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18.女神像



 それから二日たった。ボクの背中にはもうジオラマはない。


 そろそろ夏休みに入ってしまうというのに、ユウマは相変わらず他人と関わろうとしていなかったし、ボクにも必要最低限な言葉しか交わしてくれなかった。それでも、無視じゃない。声をかけたら返事をしてくれる、それだけで大きな一歩だ。


 あの日、ボクとユウマが息も絶え絶えに裏山を降りた時、武田の爺さんが笑顔で出迎えてくれた。それはいつもの武田の爺さんからは想像もできないような、穏やかで柔和な笑顔だった。武田の爺さんの笑顔を見るユウマの顔が、漫画でよく見る「ポカーン」としている顔そのもので、ボクは笑いを堪えることができなかった。


 その後、ボクたちは武田の爺さんにたくさんのお叱りの言葉と労いの言葉を嫌というほど浴びせられた。勝手に裏山に入ってけしからん、よく無事に帰ってきた、私有地の小さな山といえど野生動物がいるのだから気をつけなければならない、ジオラマの返却をよくやり遂げた……と注意と褒め言葉が交互にくるので、ボクとユウマは混乱せずにはいられなかった。そして、ボクは武田の爺さんに言われて初めて、ボクの背中にジオラマがないことに気がついたのだ。


 武田の爺さんはボクたちの勇姿を散々称えたあと、畑で取れたという野菜をボクたちにいくつも持たせ、背中を思いっきり叩いた。激励のつもりらしい。ボクはなんとなく、武田の爺さんも昔、ジオラマの少女と何かあったんじゃないかな、と思った。


 その日以来、ボクもユウマも、自分自身の世界でのみ生き始めた。他人の世界はもう感じない。そのことが少しだけ寂しいような気がした。


 少女のことを思うたびに、ボクの胸は痛んだ。どうして少女は突然いなくなってしまったのか。どうしてジオラマがボクから離れていったのか。ボクが想像つくような理由も、想像のつかないような理由も、たくさんあって、そういういくつもの理由が折り重なり、今の結末に至ったのだろう。


 けれど、ボクは知りたかった。少女が今、どこにいて、何を考えているのか。ジオラマはどうなったのか。少女はかつての人々の思いを背負いすぎて、重圧に押しつぶされてないか。


 何も解決していない現実に、ボクの心にモヤモヤとした霧がかかる。ワサビをちょびっと食べた時のようなピリッとした刺激が舌先に残っているようだ。


 ボクは絶対に少女の願いは叶えられないけれど、少女の悲しみを軽くする方法がどこかにあるような気がしてならなかった。ボクはずっと少女のことを考えていた。だからこそ、ボクがユウマが倒れている時のことをユウマに質問されたとき、ボクはあの時の状況をうまく説明することができなかった。あの時の経験は、言葉にするにはいささか難しかったし、少女のことを話すことは、少女の隠しておきたい心の内側を話すことと同義な気がして、ボクはユウマに話すことができなかったのだ。


 ユウマがそのことに不満を持っていることを察していたけれど、それでもユウマのその不満を無視する他なかった。それにユウマの関心は、少女のことよりもボクがユウマの世界を覗き見たことにあった。ボクは少女のことは決して話さなかったけれど、ユウマの世界を体験したことを、包み隠さずに話したから。黙っていることは道義に反すると思ったし、不可抗力とはいえ、ユウマの世界を盗み見したことに対する罪悪感で、ボク自身が耐えられない気がして。

 だからこの件に関しては、思い切って手の内をユウマに全部見せてしまった。そうしたらユウマは顔を真っ青にしたかと思うと、すぐに顔を真っ赤にさせてボクを怒鳴りつけた。気が済むまで騒いだあと、ユウマはポツリと「ごめん」とつぶやいた。 それが怒鳴ったことに対するごめんなのか、はたまた、今まで酷い態度をとってきたことに対するごめんなのか、ボクには分からなかった。どちらにせよ、ボクがユウマの世界を見たことよりもユウマの罪は軽いから、ボクは「いいよ」と言ったあと、ボクもユウマに誠心誠意謝った。


 それからボクとユウマの関係は、挨拶すれば返す程度のものとなった。いつか、ユウマにはボクの感じたこと、見たことを包み隠さず、全部話そうと思っている。だけど、今はその時じゃない。だって、ボク自身がボクの気持ちを整理できてないのだから。


 そして、今日、ボクとしては思いがけないことだったが、下校している最中に武田の爺さんに呼び止められた。武田の爺さんが子供に話しかけるときは、子供が悪さをしている時に限られていたから、ボクは知らずうちに何かやらかしてしまったのではないかとヒヤヒヤした。だけど、そうではないことはすぐにわかった。


 武田の爺さんは真剣な顔で、ボクに古ぼけた地図を押し付けてきたのだ。そして、


「裏山に行く許可を出す。お前の目で確かめてこい」


 と、ぶっきらぼうに言い、大きな家の中に消えていってしまった。ボクはただ茫然とお爺さんが消えた大きな家と地図を何度も見比べるのだった。




 神殿へ向かう途中、ボクはあの場所で何があったのか、色々な想像をしていた。

 ジオラマがたくさん発掘された? 少女が武田の爺さんの前にも現れた? 女神像が壊れた? それとも、神殿が綺麗さっぱり消え去ってしまったとか?

