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5.世界に飲み込まれる(1)

 


 放課後、ボクとユウマはボクの家に集まっていた。ユウマの家にはユウマのお父さんもお母さんもいない。そんな中でユウマがまた倒れたら大変だと思って、ボクの家に集まることにしたのだ。


 ボクの部屋の窓から雲ひとつない青空が見える。昨日の天気とは真反対の清々しいほど美しい景色。ボクは緑や青が美しく見えることに心から感謝しながら、ユウマとテーブルを挟んで向き合う。


「つまり、リオと触れ合ったら、リオの感覚が消えた……と」


「うん。ボクもびっくりなんだけど、そうみたい。一瞬、リオちゃんの強い感覚が襲ってきたと思ったら、ボクの中からリオちゃんの感覚が消えてなくなったんだ」


 ユウマはお母さんが先ほど用意してくれたオレンジジュースを口にしながら、


「だから、俺も手当たり次第いろんな人に触れれば世界が元に戻るかもしれない……ってことか?」


 と、鼻で笑って聞いた。


 ボクは前のめりになりながら、


「うん。ユウマの話では、ユウマの世界は頻繁に形を変えるんでしょう? まるでユウマの知り合い全員の世界がユウマの中に入ってしまったみたいに。それってかなり辛いと思うんだ。ボクはリオちゃんに触れることでリオちゃんの世界が無くなった。ユウマも試してみる価値があると思うんだ」


「うーん。どうかな」


 と言って、ユウマはオレンジジュースの入ったグラスをテーブルに置いて、腕を組む。


「してみるだけ、してみようよ。ボクも手伝うからさ」


 ユウマは真っ直ぐにボクを見ると、身を乗り出し、ボクの顔を両手でべちんと挟む。


「うわっ! 何するんだよ!」


「触れてみたんだよ。きっと、有象無象に俺の中に入り込んでる世界の中に、ツバサの世界もあると思うから」


「えっ、そうなの?」


「おう。多分、俺が今まで知り合ったことのある奴の世界が俺の中に入り込んでるわけだからな。当然、ツバサの世界もあるだろう」


 ボクは「たしかに」と簡潔に頷いた。だけど、ユウマにボクの世界をのぞかれていると思うと、少し恥ずかしい。


「それで、どう?」


 ユウマは無言だった。腕を組んで考えるという元の体勢に戻り、目を閉じている。いかにも、感覚を研ぎ澄ませて、感覚を味わってますよ、というポーズだ。ボクは唾を飲み込みながら、ユウマの言葉を待つ。


「なんも変わらん」


 出てきたのは期待外れの言葉だった。


「そっかぁ。うーん、名案だと思ったのに」


「こんなんで解決してたら苦労しないさ」


「それもそうか」


 ボクたちの間に沈黙が流れる。ユウマがオレンジジュースを飲むたびに、コロンという氷の夏らしい音が響いた。


「あ……」


「ん、ツバサどうした?」


 不意にボクはジオラマを見た。ジオラマの中のミニチュアが変わっている。ボクは目を擦った。擦ってもジオラマの姿は変わらない。中上リオの世界から、他の人の世界に更新されたのである。


 ボクは目を細め、用心深くジオラマを見つめてみる。ボクはユウマの視線を感じつつ、黙ってジオラマを見続ける。


 色の海だ。赤、黄、オレンジ、緑、青、水色、紫、ピンク……。彩り豊かな美しい色たちがジオラマの中で調和している。ボクはジオラマに触れたくなった。カラフルなジオラマは、ボクの胸を色の煌めきで充満させる。ジオラマの箱が、ジオラマの中にある絵画を際立たせるための額縁のようにも見える。


「もしかして、ジオラマが朝と違って見えるのか?」


 ユウマの問いに頷く。ユウマが立ち上がり、繊細で美しいアート作品のようなジオラマを机の上に置いた。


「さぁ、触れてみろ」


 言われるまでもなかった。ボクの手はユウマが言葉を発する前に、ジオラマへと伸びていたのだから。


 ふわりと風が舞う。辺りを見回す。何か不思議なものを見ているような感覚に襲われる。


 触れてコンマ一秒もかからないうちに、目の前の世界が鮮やかに染まった。ユウマのプリン頭の色も、机の茶色も、ボクのカーテンの青も、いつも見ている色より濃い。色鮮やかで、そして、美しい。視界に映る色の群れがパチッ、パチッ、と輝いて弾ける。


