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11.ユウマの世界

 


 ベッドの上で瞼を閉じていたら、いつの間にか寝てしまっていたようで、外は真っ暗になっていた。


 ボクは体を起こそうとしたけれど、体重が百キロくらいあるんじゃないかというくらい重くて、ボクはベッドの上に磔にされてしまった。きっとこの重さも誰かの感覚なんだろう。ボクはボクでない感覚が突然襲ってきてもなんとも思わなくなっていた。


 ボクは布団の中でもう一度目を閉じる。目を閉じると、電気の白い光がまぶたの裏にうっすらと映り込んだ。眠くないのに、体がどんどん沈んでいく。そしてすぐさま意識が混濁してきた。おかしいな。だって、ボクは全然眠たくなんてないのに。ユウマに酷い仕打ちをされたことを思い出す日はいつもそうだった。目を閉じても全く寝れないんだ。ボクが不思議に思っていると、頭の中に住みついているボクのユウマが、


「無理もないさ。なんてったって、明日のツバサの世界は特別な世界なんだからな」


「どういうこと?」


「明日になったら、わかる。ツバサの魂はすでにわかっているけど、頭で理解するにはまだ早いんだ。でも、ツバサの魂はわかっているから、今は休んで英気を養おうとしてるんだよ」


 と意味深に言って、ニヤリと笑う。


 英気を養うって言ったって、眠くないんだよ、とボクは思ったのに、ボクの体はトロトロとベッドに溶けていく。


 ボクは夢を見た。幸せな夢だった。それはボクが四年生になった時から今日までずっと焦がれ、求めてきたものだった。学校に行くたびに望み、そのたびに、失望してきた。そして願いの叶わぬ学校は見えぬ灰が降り注ぎ、ボクの視界を暗くした。ボクはどこにいても心から笑えない。ボクはユウマがジオラマを持って学校に来るまで、毎日絶望していたことを思い出した。



 ボクの見た夢はユウマとボクが笑顔で仲良く遊ぶ夢だった。




 次の朝、ボクは胸の深いところの痛みで目を覚ました。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなったが、自分の部屋のベッドの上だとすぐに思い出す。胸の奥がズクズクと痛み、ベッドの上から起き上がることができない。時計を見るともう朝の十一時半だった。寝坊だ。早く学校に行かなければいけないのに、涙が込み上げてきて、どうしようもなかった。


「あぁ……。これって、ユウマの世界なんだ」


 ボクは直感した。今まで見えている世界が誰のものかなんて全くわからなかったのに、何故か今、ユウマの世界が見えているとわかったのだ。


「な? だから、明日になったらわかるって、言っただろう?」


 得意げなユウマの声が聞こえる。


 うん、わかったよ。すぐにわかった。


 ボクは脳内ユウマの声に応えてから、体を起こす。どうにも胸が痛い。胸が痛くて張り裂けそう、とはこのことを言うのだと、なんとなく思った。


「ツバサー。まだ寝てるのー?」


 お母さんの声が扉越しに聞こえる。開いた扉から見えた元気そうな母の姿に、ボクは心底驚いた。


「あれ、母さん、こんな朝早くから起きて大丈夫なの?」


「何言ってるの。今日は遅いくらいよ。土曜日だからって、流石に寝過ぎ」


 部屋に入ってきたお母さんはくすくすと笑う。


「え……あ、土曜日。そっか、今日は土曜日か」


「なに? 忘れてたの?」


「うん。ボク、今日は平日だと思ってた。よかった。学校に行かなくていいんだね」


「もしかして、ツバサ、学校に行きたくないの?」


「あっ……。ううん。そういうわけじゃないんだ。そういうわけじゃなくて、寝坊しちゃったから、学校に行くのが気まずいなぁって思ってただけで……」


「そう? 朝ごはん……じゃなくて、お昼ご飯が出来てるから、早く着替えて、食べに降りてきなさい。優雅なブランチにしましょ」


 お母さんは楽しそうに笑って、部屋を出た。ボクの心はさっきよりも晴れやかになった。お母さんが笑っていて、ボクは無性に嬉しくなった。


「どうしてだろう……」


 ボクは胸を押さえながら、独り言をつぶやいた。


「どうして、お母さんが笑っていると嬉しいんだろう。どうして、お母さんが元気に動いているのを見て幸せな気持ちになるんだろう。どうして、お母さんのことを考えると、泣きたくなるんだろう。これじゃあ、まるでボクがマザコンみたいじゃないか」


