14.朽ちた神殿で
ボクは地図と睨めっこをしながら、歩いていた。武田の爺さんの言った通り、裏山の奥の奥は、道らしき道はないし、凸凹だし、草木が覆い茂って歩きづらいし、山登りには最悪の場所だった。
ボクが緑深く、人の手がほとんど施されていない場所に着いたとき、ボロボロの地図はほとんど役に立たなくなっていた。武田の爺さんから渡されたそれは、地図とは名ばかりで、一つ一つが曖昧にぼんやりとしか描かれておらず、詳しい場所が何一つわからないのだ。
「ああ。もう最悪」
ボクは土で汚れ、鋭い枝で破れてしまった服を見ながら、呟いた。
「あとどれくらいで着くんだろう」
ボクは一人で冒険しているのが急に心細くなり、独り言を言ってみた。言ってみたけど、不安な気持ちは大して変わらなかった。
まだ太陽はしっかりと空にあるはずなのに、木々が太陽の光を覆い隠しているため、薄暗い。木々は大切なものを太陽からも人間からも守っているみたいだ。果たして、ボクはちゃんと神殿にたどり着くことができるんだろうか。そういえばいつの間にか、世界がボクに完璧に馴染んでいる。見える色も、聞こえる音も、肌の感覚も、元通り。ボクのものだと確信ができた。
裏山の緑がどんどんと濃くなり、匂いも深くなって行く。冒険初心者のボクにはあまりに強い刺激で、踵を返したくなった。山道を行くときや、川に入るとき、木登りするときなんかも、必ずユウマや友達がそばにいて、一人で危険を犯すようなことをしたことがなかったからかもしれなかった。
緑が深まるにつれて、視界が悪くなる。ボクは真剣な顔で、神聖なものを確実に感じ取ることができるように黙々と歩き続けた。
ボクは不意に冷ややか空気を感じた。
突然、霧が出てきたのだ。
ぶるりと体に悪寒が走る。鳥肌が立って止まらない。背負っているジオラマが、一歩につき一つずつ、文鎮を置かれているかのように重くなっている気がする。
これはボクの全然知らない感覚だった。暑いのに涼しい。蒸し暑いのに、カラッと砂っぽい。ボクは一心不乱に足を先に進める。
「……あった」
ボクの口が勝手に声を出した。
目の前には、大きな大きな古めかしく『朽ち果てた神殿』としか形容できないような建物があった。神殿の周囲を境に、霧は消えていた。神殿は巧みな彫刻がなされた柱でぐるりと囲まれ、柱の奥には重厚そうな壁が室内を覆っている。
少しずつ、少しずつ、怪しげな神殿に歩み寄る。ボクは一瞬息を詰めた。神殿がぐにゃりと歪んでいるように見えたからだ。
ボクは目を擦った。けれども神殿は決して歪んでいなかった。ボクは自分でも意外だったのだけれど、神殿に近づけば近づくほど、怖いという感情や、不安感が消えて行くのを感じた。
神殿の入り口と思われる場所に続く石階段を登る。
ボクは、こんなに古い建物なのだから、石段はガタガタとして歩きづらいものだと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。神殿もその石段も、自分の存在を脅かすものなんて何も存在しない、と主張しているようにどっしりと構え、ボクを丁重に招き入れた。
階段を登り終え、さらに進むと、神殿を囲っている柱よりも細長く、上部に華麗で複雑な装飾がされている柱が、入り口を示すように行儀良く二本並んでいた。
その間を潜り抜け、神殿の中に入る。中に入ると風がビュンっと通り、緑の匂いも強く感じられた。中はがらんとした大広間のような場所だった。中にも図太く大きい柱がいくつも並んでいる。先が見えないほど奥まっている長い大広間の一番奥には、天井にぶつかるほど大きな女性の彫刻が鎮座している。薄暗くてよく見えないけれど、ダボダボとしたロングワンピースを身に纏い、頭にはヴェールをかけているように見えた。いかにも女神様という風貌だ。
