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12.誘拐



 梅雨が明け、燦々と照る太陽は、焦るボクを灼くようだった。ボクは照り返す熱をものともせず、走る。早くユウマの救出を。走っていると、喉の奥がカラカラになり、ヒュッ、ヒュッと呼吸に合わせて情けない音が出る。足がもたつき、立ち止まってうずくまりたくなる。ああ、この感覚はボクのじゃない。胸が軋む。痛む。ユウマはこんなに辛かっただなんて。これだけ辛かったなら、自分にも、他人にもイライラしてしまうのも当たり前だ。ボクは泣きそうになるのを堪えながら、チーターのようにできるだけ素早く足を動かした。


「あらっ、ツバサくん?」


 息を切らしながらユウマの家のインターホンを鳴らそうとした瞬間、ドアが開いて、闇と共にユウマのお母さんが出てきた。


「もしかして、ユウマに会いにきてくれたの?」


「えっ、あっ……。はい。そう、です」


 と、ボクは吃りながら言った。ユウマのお母さんは痩せこけていた。元から大きかった目は、やつれた老婆のように窪み、目の下には真っ黒な隈があった。頬はこけ、ほうれい線がよく目立つ。そんなお母さんの顔を見ていると、ボクは泣きそうになる。だけど、この感情は表に出してはいけないものだろう。


「嬉しい。ユウマもきっと喜ぶと思う。ユウマの部屋にいると思うから。……ユウマぁー! ツバサくんが来てくれたよー!」


 ユウマのお母さんが、玄関ドアの向こうの闇に向かって叫ぶ。


「うーん。返事はなしっと……。聞こえてないのかしら? さっ、上がって上がって。私はこれから出かけなくちゃいけないんだけど、ユウマは部屋にいると思うから」


 ボクはこくりと頷いて、お母さんの横を通り、ユウマの家に上がり込む。


「じゃあ、ツバサくん。ユウマのことよろしくね。冷蔵庫にオレンジジュースが入ってるから、自由に飲んで」


 と、お母さんは笑顔で言うと、パタリとしまったドアに鍵をかけ、どこかへと消えてしまった。


 しんと静まる薄暗い玄関が、妙におどろおどろしく、ぶわりと全身に鳥肌が立った。


 ボクはパンッと両手で両頬を叩いた。


 ユウマの部屋に向かいながら、


「混合するな。あの人はユウマのお母さんで、ボクのお母さんじゃない。そして、今見えているこの世界もボクのものじゃない」


 と、ユウマの部屋の前に着くまで、何度も何度も繰り返し、自分に言い聞かせるように言った。


 雨戸が全てピシャリと閉じた真っ暗な廊下で、ボクは手探りにユウマの部屋に向かう。見慣れた家なのに、どうしてだか心細い。それに、ユウマの部屋に近づくたびに、心臓が大きな音を立て、ボクの不安を煽るのだ。


 ボクはユウマの部屋のドアを深呼吸してから叩いた。コンコン、という軽快な音が廊下に響く。


 しばらく待っても返事はない。このまま陽の光がみじんも入らないこの廊下に立っていたら、昼なのか夜なのかわからなくなってしまいそうだ。ああ、もう待っていられない。このままじゃ心臓が不安と不快感で破裂してしまう。ボクはグッと拳を握り、覚悟した。とりあえず、ユウマの部屋に入ってしまおう。


