2.魔法のジオラマ
「ねぇ、ユウマ。それなに? ユウマにミニチュア趣味なんてあったっけ?」
あくまでも自然を装い、話しかける。
「……なぁ。ツバサにはこれ、なにに見える?」
「なにって? 緑色の丘に一本の木が生えてるだけのシンプルな模型に見えるけど」
「そうか。ツバサにはそう見えんのか」
「なんだよ。変なこと聞いてさ。なに? もしかして、ユウマには違うものに見えてるとか?」
ユウマは黙る。答えてはくれなかった。教室にはすでにユウマとボクしか存在していなかった。沈黙だけがこの場に広がる。
もう一度、ボクはユウマの持っているジオラマを見る。
緑色の斜面のある原っぱに、ポツンと大きな木が一本。原っぱの上には白い花がポツポツと咲いていた。シンプルなジオラマだ。
これはユウマが作ったのかな。あまり手は込んでいないように見えるけど。
「触ってみるか?」
つっけんどんにユウマが言う。目線は窓の外だ。ボクの顔なんて見やしない。かなり、失礼じゃないか?
「触ってもいいの?」
「お前が触りたきゃな」
「触るってどこを触ればいいの?」
「そんなん、お前が自分で考えろよ。触りたいところ、触ればいいから」
ユウマの言葉にはいらだちがこもっていた。ボクはちょっと迷ったけど、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
と、ジオラマの緑色の芝生に触れる。せっかく学校に来たユウマと少しでも距離を縮めたかったからだ。そのために、ボクが大人になって、わがままを言っている子どものようなユウマを受け入れたのだ。
「……どうだ?」
様子を伺うように、低くゆっくりな口調でユウマが言う。
触れたからと言って、特段大きな変化はない。
「どうって……。ざらざらしてる触り心地だなぁとか?」
「それだけか?」
「うん」
「あっそ。じゃあいいわ。オレ帰るから」
ユウマは吐き捨てるやつに言うと、両端に紐が二本ついているジオラマを、ランドセルのように背負って背を向けてしまう。
「え、まってよ! ボクも一緒に帰る!」
そう言って走ろうとした瞬間、足にうまく力が入らず、膝から崩れ落ちてしまった。
「え……。なに、これ……」
ユウマの背中がドンドンと遠くなる。ボクの視界が霞んだ。ぼんやりする。
ボクは机の足をギュッと握って、起き上がった。さっきまでの調子と全然違う。足は上手く動かないし、目のかすみがずっと取れない。近くならなんとかみることができるが、遠くの景色がぼやけて視点が定まらないのだ。
なんだこれ。なんだこれ。なんだこれ。
フラフラとした足どりで、やっとこさ校門の前まで行くと、ユウマが真っ黒な門に寄りかかって待っていた。
ボクは涙が出そうになるのを堪えて、ユウマに飛びつく。ユウマはボクを支えてくれた。全く驚いた顔をしなかった。
ユウマは顔を崩すことなしに、
「今、お前の世界はどうなってる?」
と、訳のわからないことを言ってきた。
ボクはユウマに支えられながら、「世界?」と尋ねる。
「そう。見えてるものの色がいつもより濃くなるとか、音がいつもよりよく聞こえるとか、そういう小さな変化とかない?」
「ある! 変化ある! 足が上手く動かないし、景色がすっごくぼんやりしてて、遠くが全然見えないんだ!」
ボクは興奮した口調でユウマに詰め寄る。ユウマは眉をひそめながら、ボクから離れ、距離を取った。今はショックを受けてる余裕がない。
「やっぱり……。全てはこのジオラマのせいか……」
ユウマは腕を組んで考えるポーズをして、歩き始めた。
「待ってよ! ジオラマのせいってどういうこと?」
ボクはユウマを追いかけて問う。ユウマは止まってくれない。独り言を言い続けている。
ボクはユウマの隣を歩く。相変わらず、遠くが見えない。足もおぼつかない。それでもボクは歩いた。ボクの体の異変はどうして起きたのか、ユウマに聞きたかったからだ。
「ねぇ、ユウマ。どういうことなんだよ。ちゃんと説明してくれなきゃわかんないよ」
「すまん。俺もよく分かってないんだ。だけど、あと少しで整理がつきそうで……。だから、ちょっと待ってくれ」
ボクは黙る。嬉々としながら黙る。
自分に非があっても謝らなくなったユウマが半年ぶりに謝った! しかも、無視せず、前のようにしっかり返事をしてくれた!