 出てくる想像は全て起こり得そうで、起こり得なそうだ、とボクは思った。一体何があったというのだろう。ボクは逸る心臓を時々抑えながら、歩きづらい山道を登り続けた。


 目の前に広がり始めた霧が早々に晴れてくると、目に立派な神殿が飛び込んできた。ボクは大きく深呼吸をしたあと、大きい歩幅で堂々と、まっすぐ正面口から入った。神殿の広間の奥には、特に変わった様子もない女神像が鎮座している。ボクは肩透かしを食らったような気分で広間を見渡した。


「一体、何を確かめろっていうの?」


 ボクは誰もいない広間でポツリと呟いた。何も変化がない。神殿も、女神像も、消えてはいないし、綺麗になってもいない。ボクがこないだ立ち入った時と全く同じだ。


 そして、ボクは祭壇を見た。ボクはハッと息を呑む。キラキラと光を発し、常に美しさを携えていたジオラマが、真っ二つに割れ、灰色にくすんだ状態で祭壇の上に置かれている。


 ボクはジオラマに駆け寄った。生き生きと煌めいていたジオラマはそこにはない。ジオラマの命が途絶え、死んでしまったかのようだ。冷水を浴びせられたようなショックが全身に巡る。——どうして、こんな見るも無惨な状態に……。


 そのとき、ゾッとするほど冷ややかな声がボクに語りかけてきた。


「なんで、来たの」


 振り返った。美しく、無垢な少女の顔がボクを見つめている。この少女も最後に会った時と何も変わらない。


「どうして、ここに来たの」


 少女は抑揚のない低い声で同じ言葉を繰り返した。


 正気のない幽霊のようだと、ボクは緊張感もなく思った。


「壊れたジオラマを嘲笑いに来たの? これで君の願いは叶わないね、と私に言いに来たの?」


「そんなこと、しないよ!」


 少女は黙って、ボクを見つめていた。少女はジオラマが壊れたという悲しさというより、二度と自分の願いが叶うことはないのだという悔しさから、ボクを鋭い目で責め立てている。その目はまるで長く尖った剣のようで、ボクの存在全てを否定し、切りつけてくるようだった。ボクの体がキュッと引き締まり、冷たく震える。少女の痛みを知らなければいけないと強く思った。


 そのとき突然、少女の目から刃が消え、目にはいっぱいの涙が溜まっていた。ボクは自分の足が動くのを止めなかった。結果、ボクは今、少女を抱きしめている。ボクたちは長いこと、そうやってじっと動かなかった。少女がボクの肩をぐっと押したところで我に帰った。


「下手な同情はやめて。キミも私のことを否定するのでしょう。私のことを失敗作だというのでしょう。よかったわね、あなた達の思惑通り、ジオラマは全て壊れた。もう二度と世界は共有されない。もう二度と……」


 少女はボクから視線を逸らして、女神像を見つめた。ボクも女神像を見る。それは、以前と変わらず神々しく、そこにあった。


「そんなこと、ないと思うけど」


「は?」


 少女の声に対して、初めて穢れを感じた気がする。腹の底から出てるようなドスの効いた低い声に、ボクの体が緩んでいく。多分、少女の無垢じゃない部分に触れられたから。


「キミは失敗作じゃないし、世界もいつか共有されるかもしれない」


 ボクは自然とその言葉を口にした。言葉にして初めて自分の考えを知る、ということがあるのだと、このとき初めて知った。ジオラマと少女に出会ってから、ボクはいろんなことを知った気がする。それって、すごくいいことな気がするんだ。


「なにを言ってるの」


 少女に問われて、ボクは真面目な顔で少女の顔を見た。ボクは少女自身を否定したくなかった。確かにボクは少女のやり方は好きじゃない。でも、女神像やジオラマの開発が失敗なんかでは絶対にない、と思えて仕方がなかったのだ。

 ボクはジオラマを通じて、他人とは見えている世界が全く違うことを知った。ボクの感覚はどれも普通ではなく、誰かの感覚もまた、普通ではないことを知った。当たり前の感覚なんてものは何もないのだ。世界や常識なんてものは、人によって変わってしまうのだ。もし、ジオラマがなければ、ボクはそのことを知らないまま生きて行くことになっていただろう。それは、良いことではないような気がしてならないのである。


