16.全ての世界
蝋燭の光の中に、ユウマがいた。風がないのに蝋燭の火が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れている。そして、ぼんやりと光っている祭壇の前に少女がいた。蝋燭の光に頼っている薄暗い空間の中では顔がよく見えない。
ボクの体の表面がにわかにザワザワとし始めた。鳥肌が立つのとも違う嫌な感じがボクを襲い、全身が総毛立つ。少女の顔は見えないのに、視線をジンジン感じた。
少女が怒っている。ボクも少女も口を開いてなかったが、少女の怒りに満ちた熱い情動がよくわかった。少女の感情がボクの血液に流れ込んできているような気さえした。
ボクは小さな呼吸を三回繰り返して、少女に語りかけた。
「そこで、何をしているの」
怯えた様子のボクに、少女は冷笑を浴びせた。
「別に。私の正しい居場所に戻っただけ。私は女神像そのものだから」
そう言いながらも少女は、女神像の前ではなく、祭壇の前にいる。少女の正しい場所が祭壇の前だとはどうしても思えなかった。ボクは体がこわばったまま、再び少女に声をかける。
「ユウマに、何かしたら、許さないから」
ボクはグッと拳を握り締め、それから少女を力づくでもユウマのいる祭壇から離そうと、足を動かそうとした。だけど、足は石像になったかのように重たく、体は動き方を忘れてしまったようにピタリと止まって動かない。
「許さないって、どうするの? キミは震えて動くこともできないのに」
少女の言う通りだ、とボクは思った。今のボクの体はポンコツだ。自分の体なのに自分の体じゃないようだった。きっと、今のボクの世界は、森川ツバサの世界じゃなくて、誰かの世界に侵略されているのだろうと思った。
「そうだ。ボクには何もできない。だけど、それでいいんだ。だって、ボクがいなきゃ、キミの理想は完成しないんでしょう?」
ボクは決して少女に負ける気はなかった。
「うん。その通り。でもね、ツバサくんは絶対に私を手伝うことになるの」
「そんなこと、絶対にありえないっ」
なぜ、少女はこんなにも自信満々なんだろう。なぜ、少女は無垢な笑みを浮かべ、ボクに全信頼を預けているのだろう。少女が何を考えているのか、ボクにはまるでわからなかった。少女の底知れない笑顔に、ボクは戸惑い、怯え、恐怖を感じていた。そして少女が答えるのを待った。
「あり得るんだよ。私はキミの見ている世界を操れるから」
ボクは黙っていた。
「ねぇ、キミがジオラマを背負った時、どうしてこの子のように一度にいろんな世界が襲ってこず、たった一つの誰かの世界しか感じなかったと思う?」
少女はボクを見て微笑み続ける。
「それは、私がキミの世界を制限してあげていたから。私はキミのことが気に入っていたから、ジオラマの良さを存分に伝えるために、一つずつしか世界を見せなかったのよ」
少女は、口を開こうとしていたボクを軽く制して更に続けた。
「今、キミはどうして動けないのか、わかる? 私に触れたからだよ。私がキミに違う世界を"見せている"からだよ。どう? 私ってすごいでしょ」
ボクは唇を噛んだ。じゃあ、ボクはずっと少女の手のひらで転がされていたってこと? 少女はボクを裏で操っていたんだ。ジオラマを使って、ボクの世界を管理していたんだ。でも、ボクにはどうすることもできない。ボク本来の感覚は消え失せ、誰かの感覚がボクを支配してるのだから……。
「ボクは……。ボクは……」
「ムリして喋らないで。私に身を任せてくれれば大丈夫。全てがうまくいくの。人間は正しい方に進化することができるの」
少女は両手を広げた。瞬間の出来事だった。少女の体はひらりとした布のように大きくなり、目にも止まらぬ速さでボクに覆い被さったのだ。息が詰まり、それから、なぜだかわからないけど、涙がじんわりとわいてきた。
