17.失敗
「どうだった?」
ボクは顔をあげ、無垢な少女と向かい合う。すぐに見せられた世界のことを尋ねているのだとわかった。
「どうもこうも、一瞬のことだったから」
ボクははぐらかして目を逸らす。少女がにやりと笑ったのが目の端に映った。
「よく、考えてみて」
雨は降っていないのに、しとしとと雨音が聞こえる気がした。体の内も外も都会の真夜中のような静けさがあった。少女は口をつぐみ、ボクは幻聴に耳を傾ける。雨が床を濡らし、ボクの心にも沁み入って、じんわりとボクを侵食する。ボクはじっと、その感覚に身を委ねた。
世界はたしかにボクのものだった。けれども、ボクの世界はいつ急速に変わってもおかしくない不安定さがあった。ボクの世界はボクが思っているよりも脆いのだ。多分、ボクの世界だけじゃなくて、他の人の世界も。
ゆらゆらと蝋燭が揺れ、不意にタバコの匂いを嗅ぐ。ユウマのお父さんがよく吸っていたタバコの匂いだ、とボクは思った。タバコなんてどれも同じ匂いなはずなのに、ほとんど確信に近かった。
祭壇の上では、身動き一つしないユウマが寝そべっている。ボクはなんとなくそちら足を向けて歩きだした。今なら透明な壁をすり抜けてユウマのそばに寄れるような気がしたのだ。
それはやはり、ボクの想像通りだった。ボクは祭壇の前まで歩き切ることができた。少女は何も言わず、ボクの動向を見つめている。多分、ボクが少女の味方になっていると過信しているのだ。ボクはユウマの髪の毛をそっと撫でる。ほんのりと濡れた癖っ毛のある髪が指に絡み付いてくる。汗の酸っぱい匂いが鼻孔に届いた。
ボクはユウマのことを完璧に理解している、とボクはぼんやりと思った。
ふと、蝋燭の一つがボッと消えた。同時にボクの思いが確かなものになる。
ボクはたくさんの人々と世界を共有してもなお、他者と世界を共有したいとは思わなかったのである。人々の世界を知りボクはこの地球の全てを悟った、と思った。世界を共有すれば言葉を発さずとも人々と分かり合える、と確信した。だけど、世界を知れば知るほど、心が空っぽになっていく感覚があった。
そうだ、これは虚無感だ。少女は、すべての人々が世界を共有すれば素晴らしい世界になると言っていたけれど。全て知った先にあるのは、好奇心の抜け殻だ。ボクは切ない思いをギュッと抱きしめて、ユウマを見つめ続ける。全てわかるということは、全て既知になるということ。新しい発見はなにもない。それはなんてひどくつまらないのだろう。
ドッと寂しい気持ちが襲ってきて、ボクは泣きたくなった。ユウマの両親が離れたことに対する辛く寂しい思いが、ボクの中に流れ込んできた時のことを思い出す。ユウマの世界がやってきた時、ひどい寒気と痛みが走った。ユウマは両親が同時に二人ともいなくなったみたいですごく寂しかったんだ。一人で寂しくて、抱えきれなくて、それでクラスのみんなに八つ当たりして……。
感情の行き場が見つからなかった。八つ当たりはユウマなりのSOSだった。それなのに、ボクはユウマの寂しさに気が付かなかった。そして、ユウマがボクに強い嫉妬心を抱いていることも。
ボクはユウマの世界を共有して、ユウマの全てを知った。ユウマの痛みがボクのものとなって流れてきたとき、ボクはユウマがボクに絶対に知られたくないと思っていた『ボクへの羨望の気持ち』を、知ってしまったのだ。ユウマはボクを羨ましがっていた。家族がいて、家族仲良しで、それで毎日能天気に笑っている。自分が順風満帆だ信じて疑わないような無邪気な笑顔だ。ユウマはボクが悪くないことをわかっていた。わかっていたけど、何も知らずに笑っている純粋な親友を妬んまずにはいられなかった。自分の心がどんどん荒んでいく。荒んでいくのに、ボクはずっとユウマに付き纏って……。ユウマはボクに飽き飽きしていたんだ。それになにより、ユウマ自身がボクに嫉妬しているという事実を認めたくなかった。だから、無視した。ボクと距離を置くためには、その方法しか、ユウマは思い浮かばなかった。