ボクは深呼吸をした。なんて厳かなんだろう。そして、なんて恐ろしいのだろう。
この神殿はまるであの像の女神様のために作られたみたいな、そんな気がする。神様なんて身近に感じたことはないけれど、遠くにある女神像はあまりに人間離れしていて、触れた者を凍らせてしまいそうな迫力があった。
大広間の中央まで行ったあたりで、女神像の下には供養などを捧げるための祭壇らしきものがあるのに気が付いた。そして、その上になにか……そう、体温のある生き物が、うずくまっているのが見えた。
「……ユウマ?」
ボクは慌ててその生き物に駆け寄った。
「ユウマ!」
ボクは走る。祭壇の上にはユウマがいた。ユウマが規則正しい寝息を立てて横たわっている。寝息の音も感じるほどなのに、ボクは祭壇の周り五十センチくらいのところから近づくことができなかった。
「こんなところまで来なくてよかったのに」
柱の影が揺れた。柱の影が揺れて人の形になる。そして、その影は次第に夢で何度も会った少女となった。可憐で可愛い少女だった。
「ユウマを返して」
ボクは自分でもゾッとするほど冷え切った声で言った。
「嫌だよ。やっと私の理想の世界が手に入りそうなのに」
「そんなの、ボクとユウマには関係ない」
「たしかに、この子には関係ないわ。でも、キミは大いに関係があるの。だって、キミは私の意志を継ぐ者だから」
少女はボクの前へ歩み出て、ぎゅっとボクを抱きしめた。ボクの体はどうしてか鉛のように重かったので、少女を拒否るすることも、突き放すことも、逃げ出すことも、できなかった。
「ボクはキミの意思を継いだ覚えなんかない」
「これから、継ぎたくなるのよ」
少女はパッとボクを離した。ボクの体はふっと軽くなり、今ならユウマの元へ行けるのでは、と思い、祭壇の方へ駆け寄ろうとした。だけど、やっぱり無理だった。祭壇の周りに透明なの壁があるようで、何度ユウマの元へ行こうとしても体がゴンっとぶつかり、跳ね返るだけだった。
「そんなことしても無駄なのに」
少女がにこりと笑って、ボクの顔を見る。
ボクは胃がムカムカしてきた。全て少女の仕業なのだ。どうにかして祭壇を取り囲んでる結界のようなものを取り除いてもらわねばならない。
ボクは少女を睨む。けれど少女は怯むどころか、口元を緩ませ笑っていた。
「どうしたら、ユウマを返してくれるの」
ボクは少女の瞳を逃さず聞く。
「返さないよ。何回も言ってるでしょう。この子は私の理想の世界に邪魔な存在なの」
と言って、恨めしいものを見るようにユウマを睨みつけた。
「君の言う理想の世界ってなに」
ボクは少女から目を離さない。再び少女と目が合った。緑色の瞳は何を考えているのか、全然わからない。少女の瞳を覗いていると、その深緑の眼に吸い込まれてしまいそうだ。
「それは、さっきも話したでしょう?」
答えを聞かなくてもわかっていた。全ての人間が同じ世界を、同じように、感じ、見ることのできる世界。それが少女の求める理想の世界だった。
「でも、そんな世界、作れるわけないじゃないか」
ボクは震える声で言った。少女がくすりと笑ってふわふわで柔らかそうな髪を耳にかける。その仕草は繊細で美しかった。
「作れるのよ。ソレとキミがいれば」
少女が右手の人差し指で、ボクの背負っているジオラマを指差す。
「どういうこと? 世界中の人たちにジオラマを触れさせるってこと? でも、そんなことはできないよ。だって、ジオラマはこれしか残ってないんでしょ? たった一つのジオラマを世界中の人に触らせることは不可能だよ」
絶対に、とボクは心の中で自分に言い聞かせるように付け足した。
「うん。不可能だよ。今の技術では……ね」
少女は指を自身の唇に当て、「しーっ」と言って、ボクが口を開こうとするのを止める。
「だけどね、古代の技術を使えば、世界を根本から変えることができるの」