「どうだ?」


 ユウマの声に色を見た。深い紫色だ。疑い、ボクの様子を窺っているような紫色。


 中上リオの時との感覚とは違う。ボクはなんだか妙にこの感覚が気に入った。


 世界が無数の色を持つ。壁に貼ってある九九の数字に色を見る。1は赤、2は青、3は黄色……。九九の計算式を一つの塊として見ると、『9かける3』は緑だ。


 面白い。ボクは立ち上がってかっこいいドラゴンが描かれた真っ黒のランドセルを開き、算数の教科書を取り出す。教科書の算数という文字は黒で書かれているはずなのに、青色に見えた。


 もしかして全ての文字に色がついてるんじゃ……。


 ボクは思いつき、教科書をパラパラとめくる。数えきれないほどの色がボクに飛び込んできた。


 数字と一緒で『あ』は橙、『か』は赤、『ん』は藍色と、文字ごとに色が違う。文字を一塊の語句だと認識すると文字の色がぶわりと変わる。今やっている『三角形と四角形の角』という単元は、茶色の塊として見える。


 ボクの気持ちがざわざわと騒ぎ、落ち着かない気分になってきた。


 本当にたくさんの色がボクの回りをぐるりと囲んでおり、ボクはそこに立っていると、何か描かなきゃいけないような、駆り立てられるような、そわそわと止まらない好奇心が、ボクに襲いかかってきているような気がした。見えない誰かが色を通じて、ボクに何かを訴えてきている。


「あぁ、描かなくちゃ」


 ボクはだれにともなくつぶやいた。


 ランドセルを漁り、方眼ノートを出す。本当は無地の自由帳が良かったけど、持っていなかったから、方眼がすでに書かれているノートで我慢をした。


 ボクは勉強机に座り、筆箱から鉛筆を取る。その瞬間、手が勝手に動く。指で、手のひら全体で、手首を使って、思いつくままに描く。


 楽しい。絵を描くことがこれほど楽しいなんて知らなかった。こんなに楽しいこと、どうしてボクは今までしてこなかったのだろう。こんなに楽しい時間を知ってしまったら、ボクはもう元の生活には戻れない。友達と遊ぶよりも、勉強するよりも、ずっとずっと楽しいんだもの。描きたい。描き続けたい。なにを差し置いてでも。


 ボクの体は熱を帯びて暑い。くらくらとめまいがするようだ。


 ボクの動きを止めたのは、やはりユウマだった。後ろから抱きつくように、ボクを羽交締めにする。


「ユウマ、離して。今、すごくいいところなんだ!」


「他人の世界に飲み込まれるな、バカ! しっかりお前自身を保て、バカ!」


 思いもかけず、ユウマに罵倒されたので、ボクのお腹がなんだかカーッと熱くなった気がした。さっきまで感じていたくすぶる熱とは違う、怒りの熱さだ。だって、ユウマの言葉がびっくりするほど濃い赤なんだもの。ボクの心は簡単にその赤にやられてしまう。


「バカって何だよ! ボクはバカじゃない!」


「他人の世界に飲み込まれてる時点でバカなんだよ、このバカ」


「他人の世界ってなんだよ! ボクはボクに見えるこの色を、色の訴えを表現したいだけなんだよ!」


「それが世界に飲み込まれてるっていってんのがわかんねぇのか、バカ!」


「あぁ、もう! 眩しい眩しい眩しい! 目がチカチカする!」


 ボクは思いっきり、ユウマを振り解く。ユウマが話すたびに、赤の色がかなり尖った鋭角三角形になって、ボクの目に突き刺さってくるからだ。


 原色に近い赤のせいで目がチカチカするし、痛いし、本当に最悪。


「いってぇ……」


 ボクはユウマの低い唸り声に我に返る。嫌な予感がした。だから、ゆっくりと振り返る。ユウマが尻もちをついて倒れていた。



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