本当は小躍りしたいくらい嬉しかった。だけど、そんなことをしたら、ユウマがまた話してくれなくなっちゃうかもしれない。だから、ボクはなにもいわなかった。
「……俺ん家、くる?」
そろそろユウマの家に着くというところで、ユウマがボクを見てたずねた。ユウマの真っ黒な瞳がきらりと光る。
「え、いいの? 行きたい!」
ボクは考える間もなく、うなずいた。
嬉しい。ユウマとの心の距離が前みたいに近くなってる!
ボクは変な感覚になってしまった足をなんとか動かして、ユウマの後に続く。
ユウマの家は、ボクの家から徒歩十分くらいのところにある。ぽつんぽつんと点在しているお家の一つで、ボクの家から数えて三つ目がユウマの家だ。一階にお風呂やトイレ、納戸やリビングがあり、二階にユウマの部屋とユウマのご両親の部屋があるという間取りになっている。
ボクがユウマの家に行く時は大体リビングとユウマの部屋にしか入らない。だから、納戸や二階にあるもう一つの部屋がどんな風なのか何も知らない。プライベートなことだから、知らなくてもいいとボクは思っている。
ボクとユウマは目的地に到着した。
「お邪魔します!」
ユウマが真っ白でオシャレなドアを開けたと同時に、ボクは高らかに声を上げる。だけど、何の声も返ってこない。
「母さんも父さんも今は仕事でいないんだ。だけど、気にせず上がって。ツバサなら勝手に上げても怒られないと思うし」
胸の奥がムズムズとする。『ボクなら怒られない』。その言葉はボクとユウマの関係が特別だという証のようで、浮き足立ってしまう。
「ありがとう。えっと、お邪魔します」
ボクたちは靴を揃え、二階のユウマの部屋へと直行する。ユウマの部屋はなんとも言えない独特な匂いがした。他のものでは喩えられないような『ユウマの部屋の匂い』そのものだ。ユウマの部屋は以前入った時とほとんど変わっていなかった。有名サッカー選手のポスターに、小物置きの棚に置かれたサッカーボールやクッション、ぬいぐるみ。勉強机の上にはボクがずっと羨ましいと思っている大きな地球儀が置かれている。
だけど、視界が全体的にぼやけている。細部まで全く見えない。前にあったからそこにあるだろうなぁと推測しているだけなのだ。
「そこ、座れよ」
ユウマが勉強机の上にジオラマを置きながら、顎で指示する。漫画が端っこに積まれているカーペットの上を指していた。ユウマは立てかけられていたローテーブルを出すと、トスンッと、もこもこなカーペットの上に腰を下ろす。ボクもランドセルを壁のほうに置いて、ユウマの目の前に座った。
「ありがとう」
「いえいえ」
無言の時間が流れる。長い間、二人っきりで話していなかったせいで、お互い気まずくて、ぎこちない。
「なにから、話そうかな」
ユウマが横を向く。視線の先にはジオラマがあった。机すぐそばの出窓から光が差し込んでいるのか、盛り上がっている丘の部分の緑がキラキラと輝いて見える。反対に地球儀は影を落として真っ暗闇に見えた。もしかしたら、目が霞んでるから余計に陰影が気になるのかもしれない。
ユウマはふーっと息を吐くと、
「俺が学校に行かなくなったのは、みんなから無視されて辛くなったからじゃない」
唐突に切り出した。
「俺がクラス全員の世界を背負ったからだ。あそこにあるジオラマのせいで」
ユウマは憎いものを見るかのようにジオラマを睨みつけていた。スッと背筋に冷たいものが這う。
「クラス全員の世界を背負うって……?」
「今、ツバサの身に起きていることがドドンと襲ってくる感じだ。今のツバサの世界は、誰かの世界と共有している。だから、視力が落ちたし、運動能力が落ちたんだ」