「古代の技術って……」
ボクは少女が何を言っているのかわからなかった。現代の技術で全ての人にジオラマを触れさせれことができないのに、古代の文明的ではない技術でそれができるとは思えなかったのだ。だけど、少女の顔は真剣そのものだった。冗談を言っているようには見えない。力強い瞳でボクを見つめ、薄い唇をキュッと結んでいる。不意に、唇がスッと綻んだ。
「そっか。キミたちは正しい歴史を学んでないんだったね」
少女は意味ありげに言った。
「学んでないも何も、歴史の勉強は小学六年生から始めるんだ。前に、アオセンが言ってた。だからその……。ボク、あまり歴史を知らなくて」
「え……? なにそれ。日本の教育ってそこまで落ちぶれてしまったの? 歴史こそ子供達が学ぶべき大切な科目だというのに、歴史や過去からしか人は学ぶことができないのに、彼らはそれを教えること、学ぶことを放棄したの? どうして? どうして?」
少女は目を泳がせながら、透き通るような白く華奢な手で頬のあたりをガリっと思いっきり掻いた。その様子が少女の容姿に似合わず、ボクは後退りしてしまう。
「その……、大丈夫?」
「やっぱり、人間たちが選んだ進化は間違っていた。このままじゃ、世界は滅びるだけ。不幸だけが増えてしまう。ああ……ああ……」
少女にはボクの声は聞こえていないようだった。ボクは、この少女と片手で数えられるくらいしか会ったことがなかったけれど、今の状態の少女と一緒にいたらまずいことになると本能的にわかった。
少女が壊れてしまう。美しい髪の毛が重力に逆らい持ち上がり、緑色の瞳が黒く濁る。神殿吹き抜ける風が湿り、足元から冷気が立ち込め、地面に沈んでいくような感覚に襲われた。ボクは何だか切ないような痛いような苦しいような悲しいような、そんな気持ちに支配されて少女から目を離せないでいた。
少女が背を向けている側が膨張し、伸びていく。神殿の入り口がぐにゃぐにゃと歪んで遠くなっていくのが見えた。少女の感情がこの遺跡に直接反映するのだと、ボクは気づいた。けれども、ボクは何もできない。ボクの体を自由に動かす感覚を、ボクは遺跡の外に置いてきてしまったみたいだった。
「人間は“自分”という体を通してしか世界を見ることはできない。他の世界は、歴史を学ぶこと、本を読むこと、人の話をよく聞くことでしか、知ることができないのに。それですら放棄してしまうの? どうして? あんなにも彼らは理解し合うことを求めていたのに、どうして放棄してしまうの」
ボクは黙っていた。太陽が沈んでしまったのか、夕明りに包まれていた神殿の内部が暗闇に染まる。真っ暗になり切る前に、神殿の柱についている蝋燭が灯った。ボクの体は急激に寒さを覚えた。自分の体を自分で抱擁してみたけれど、寒さはちっとも変わらない。
とうとう、ボクの顎ガタガタし始め、口の中は凍っていく感覚がした。
「あぁ……。放置してごめんなさい」
少女の鼠色に染まり濁った瞳がボクの目を直視する。
「キミは本物の歴史を知る義務がある。むしろ、偽物を知る前で良かったのかもしれない。先入観は邪魔でしかないもんね」
ボクは黙っていた。少女はそれを肯定と捉えたようだ。
「さあ、手を伸ばして、私に触れて」
少女の声がひどく低くて呪いの言葉のように聞こえたので、ボクは手を伸ばしたくなかった。なのに、ボクの足は勝手に少女に近寄り、ボクの手は勝手に少女の頬に触れようと伸ばす。
そして、とうとう、中指の指先が少女に触れた。暗闇と蝋燭の光が動いた。あまりに急激に暗闇が回るので、ボクは息をのんだ。あたりにモヤが立ち現れる。この時には、ボクはほとんど何も考えれない状態になっていた。
「過去に行ってらっしゃい」
もはやモヤのせいで見ることのできない神殿に響く少女の声は、冷凍庫の中に眠る氷のように冷酷だった。