 中に入って目に飛び込んだのは、真っ黒なかっこいいヘッドフォンを耳につけ、リズムをとりながら、勉強机の椅子に座っているユウマだった。ボクは心からほっとして、


「ユウマ!」


 と、声をかけながら、彼の肩を叩いた。ユウマは驚いた顔をして振り向いて、


「うわっ! ツバサ!」


 と言って、ヘッドフォンを耳からバッと剥ぎ取り、飛び上がった。


「びっくりしたな。なに勝手に上がり込んでるんだよ。……てか、家の鍵開いてたってことか?」


 ユウマは大袈裟にボクから距離をとって、部屋から出て行こうとした。


「あ……。ユウマのお母さんにあって、その……ユウマは部屋にいるからってあげてもらったんだ。だから、鍵はちゃんと閉まってた、よ」


「ふーん……。母さんに会ったんだ」


 とボクと距離を取りながら、壁にもたれかかった。


「うん。えっと、驚かせてごめん。それで、ボク聞きたいことがあって」


「オレにはない」


 ユウマは食い気味に言うと、口を一文字に閉じる。


 その後、ボクは気まずい雰囲気に飲まれて声を出すことができなかった。口を開こうとすると、ユウマはボクをきつく睨んでくるし、ユウマは一切口を開こうとしない。


 その時、強風が部屋を通り抜けた。まるでドアと窓ガラスがこの部屋に風を運び入れようとする意思を持っているかのように、ひとりでに開いたのだ。その感じの得体の知れない不気味さと言ったら、言葉にできない。体中にじめっとした嫌な冷たさが走った。


 ユウマは、そのジオラマのせいだ、早くジオラマを持って帰れ、と言ったけれど、ボクの体は硬直し、うまく体を動かすことができなかった。なんだかすごく薄気味が悪い。嫌なことが起こるような、そんな気がする。この不愉快な感覚は一体なんなんだろう……。


 ドアと窓はユウマによって閉じられた。


 閉める時も、ユウマは決してボクに近づこうとしない。多分、ボクに触れたらまたジオラマが自分の元に戻ってきてしまうと信じているのだろうと思う。けれどボクは、そんなことは絶対にない、と何故だかわかっていた。


「こんにちは」


 唐突にボクでもユウマでもない声が部屋に響いた。


「あれ……? キミもいたんだね。てっきり、この子しかいないと思ってたんだけど」


 キミというのはボクを指し、この子というのはユウマのことを言っているとすぐにわかった。そして、甘く快い声の持ち主が夢に現れた少女の声だともわかった。


 少女は姿を見せない。ただ、声がけが部屋に響いていた。


「キミには用はなかったんだけど、まっ、いっか! キミにも関係あることだし。この子が消えた理由を説明する手間が省けてちょうどよかったかもしれないね」


 ボクの心は一瞬にして震え上がった。黙って声に耳を傾けていたけれど、口から言葉がこぼれ落ちる。


「消えた理由……?」


 ボクは疑り深い声で恐る恐る聞いた。


「うん。この子にはこの世から消えてもらおうと思っているから」


 声はケロッとした様子で言う。ボクとユウマの気持ちには全然気づいていないように思えた。横目でユウマを見る。ユウマは顔を青くして、呆然と天井を見上げていた。


「消えてもらうって、どういうこと。変な冗談はやめてよ」


「冗談じゃないよ? 本当に消えてもらうの。だって、この子はわたしとキミがこれから作り上げる新世界に不要な人間なんだもの。人の心がわからない独りよがりで、冷酷で、最低な人間は」


 と言って、少女は数秒ためてから、


「消えていなくなって当たり前だもの」


 そんなこと、絶対にない、消えていい人間なんていない、とボクは思った。


 でも、そう言いたいのに、突然喉の奥に壁が出てきて、声を出すことができなかった。それはユウマの今の感覚なのだと、理解するまで数秒かかった。ユウマは今、恐れ、怯えている。海の中で板一枚でなんとか生き凌いでいるところに、大きなサメが来て襲いかかって来ようとしている光景が何故か思い浮かんで、泣きそうになった。ボクは泳げない。叫べない。


「はっ、なに言ってんだよ……」


 ユウマは震えた低い声を絞り出した。


「なにって?」


 少女も低い声で返事をした。


「消えていなくなって当たり前だって……? 勝手なこと言ってんじゃねえよ」


 ユウマの反論を聞いて、少女は声にならないため息のようなものを出した。それから部屋に吹いた風と共に、その姿をぼんやりと現した。


 ボクは張り詰めていた空気が、さらにピンッと引っ張られたように思った。そして何だか急にお腹が痛くなって、しっかり立ってようと思っていたのに、しゃがみ込んでしまった。