 不意に、少女の雰囲気から剣のような鋭さが消えた。ボクはさっき少女に触れたのだ。きっと、少女はボクの世界を見ているのだろう。ボクの感情も、感覚も、全部少女に筒抜けなのだと思うと、こそばゆかった。


「そんなこと思っていても、私の計画には反対なのでしょう」


 少女の声音は無垢そのものに戻っていた。


 ボクはこくりと頷いた。そして、口を開く。


「うん。ボクは君のやり方には賛成できないから。でも、賛成できないけど、キミのやり方も、きっと間違ってないんだ」


 ボクの見えている世界が正解でないように、ボクの考えも正解ではない。かつての人類の選択もそうだ。もしかしたら、世界を共有し続けた方がより良い世界になっていたのかもしれない。そして、今後、その道も取ることもありうるのかもしれない。


「かもしれないばかりで、キミの意見は的を射ないのね」


 少女がふっと息を吐いた。張り詰めていた空気が緩む。


「キミって、新しい世界を作り出すのに理想的な人かと思ってたけど、全然、そんなことなかったわね。優柔不断だし、意見もふわふわしてるし」


 ボクもその意見には賛成だ。生暖かい風が吹き抜けた。昨日は暗くて見えなかったけれど、神殿は全然白くなかった。緑が朽ちた壁の切れ目に入り込み、神殿を飾っている。


「そうだね。ボクは君の理想とは程遠い存在だよ」


 ボクは力強く頷く。少女が呆れたように笑った。無垢な顔に小さな白い花が咲く。この笑顔は本物だと思った。虚栄でも、誇張でもない、少女の本物の笑顔だと思った。それはボクに対する呆れの笑顔だったけれど。


「だから、私がキミを見限って捨てるの。私が、キミを手放すのよ」


 少女が胸を張る。ボクはもう一度大きく頷いた。


「ジオラマは朽ちてしまった。本当はわかっていたの。ジオラマは使う人々が穢れているから朽ちるのではなく、ジオラマそれ自身が貧弱で、数多の世界を映し出すことに耐えられなかっただけなの。いつかは壊れてしまう運命だったんだわ。そうして運命の通り、ジオラマはすべて壊れてしまった。だけどね」


 少女は晴れやかな顔をしている。


「だけど、“私”がいる。“私”は決して朽ちない。果てない。“私”さえいれば、世界は如何様にも変えられる」


 少女は胸に手を当て、ボクを見つめた。


「だから、わたしは新たな後継者を探すわ。キミじゃ使い物にならないから」


 それから、少女はキラキラと美しい粉を舞いあげている朽ちた女神像の前に立ち、大切なものを触るように、そっと女神像に手を置いた。そして、顔だけボクの方に向ける。


「またね。次会うときは、世界が共有されたときだよ。そのとき、私はキミにいうの。『ほら、私の世界の方が正しかったでしょ』って」


 あっ、美しい、とボクは思った。それは人が作り出せるような美しさではなかった。神々しいとか、神聖とか、神秘化的とか、荘厳とか、そういった言葉がよく似合う美しさだった。この美しさもまた初めての感覚だった。


 少女は妖怪や幽霊なんかの類じゃなくて、精霊や神様の類いなのだ。少女は無垢そのものだったのだ。


 少女は光となる。女神像と一体化して、キラキラと世界に降り注ぐ光となる。


 ボクの心は少女の光で満たされ、愛が溢れてくる。圧倒的な光がボクを抱きしめる。それは少女との純粋な熱い抱擁だった。目の奥がグッとあつくなる。幸せのか、寂しいのか、わからない感情がボクの中で渦のようにぐるぐる回っている。


 ボクは女神像を仰ぎ見た。理由もわからない涙がボクの頬をつたる。


「ボクに別世界を見せてくれてありがとう!」


 そして、そのとき、ボクは確かに聞いたのだ。


 麗らかな日差しのような、陽だまりのような、心がじんわりと温かくなる優しい声を。


「————」


 と。



最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

進化の歴史を学ぶと、私たち人間が誕生したのは本当に最近の出来事だと気づかされます。そして、人間が生まれる以前の世界については、人間自身まだほとんど理解できていません。そんな未知の時間や世界に、強く惹かれてしまうのです。もしかしたら、私たちが知らないだけで、かつて知的生命体が存在していたのかもしれない。そう考えると、なんだかドキドキしませんか?

私は常々、この世界は見る人によって違って見えているのではないかと感じています。きっと誰一人として、まったく同じ世界を見ている人はいない。

この作品は、そんなようなことをポツポツと考えながら書いた物語です。

このお話が、少しでも皆さんの心に残ってくれたら、とても嬉しく思います。


皆様のコメントやブックマーク、いつも励みになっております。

皆様の反応が次の作品づくりの大きな励みになりますので、もしよろしければ、コメントやリアクション、ブックマークなどで感想をよろしくお願いします。

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