「ちょっとまって。世界を共有? ボクの視力が落ちたし、運動能力が落ちた? 話がふわふわしててなに言ってるか、全然わかんないんよ」
「遠くがぼんやりと見えるのは、近視の症状。足が上手く動かないのは、運動能力が低い証。ツバサの感覚が誰かの感覚になってしまったってわけさ」
「ストップ、ユウマ。本当に全然意味わがらない。ちゃんとわかるように説明して」
何もかもが突然で、本当に意味がわからなかった。
「俺だって実際のところ、よくわかんないんだよ! これでもわかりやすく説明しようとしてんの! でもこれ以上なんて言っていいかわからないんだ!」
ボクは口を結んだ。ユウマの一生懸命さが伝わったからだ。からかおうとしてるとか、バカにしてるとか、そんな様子は一切ない。
だから、ボクはユウマの説明が全部終わるまで、待つことにした。
「どこまで話したっけ? あぁ、そうだ。ツバサの感覚がおかしくなった話だ。ここから話す話は……幽霊とかUFOとかそんな都市伝説っぽい話で……信じてもらえないかもしれないけど……聞いて欲しい」
ボクは力強く頷く。
ユウマは時々つっかえながらも、丁寧に話した。
「俺が学校に行けなくなった日の前日の放課後、俺は武田の爺さんの裏山に忍び込んだ。秘密基地の手入れをするためにな」
武田の爺さんというは、ボクとユウマの家のちょうど真ん中らへんに住むお米農家のお爺さんだ。いつも目を吊り上げ、真っ白な髭を生やした武田の爺さんは、周りの子供達に鬼仙人と名付けられ、恐れられていた。家はびっくりするほど大きくて、ボクらの住む地域にいくつも土地を持っている。裏山もその一つだ。
櫟や樫、榛の木や栗の木など様々な木が雑多に生えているほとんど手のつけられていない裏山は、子供達の格好の遊び場になっていた。ボクのクラスのほとんどが裏山に秘密基地を持っていたし、先輩も後輩も皆、裏山にお世話になっている。
そんなことより、ボクの気持ちは舞い上がっていた。
裏山の秘密基地とは、ボクとユウマが小学二年生の時に作った丸太の小屋だ。小屋といっても木に適当に立てかけ、紐でくくった代物なのだけれど、ボクとユウマはゲームやお菓子、宝物などを持ち寄った大切な隠れ家だった。
胸に温かいものが溢れ、膨らむような感覚がする。
ユウマは秘密基地を大切にしてくれていたのだ。ボクを無視している間も、秘密基地を手入れしてくれたのだ。
その事実がひたすらに嬉しい。
「知ってるか? 裏山の奥の奥には神殿があるんだ」
「神殿……?」
「あぁ。神社でもお寺でもない真っ白な神殿だ。それはギリシア神話に出てくるような……といっても、オレもギリシア神話なんてよくわかんないんだけど。とにかく、そこには神殿があって、オレは怖いながらも探検することにした。神殿のまわりは霧が立ち込め、じめっとしていて、壁や床がところどころ苔に覆われていて、いかにも幽霊が出そうな雰囲気だったよ……」
ボクはごくりと唾を飲み込む。ユウマの声があまりに重く暗かったから。まるでテレビで都市伝説シリーズを見ているときのような緊張感だ。
「オレは怖くて引き返そうとした。だけどその時、神殿の奥の方から美しい歌声が聞こえたんだ。オレはその声に魅入られ……そして、神殿の奥の奥まで行ってしまった」
ひゅーっと湿気を含んだ風が吹く。パタパタとカーテンがそよぎ、風から雨の匂いがする。気づかなかったけれど、出窓が開いていたみたいだった。
「そこで……忌々しいジオラマを見つけた」
忌々しいという難しい言葉を使うユウマをカッコいいと思った。ボクの思考が逸れるのは無意識に不気味なジオラマのことを考えないようにしているからだろうか。
ボクの気持ちとは裏腹に、ユウマは話し続ける。