「すべての人の世界を同時に見るといいわ」
少女が少女とは思えぬほど大人びた妖艶な声で言うと、ボクの視界は真っ黒くなった。
少女は自分は付喪神だと言った。神様って、もっと寛容で慈愛に満ち溢れている存在じゃないんだろうか。いつもニコニコ優しく微笑んで、人類を許すような包容力のある存在……なんて思っていた。でも、実際は真逆だ。少女は確かに笑っているけれど、すごく怖い。少女は無垢なのに野蛮で、恐怖をボクに与えてくる。だけど、どうしてだろう。どうして、ボクは今、こんなことを考えているんだろう。彼女の存在なんて、そんなこともうどうでもいいのに……。
ボクの体はやがてふにゃふにゃになって、そのまま深い眠りに落ちてしまった。
目はすぐに覚めた。ボクは冷たい石床の上に横たわっていると思っていたのだけれど、神殿の中心に立っていた。立って、世界を見つめている。音が聞こえない。外界から隔絶された空間のようだ、と思っていると、突然、コーヒーカップに乗って高速でカップを回している時のように、急速にくるくると視界が巡る。口は乾き、目は潤い、不思議な匂いが強くなったり、弱くなったりを繰り返す。
ボクの心は凪いでいた。世界が目まぐるしく変わっているのに、心拍数は落ち着き、ボクという存在が把握できなくなる。ボクはボクでなくなっているらしかった。ボク自身の体で世界を感じているはずなのに、まるでその実感がない。この感覚って、なんなのだろう。
これは……一種の悟りのようなものだよ。
ボクだけど、ボクじゃない声がボクの体の内側に響いてくる。こんな摩訶不思議な現象、頭では気持ち悪いと思っているのに、体は何も反応しない。そのことにゾッとすらしない。
ボクは世界に身を委ねた。すると、体がふわりと浮き上がる感覚がした。瞬間、心地が良くなり、全身がふわふわのクッションに包まれているような錯覚が起きたが、すぐにその感覚は消えた。そして人々の幸福、不幸、希望、絶望、期待、喜び、安らぎ、嫉妬、憤怒、悲しみを感じ取って、
「世界はぐちゃぐちゃなのにシンプルで、苦しいのに楽しいんだ」
と目に涙を溜めて、ボクはつぶやいていた。
ボクは再び目を閉じると、何も言葉を発さずに、ただその場で世界を感じていた。
「ねぇ、起きて。起きてってば」
しばらくして少女の声で目を覚ました。少女が上からボクを覗き込んでいる。ボクは神殿の真ん中でジオラマの端を握ったまま大の字に寝ていたのだけれど、頭の奥がジンジンと痛んですぐに起き上がる気にはなれなかった。
「世界は元通りだよ」
静まり返った神殿に、少女の声は甘やかに響いた。ボクは頭を押さえながら、ゆっくりと上半身を起こす。
「ボクは一体、どうなってたの」
本当は聞かなくてもわかっていた。奇妙で、不気味で、心地の良い不思議な体験。それは、たくさんの人の世界を一気に背負った世界だったんだ。ボクは立ちあがろうとしたけれど、体がこわばっていたのか、変な風に力が入り、バタンと床に倒れ込んでしまった。ぎゅっと拳を握りしめる。
少女の白い靴が目の前にあった。少女はボクを見つめるだけで、起こそうとはしてくれない。だけど、それがありがたかった。少女に触れたら、また世界が変わってしまいそうだし、これ以上、他人の世界を見たいとは思わなかったからだ。体をなんとか持ち上げると、少女の視線とぶつかった。少女の視線はまるで可愛い我が子を慈しんでいるかのように柔らかく、優しかった。ボクは、戸惑った。先程までの激しい怒りは感じられない。少女の気持ちが全く汲み取れず、ボクはどういう反応をしていいのかわからなかった。
ボクが黙ってジオラマを背負い直し、服についている汚れを落としていると、少女が後ろから声をかけた。