「あらあら。可哀想な子。こんな男と繋がってるばっかりに」


 半透明な少女がボクの背中に手を当てながら、


「はやくこの男との縁も絆も断ち切ってしまいましょう。そうすれば、キミは私のものになるでしょうし、キミもこの男に執着することは無くなるでしょうから」


 少女の口調はさっきと違って、畏まっている。声色もまた、少女ではなく大人びているようだ。


「あぁ……。キミの世界がこの男のものになってしまっている。この男を通してみる私の姿は、醜くて、汚い。こんな姿、キミには見せたくないというのに。……さぁ、早く始末してしまいましょう」


「ちょっと……まってよ……」


 ボクは痛むお腹を抑えながら、起き上がる。力がうまく入らずに、よろけてしまった。だけど、ここで引いてはいけない。


「ユウマを始末なんて、そんな、ひどいことを、言うな……。ユウマはボクの大切な——」


「大切な友達?」


 少女が声を被せる。痛みで開けられない目を片方だけ開けて、チラリと少女を見た。そこにいたのは少女じゃなかった。雪女のように白くて冷たくて怖そうな女性だった。


「そうだ。ユウマはボクの友達だ。親友だ。お母さん曰く、"運命感じちゃう"関係なんだ。だから、始末とか、消えていなくなるとか、そんなこと、言うな」


 言葉を出すたびに、胸が詰まり、我慢しようとしても涙声になるのだった。最後の方なんて最悪で、ほとんどしゃくりあげていた。


 少女……だった女は黙って聞いていたが、口の端をいやらしくあげ、


「キミはそう思っていたのね。でも、この人はどうかしら。本当にキミを親友だと思ってるかしら」


 と、冷笑して言った。


 ボクは震える体を自分の二本の足で支えながら、ユウマの方へと向かった。ユウマは机に寄りかかる形で立っている。きっと、ユウマもお腹の痛みと寒さを感じているんだ。ボクとユウマは繋がっているから、よくわかる。


 ボクは身を寄せ合うようにユウマにピッタリとくっついた。


 女は冷え冷えとした表情でボクたちを見ていたが、ボクがユウマの背中をさすろうと手を伸ばすと、


「そんな汚いものに手を触れないで。キミまで汚れてしまう」


 と、ボクの動きを止めた。不思議なもので、女が「やめろ」というと、ボクの体は恐怖で竦み、動かなくなってしまう。


「友達。親友。大切な人。聞いて呆れてしまう。この人はキミに何をした? アレの呪縛から助けてくれたキミに何をした? そう。"何も"してくれなかったの。感謝しようとも、力になろうとも、キミを助けようともしなかった。終いには、キミを無視してキミを傷つけた。私の後継者になるはずのキミを蔑ろにした。ああ、許せない。こんな自己中心的にしか物事を捉えられない人間は生きていてはいけない。人間は進化しなくてはいけないのだから、この人のように退化した人間は、この世界にいらない。不必要なの」


「ユウマにだって、きっと、ボクを助けられない事情があったんだ。ボクとユウマの見えている世界は違うから。ボクの知らないユウマの世界があるんだ。ボクはそれを責められない」


「あぁ……。やはりキミは人間の進化の最先端にいる。たまらなく、欲しい。そして、共に理想の世界の実現を……」


 女は両頬に両手を当て、うっとりしたように天井を見たが、すぐにボクたちに向き直った。


「事情って、キミは言ったね? その事情とやらはしょうもないのよ。どこにでもあるような家庭内不和——」


「やめろ!」

「やめて!」


 ユウマとボクは同時に叫んだ。けれど、女は構わず続ける。


「この人の父親が出て行ったの。なんでも、叶えたい夢があるんだそうよ。田舎では叶えられないような、それはそれはビッグな夢なんですって。それを聞いて、この人の母親は大激怒。喧嘩になっちゃったのよ。喧嘩をしたら最後、売り言葉に買い言葉よね。そうして、この人の父親は憤怒して家を飛び出してしまった……。たったそれだけのことなの」


