4.誰かの世界
その日は夕食の時間まで部屋のベッドの上で寝て過ごした。どうやら、ボクが変な空間にいた間、ボクは気絶していたようだ。お母さんはかなり心配して、救急車を呼ぶと慌てふためいていたらしいのだけど、ボクがすぐに目覚めたことから、病院行きは阻止することができた。
それに、倒れる前よりもずっと体の調子がいい。視界ははっきりしているし、体はさっきよりも素早く動く。少女の言葉を借りるなら、ボクの世界が元に戻ったんだろうな、とボクは思った。
次の日、ボクは学校に寄る前にユウマの家へと向かった。昨日、ボクが倒れて目覚めた後、お母さんがユウマの様子を見にいってくれたらしい。お母さんが到着した時、ユウマは元気に玄関から出てきたのだとか。
ユウマもボクと同じように不思議な空間へ行っていたのだろうか。
ボクにはユウマに聞きたいことがたくさんあった。
「うっす」
玄関から出てきたユウマは手短に挨拶をして、
「世界はどうだ? まだ景色は霞んでる?」
と、こともなげに尋ねたので、ボクも手短に「霞んでない」とだけ答えた。ボクにはそういう相手に合わせて返事をしてしまう癖があった。相手の空気に飲まれてしまうのだ。本当はユウマを質問攻めしたいのに。
ボクたちは学校までの道のりを並んで歩く。ユウマは今日もランドセルの代わりにジオラマを背負っていた。今日のジオラマは昨日のそれとは対照的に、灰色で無機質なビルが所狭しと建てられていた。昨日の丘とは全く違う。
ボクは堪らず、口を開く。空気に飲み込まれてる場合じゃない。ボクはユウマに聞きたいことが山ほどあるのだ。
「昨日、大丈夫だった?」
「おう」
「よかった。ねぇ、なんでユウマはその変なジオラマを持ち歩いているの」
「なんでかわからないけど、コレがそばにないと、心臓がすごく痛くなるんだ。誰かに握りしめられてるみたいな、そんな嫌な痛み。だから、出かける時は持ち歩いてる」
「そっか」
ボクは反射的にうなずいたが、そばにないと心臓が痛くなるなんてまるで呪いみたいだと思った。だけど、そんなことを言ったら、ユウマが不安になってしまいそうだったから、言わなかった。代わりに、
「ボク、夢を見たんだ」
と話を逸らすように、なにげなく、言った。
「夢? どんな?」
ボクは昨日見た夢を、事細かにユウマに話した。ユウマは『考える人』の彫刻ようなポーズをして、黙ってボクの話に耳を傾ける。真剣に話を聞いてもらえるというのは、心地がいい。ボクが早口で夢の全てを話し終えたとき、ユウマが唸った。
「なるほど。ツバサもオレと同じように、女神様からこの世界の手ほどきを受けたってわけか」
「女神様? あの少女は女神様なの?」
「さぁな。俺にもよくわからん。でも、真っ白な服を着て、神々しく厳かな雰囲気だっただろう? だから、俺は女神様じゃないかと踏んでいる」
「真っ白? 神々しく厳か?」
ボクは首を傾げる。ボクが夢の中で見た少女の印象とはかけ離れていたからだ。神々しく厳かというよりも、子猫のような可愛らしさがあったし、なにより服は真っ白じゃなくて陽だまりみたいな温かな黄色だ。
もしかしたら、ボクたちは違う人と出会ったのかもしれない。
「夢の話はわかった。ツバサ、今日のジオラマはお前にとってなにみたいに見える?」
「えっと……テレビでよく見る東京の新宿……みたいな感じかな。ビルがたくさんあって、すごく狭苦しい感じ」
「そうか。もしかしたら、リオの世界かもな」
「リオって、中上リオ?」
「あぁ。四年生の三学期に、東京から転校してきた中上リオだ」
すると突然、ユウマは足を止めて、ボクの腕を引っ張り、引き寄せた。そして、ボクの腕を背中に回し、ジオラマをボクに触れさせる。
「な、なにするんだよ! 転ぶところだったじゃないか!」
ユウマは意地悪く笑いながら、
「女神様にも言われたんだろ? 『ジオラマに触れてみて』って。善は急げ、習うより慣れろ、だ」
ボクは息をのんだ。草木の匂いが突然強くなったからだ。ジメジメとした青々しい匂い。眩しいくらいの緑。そこら中にいる気持ち悪い虫。
ボクには到底、耐えられそうになかった。不愉快な気持ちがじわじわと広がってきて、吐きたくなる。
「な、なんだよコレ! ユウマ、ボクになにしたんだ!」
「なにもしてないよ。これがジオラマの力だ。これが中上リオの見て感じている世界だ。ちゃんと味わえ」
ユウマの真っ黒な瞳がきらりと光った。獰猛な鷹が獲物を狙っているときのようにボクを見る。ボクはゾクっとして、ユウマから距離を取った。
「これが、リオの感じている世界……」
「そうだ。どんな気分だ? どんな景色だ? どんな感じがする?」
ユウマがボクとの距離を詰める。ボクは後退った。けれど、これ以上さがると後ろの畑に倒れ込んでしまいそうで、ボクは足裏にギュッと力を込める。
「すごく、嫌な感じがするよ。いつもより緑が濃くて、緑の匂いが強くて、ボクの身体を突き刺してくるみたいだ。あまり整備されてないこの地面は歩きづらいし、ユウマは鼻タレ小僧に見える。このままじゃ、自分自身も田舎者になってしまいそうで、すごく怖い」
「俺が鼻タレ小僧? あぁ。最悪だ。リオには、俺がそう見えてるわけだ」
「この感覚、すごく嫌だよ。だって、ボク、この町も、自然も、虫も、匂いも、大好きなんだ。……なのに、なのに、なんでこんな」
ボクは自然に対する嫌悪感で泣きたくなる。
帰りたい。
どこへ?
