これからは突然抱きついたりするなよ」
「うん。ごめん」
ユウマは肩をすくめ、ボクは頭を下げる。その様子がなんだか面白くて、ボクたちは笑い合った。ユウマが変わってしまう前の関係に戻ったようだ。ボクたちの笑い声に呼応して、黄色の煌めきがパチパチと弾ける。心地がいい。このまま、また、ユウマと前のように仲良くできたらいいのに。
「ツバサー、ユウマくーん!」
お母さんの声と、お母さんの足音が同時に聞こえた。時計を見るとちょうど五時だった。ドアを小さくノックしながら、お母さんがドアをほんの少し開けて、ひょこりと顔を出す。
「もう五時なんだけど、ユウマくんどうする? 家に帰る? それとも、ウチでご飯食べてく?」
「ユウマ、ボクん家で食べてきなよ! そっちの方がボクも楽しいし!」
ボクは嬉々としてお母さんの言葉に乗っかった。ユウマと夕食を取るなんて、どれくらいぶりだろう。けれど、ユウマはボクの期待に反して首を左右に振る。触れれば消えてしまう雪のような切ない色が見えた。
「ごめんなさい。流石にそこまでお世話には、なれないです。今度お母さんに許可を得てから来るので、その際はお世話になります」
そう言うと、ユウマはお辞儀をしてジオラマを手に取り、ボクの部屋から出ていった。お母さんは顔を不安そうに歪め、そして、ユウマを追う。ボクも慌てて後を追った。
「それじゃあ、お邪魔しました。ツバサも……その、さっきはサンキューな。また明日、学校で」
ユウマは玄関で丁寧に靴に履き替え、再び深々とお礼を言う。そうして、ユウマが去った。シンっと辺りに静かさが深まる。
「ユウマくん……きっと、お母さんがいなくて寂しいのね。可哀想に……」
お母さんは青と黒が混じった声を出し、玄関ドアを見つめていた。