「たった……それだけの……?」


「わけもないことでしょう。父親が出て行った、働き手がいなくなりお金がなくなった、そして、母親は朝から晩まで働き詰めになって、この子自身を見なくなっていった……。それがなんだっていうの? どこにでもあるような話でしょ? それにこの世にはこの人よりももっと辛い人はたくさんいるのよ」


「ボクに……とって……それは、天地がひっくりかえるような、大きな、出来事だったんだ」


「キミ、同化しすぎよ。……まぁいいわ。そうね。キミの知っての通り、人によって感じ方は違うんですもの。この子にとっては相当辛かったんでしょう。だけど、それは人を虐めたり、無視していい理由になるかしら?」


 ボクの喉の奥が呻いた。


「皆、人それぞれの苦悩を抱えている。この世に生まれ落ちた誰しもが苦しんでいる。この世界にいるのは自分だけじゃない。それはキミにもわかるでしょう?」


 これまでジオラマで見てきた世界を思い出し、ボクの体は脱力した。


「それなのに、自分が一番大変、世界で一番の不幸者、みたいな顔をして、人を傷つけるこの子の狡さと言ったら……」


 女は吐き捨てるように言った。ボクは、無視されて辛かった時の自分の世界と、父親に捨てられて心に傷を負ったユウマの世界が、混じり合って吐き気がしたが、女の口車には絶対に乗りたくなかったので、


「だけど、実際、ボクの世界ではボクが一番の不幸者なんだ」


 と、責めるように言い立てた。


「ほんっとに視野の狭い世界だこと。やはり、人間には進化が必要だわ。いくつもの世界が同時に見れるようになるような、そんな進化が必要なのよ。ずっとずっと何億年も前から私はそれを主張していたというのに、どうして愚かな人間は進化することを選ばないのでしょうね。私は人間に正しい選択をさせる義務がある。だからこそ、無垢なジオラマと無垢なキミが必要なの」


「ジオラマに支配されてる時みたいに、自分の世界がわからなくなるくらいなら」


 ボクは、女の悠長な口調にドンドンと腹が立ってきた。


「進化なんてしなくなっていい」


 女は無知だと言わんばかりに肩をすくめて、


「自分の世界も他人の世界も同じになってしまえば、自分の世界に固執する必要はなくなるわ。だって、他人の世界は自分の世界の一部になるんですもの。世の中の道徳的な人間は皆、口を揃えて『人の痛みを分かるようになりなさい』と言うでしょう? でも、今までの人類では人の痛みは想像するしかなかった。だけど、新しい世界では人の痛みをわかることが、当たり前の世界になるの。そうして、本当の意味で他人を理解できるようになる。それって、素晴らしいことじゃない?」


 ボクは全く納得できなかった。けれど、長い月日をかけてユウマに傷つけられたボロボロの心が、夏の野山で冷たく清らかな湧き水を見つけた時のように、心地よく満たされていく感覚があるのも事実だった。


 相手の痛みがわかれば、人を傷つかせずに済む? ユウマもボクの心の痛みがわかれば、無視しない? ボクもユウマが苦しんでいる理由もわかるようになって、一緒に解決に向かうこともできる?


「その素晴らしい世界を実現するために、腐りきったこの子は邪魔なの」


 女の声が突然硬くなり、刀のように鋭くなる。ボクが女の言葉に惑わされている隙に、女の透明な体はユウマに覆い被さった。一瞬の出来事だった。ユウマによって閉ざされた窓が一人でに開き、女とユウマが部屋から立ち去る手助けをする。さようなら、と別れを告げるような強い風が吹いた。


 こうしてボクは一人、ユウマの部屋に取り残されてしまったのである。




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