「神殿の一番奥の祭壇に置いてあったというのに、このジオラマはキラキラと光って輝いて見えたんだ。……ほら、今も輝いてるだろ? 外はこんなにも曇ってるってのに」
窓の外を目線だけで見てみる。ぼんやりとする目を細めて、ボクは思わず、あ、と小さく声を上げた。太陽も青い空もネズミのような鈍色の雲たちに覆われていたのだ。これでは、出窓から光が差し込むことはない。それなのに、ジオラマは陽の光を一身に浴びた時のようにキラキラと光を弾いていた。
「ど、どうして!」
ボクは立ち上がって、ジオラマに駆け寄る。
「触るなよ。もう一回、お前がジオラマに触ったら何が起こるのか、俺にもわからないから。……とにかく、これがこのジオラマのおかしなところさ。魔法のジオラマなんだよ」
「魔法の……」
光が当たっていないのに輝く不気味なジオラマ。怖い、関わるな、と直感が言っているのにもかかわらず、なんだか胸がウズウズする。ドキドキするような、ワクワクするような、胸の中からざわざわと色めき立った感情が這い上がるようなそんな感覚だ。ボクがこれから特別なことに巻き込まれる、そんな予感がしたのだ。
ボクはもう一度ユウマの前に座り、耳に神経を集中させて、ユウマの話を聞く。好奇心という感情の波がボクの体に押し寄せてくる。
「薄暗い中で宝石みたいに煌めくジオラマが、俺は欲しくなった。それで、こっそり持ち帰ったんだ。これがミスだった。あのジオラマをこの部屋に持ち込んだ瞬間、俺の感覚が、世界が、全部変わっちまったんだよ」
ユウマは俯き、柔な自分の手のひらを見つめた。ポツポツという雨の音が鳴り、次第に音が大きくなる。ボクは慌てて立ち上がり、出窓を閉めた。ザーッという音がくぐもって聞こえる。
ユウマはずっと手のひらを見つめている。勉強机が雨に濡れそうになっていたのに、まったく気にしていないようだった。
「俺の世界は変わった。世界の色がくすんだり、鮮やかになったり、鼻が敏感になったり、なんの匂いも感じなくなったり、何を食べても味が変わらなかったり、なんの調味料が使われてるかわかるようになったり……。俺の五感がコロコロ変わるようになったんだ。頭がおかしくなるかと思ったよ」
ユウマが頭を抱える。ボクはそっとその頭を撫でた。どうしてだか、ユウマがとても小さな子供のように見えたのだ。
「そして、その日の夜、俺は夢を見た。神殿の夢だ。それで……そこで……」
ユウマがさらに頭を抱え込む。うぐっ、という喘ぎ声を漏らして、体を小さく小さく縮こませる。
「ユウマ? ねぇ、ユウマ、大丈夫? ちょっと!」
ボクは何が起こっているのかわからなかった。オロオロと混乱するばかりで、何もできない。
「うるさい。雨の音がうるさい。鳥が鳴いてる。ツバサの声もうるさい! あぁ、最悪だ。今ここでかよ!」
尋常じゃないユウマにボクは覆い被さった。少しでも落ち着かせようと、抱きついたのだ。けれど、
「離せ! 今日の俺はもうダメだ。帰れ! さっさと帰れ!」
思いっきり体を突き飛ばされる。僕は尻もちをついた。右の尻頬が痛い。
「だけど、ユウマが……」
「いつものことなんだ! だから今日は帰れ! 俺は大丈夫だから」
ボクは「でも」と言おうと思ったけれど、口を閉じた。ユウマはさっきまで普通だったんだ。だからきっと、これも何か意味がある。
「わかった。今日は帰るよ。なにかあったら、ボクのお母さんの携帯に連絡して。これ、お母さんの電話番号。書いて置いてくね」
ボクはユウマの机の上にあったキャラクターもののメモ用紙をとって、お母さんの電話番号を殴り書きする。そうしてボクはユウマの家を後にした。