世界を共有するということは、相手の心の奥の奥まで丸裸にするということだ。それは、この世界の誰も望んでいない気がした。
それに。
ボクは大きく深呼吸した。たくさんの世界を同時に見るということは、ボクがボクでなくなってしまうことと同じだ、と思った。自分の中に、自分と相反する感情が共存することで、ぶつかり合い、そして、自分が消えてしまうのだ。たとえば、ユウマの【ボクが嫌い】という感情と、お母さんの【ボクが好き】という感情がぶつかり合って、ボクの感情はゼロになる。真っさらになってしまう。世界を共有し会うと、ボクの思考や感情が消えると同時に、他人の思考や感情も相殺され、消えてしまう。ボクの思想は消え、ボクがボクであるというアイデンティティがなくなってしまう。アイデンティティが存在しない世界は、本当に幸せなんだろうか。
ボクは手を止めてジッとユウマを見つめていると、少女が後ろからトントンと肩を叩いた。世界は何も変わらない。振り返ると、少女は感情も読み取れぬ無垢な顔で笑ってみせた。
「ね? わたしの言うとおりだったでしょう。世界を共有したら、待っているのは幸福でしょう?」
「……どうかな。ボクはそうは思えないけど」
少女は表情筋を一つも動かさず、ボクを見つめた。今こそ少女と世界を共有できたら、ボクは彼女の考えていることが手を取るようにわかるのだろう。おそらく、少女もボクにそう思って欲しくて、感情の読み取れない顔でボクをみているんじゃないだろうか。ボクは少女の思惑に負けなように、毅然と、
「ボクは他人と世界を共有したいと思わない」
と言って、胸を反った。少女が目を閉じる。
「あぁ。キミは圧倒的な力を前に、怖気付いてしまったのね。大丈夫よ。すぐに慣れるわ。人間のいいところは順応性が高いことだもの」
ボクは少女がボクの世界を覗き見たのだと分かったので、ちょっと不愉快な気持ちになった。人に世界を覗かれるというのは、気持ちの良いものではない。きっと、今は眠っているユウマも、知らないうちのボクに世界を覗かれて嫌なはずだ。ボクは少女から視線を外し、ユウマの安らかな顔を見つめる。
「怯えないで。嫌がらないで。他人と世界を共有すれば、隠し事も無くなる。だから、嫌だという感情も無くなる。きっと、アイデンティティも新しい世界の中で、見つかるはずよ。だからね」
少女はボクをあやすように柔らかな口調で呟いた。
「私と一緒に世界を変えましょう」
ボクは再び少女を見据え、はっきりとした口調で言った。
「嫌だよ」
「どうして? さっきも言ったけど、どうせ新しい世界にも慣れてしまうのよ。キミは既にジオラマに慣れてしまったじゃない」
「それでもボクは嫌だ。たしかに、慣れちゃうのかもしれない。そのうち、他人と世界が共有されるのが当たり前になるのかもしれない。だけど、嫌だ」
「……キミは本当に、優しいのね。他人の秘密を暴きたくないのがよくわかるわ。分かり合えない他人を尊重することができるなんて、私の見込み通り、最高の進化を遂げた人間だわ。ねぇ、感じてる? 私は今、キミと世界を共有している。だから、言葉にしなくてもキミの気持ちがわかる。これこそ真の分かり合いでしょう? 素晴らしいでしょう?」
「ボク達は決して、分かりあってなんかないよ。だって君は、ボクの世界を見ているくせに、ボクの気持ちは全部無視して、君の意見をボクに押し付けてるじゃないか」
少女の眉がぴくりと動いた。そうだ。少女はボクのことを何もわかっていない。ボクの気持ちを知りながらも、ボクの気持ちをねじ伏せようとしている。それって、全然、分かりあってることにならないよ。ジオラマは、女神像は、決して万能じゃない。世界を共有するだけで他人と分かりあうなんて——きっと不可能なんだ。