帰りたい。
どこに?
東京に。
ボクは寂しくて、心細くて、怖くて、泣きそうになる。こんな場所、ボクのいる場所じゃないのに、という感情が湧き出てきて、何かに八つ当たりをしたくなる。
「それが中上リオが感じているこの町なんだよ」
「つまり、リオちゃんはこの町が嫌いで、東京に帰りたいって思ってるってこと?」
「そういうこと。俺にはお前にこの世界が今どう見えてるかわからないけど、少なくとも、ここを故郷だと思っているツバサには、堪えるものがあるってことは理解できるよ」
ユウマは力なく笑った。
「ねぇ、これってどうやったら前の感覚に戻るの? ボク、今のこの感じ、すごく嫌だよ。寂しいし、辛いし、なんだかわからないけど、緑の匂いを嗅いでいるだけで、泣きそうになるんだ」
「……どう戻るかだって? そんなの、俺が聞きたいくらいだよ」
ユウマは急に真顔になり、そっぽを向いて歩き出してしまった。
——俺の世界は変わった。……俺の五感がコロコロ変わるようになったんだ。頭がおかしくなるかと思ったよ。
ユウマの昨日の苦痛に満ちた声が蘇る。もしかして、ユウマは毎日、こんな風に色んな人の世界が見えているの……?
ボクは慌ててユウマを追いかける。その間もずっと、豊かな自然と、目の前を歩く鼻タレ小僧に対しての嫌悪感は消えない。
「待ってよ!」
「なんだよ。戻り方なんて俺は知らないぞ。まっ、お前の場合は、起きた時に視力や運動能力が戻ってたんだから、今回も寝たら治るんじゃないか?」
ユウマはズンズン進みながら言った。
「うん。そうかも。でも、ユウマは? ユウマの世界は寝るだけじゃ、元に戻らないんでしょう?」
「あぁ」
ユウマはボクを見ることなく、答えた。
「それって、辛くない?」
「慣れちゃったよ」
嘘だ。幼馴染のボクにはすぐにわかった。ユウマが首をかいたからだ。ユウマは嘘を吐く時、首を触る癖がある。
他人の世界が広がることの辛さを、ボクは今、体験している。すごくすごく苦しい。今すぐこの見知らぬ感覚を捨て去りたい。
たった五分くらいでこんなに辛いんだ。ユウマの苦しみといったら、どれほどのものだろう。
「そうだ!」
ボクは大きな声を出した。自分でもびっくりするくらい大きな声で、ボクの中のリオが「うるさい!」と叫ぶ。ボクはその声を無視して続けた。
「どうやったら元のユウマの世界に戻るか、ボクが一緒に探すよ!」
「は?」
ユウマが振り向く。小動物のように目を丸くして、ボクを見た。
「うん。すごい名案だ。それが一番の解決方法だよ。ボクとユウマにできないことなんてないんだから!」
と、ユウマの肩にボクの手を乗せて笑う。「キモッ。こんな芋男に触れるなバカ」という声が頭の中にガンガン響き渡る。手のひらから体全体が腐っていくような嫌な感覚がする。でも、そんなことは知ったこっちゃない。これは中上リオの感覚で、ボクの感覚じゃないのだから。
そう思いながらも、気持ち悪さの心のパラメータがマックスになり、ボクはサッとユウマの肩から手を離す。ボクはユウマにバレないよう、穢れた手のひらをズボンで拭った。
中上リオの世界のまま、今日の学校が終わった。
教室はじめっとしていて陰湿だし、男の子も女の子も流行りの「は」の字も知らないような田舎っぺ。誰もオシャレに興味がないし、なにも考えずに校庭で遊んでいる姿は野生の猿のように見える。
自分だけがこの教室に馴染んでいない感覚がボクを襲う。
ボクは苦しかった。逃げ出したかった。ただひたすらに、この場所から離れられる時を待った。はやく、はやく、東京に帰りたい。
帰りのホームルームが終わり、ユウマの席へ行こうとした時、中上リオとぶつかった。光が弾けた。中上リオの感覚が、内側と外側から同時に響く。
「こんなクソ田舎、消えてしまえ」