少女の顔が、眉を始めとしてぐにゃぐにゃと歪んでいく。少女だけじゃない。ユウマも、祭壇も、壁も、床も、女神像までもが歪み始めたのだ。ボクはゆらゆらと揺れる世界に争おうと、祭壇にしがみつき、足に力を入れたが、その抵抗も虚しく、激しく揺れる世界で手は祭壇から離れ、足はあっちへゆらゆら、こっちへふらふらと言うことを聞かずに動き回った。ボクはいつの間にか、女神像の足元にいた。捕まる場所は女神像しかない。ボクは無意識に女神像に抱きついた。
「コレは我々の……いや、全人類の希望の星だよ。コレがうまく機能すれば、世界は平和になる。争いごとは何一つなくなるんだ」
「どうして国民はわかってくれないんだ。世界を共有したら、みんな、わかってくれるはず……」
「世界を共有したのに、どうして分かり合えないの? どうして、私たちの研究所を攻撃するの? 私たちの気持ちを完全に理解できているはずなのに、どうして私たちのこの素晴らしい研修を尊重してくれないの?」
男と女の切実な声が聞こえる。
「言いたくはないが、この研究は失敗だったのだよ」
氷のように冷たい声が神殿内に響きわたる。神殿が激しく揺れた。
「人の痛みが自分のものになるのが、皆、耐えられないのさ。人は自分一人の痛みだけで精一杯なんだ。誰かが恐竜に食われるたびに、全人類が同じ痛みを共有するんだぞ? それは身体的な痛みに限った話じゃない。誰かが誰かを言葉で傷つけた時、全人類が傷つけられたという心理的な痛みも背負わなければいけない。そして、他者を傷つけたという加害者側の罪悪感も背負わなければいけない。それがどれだけの負担か、考えたことがあるか? 研究所にこもってないで、現実世界に目を向けてみろ。世界を共有した人々は阿鼻叫喚だよ」
声の主は苦痛に満ちた口調で言った。
「世界を共有したことで、女神像という装置が今の共有された世界を作っていることを知った人々が、暴動に出ているんだ。早く共有を辞めたくて、な。故に私は心を鬼にして、何度も言う。この研究は失敗だった」
言うまでもなく、このやりとりは女神像から共有されるかつての"世界"だ。ボクは女神像にしがみつきながら、かつてのやりとりに耳を傾けていた。研究者の言葉、感覚、その一つ一つがあまりに悲しくて、ボクはいたたまれなかった。ボクは今、女神像と一つらしかった。
「この研究は失敗だった」
「だから、まずは目の前の人の世界だけを共有することのできる小さな装置を作ろう」
「そして、いつか、誰かがその装置を手がかりに、人間が背負えるだけの痛みを共有する完璧な女神像の装置を作り出してくれるだろう」
「その時を私たちは待ち続けよう——」
少女は彼らの願いに従って動いているのだと思った。かつての人々の思いを背負って、完璧な女神像の完成と、全人類の世界平和を本気で望んでいる。小さな装置……多分、それはジオラマなのだけれど、それを用いた誰かが、かつての人々の意思を継いでくれることを本気で願っている。その"誰か"に選ばれたのが、ボクだったのだろう。
揺れが収まっても、ボクは凍えている動物を温めるように女神像を抱きしめていた。無念の思いがボクに溢れてきて、そうしたくてたまらなくなった。ボクは泣きたくて仕方がなかった。少女はずっと一人で悲願が達成されることを待っていたのだ。少女は誰よりも研究の失敗に自責の念と、ショックを抱えていたのだ。少女の傲慢さと自信は、焦りと不安からくるものだと、今になって分かった。だけど、ボクには何も出来ない。だって、何もしないのが正解だと、ボクは思っていたから。
どれだけの時間こうしていたのか、不意に肩を叩かれた。振り向くとそこには、困惑した表情でボクを見つめるユウマがいた。