 マザコン。その言葉があまりにしっくりきて、自分自身のことを気持ち悪く感じる。


 ボクは目を閉じて、胸をさらにギュッと押さえる。全然痛みが引かない。お母さんの笑顔を見るとすごく嬉しいのに、同時に、どうしてボクのお母さんは毎日泣いてるんだ、と思ってしまう。ボクのお母さんはいつだって笑っているのに。


 ボクは目を開けて、洋服に着替える。そして、リビングへと急いだ。


「おはよう」


「あっ、お父さん……どうして」


 ボクは息を飲み、ソファーに座り、テレビを見ていたお父さんを見つめる。


「どうしてって、今日は土曜日だからお仕事お休みだろう? ツバサ、まだ寝ぼけてんのかぁ?」


「仕事……休み……」


 ボクは調子がいいだけのお父さんの言葉を繰り返した。


「ん? どうした? そんな暗い顔して……。どこか具合でも悪いのか?」


 お父さんは立ち上がり、ボクの髪の毛を触る。ボクはその手を振り払った。ボクはハッとしてきまりが悪そうに、


「あっ、えっと……ごめんなさい。ボク、ご飯食べるから……」


 お父さんはニヤニヤした意地の悪い笑顔を取り下げて、固まっている。ボクはきつくきつく奥歯を噛んだ。お父さんの顔がボクの大嫌いなピエロのキャラクターの顔のように見えたのだ。


 外ではいい人に見せて、家では傲慢、嘘つきで、いつだって自分勝手で最低な父親……。


 ボクはわざとらしくため息を吐いて、椅子に座る。真っ白で瑞々しい美味しそうなそうめんがガラスのお皿に盛り付けられていた。


 お父さんがそばにいなければ、完璧なブランチだったのに。


 これがユウマのユウマのお父さんに対しての感情なのだとわかったのは、食事を終え、部屋にこもってすぐのことだった。





 ベッドの上に座った瞬間、激しい痛みに襲われた。

「うっ、あ……」

 声にならないうめきが、口からこぼれ出る。めまいまでしてきて、ボクはパタリとベッドの上に倒れ込んだ。

「可哀想な子……可哀想で、惨めな子……。やっぱりあの子を助ける、なんて世迷い言だったのよ」

 閉じた瞼の裏にぼんやりと、人の姿が見える。

「わたしね、君が気に入ったの。人思いで、心優しくて、温かくて、君って本当……理想的な人間。わたしが求めていた人間……」

 人の姿は可憐な少女に変わり、ボクに手を差し伸べる。少女はまだぼんやりしていた。

「その苦しみから、救ってあげましょうか? 簡単よ。わたしの手を取ればいいの。そうすれば、苦しみから解き放たれて、君の世界は美しいものになる。悲しみのない世界になる。幸せしか見えなくなるの」

 ボクはぼんやりする少女をぼんやりする頭で見つめる。少女は手を差し出したまま、

「どう? わたしの手を取ってみない?」

 ボクはつられそうになる右手を左手の手で抑えて、

「ううん……。大丈夫……。ボクは多分、ユウマのこの痛みを知らないといけない」

 と、小さな声で言った。

 少女は手を引っ込めると、信じられないものを見るような目でボクを見る。

「どうして? 苦しみのない素敵な世界よ? 痛みのない魅力的な世界よ? どうして選ばないの?」

「それは……よくわからないけど、君に見せられる世界は、ボクの世界じゃない気がするんだ。その美しい世界は君の世界で、ボクの世界じゃない。ボクはボクで美しい世界を作り上げる必要があるっていうか……」

 自分でも何を言っているのかよくわからなかった。ただでさえ、いま見えている世界はユウマの世界で、ボクの世界じゃないのに。夢うつつだから、変なことを口走っているのかもしれない、とボクは思った。

「意味がわからない。誰の世界のものでも、自分が幸福だったらいいと思わない?」

 少女が唸った。そして、

「あっ、もしかして、あの子のせい? そうなんでしょう? 『あの子の痛みを知らないといけない』って、君は言っていたものね。あの子の世界がなくなれば、わたしの手を取ってくれるってことでしょう? ああ……。どうしてわたしはいつも気がつくのが遅いのかしら」

 と言って、ボクの制止も聞かず、少女はボクの瞼から消えてしまった。


 それからどれくらいの時間が経っただろう。


 ボクはゆっくりと時間をかけて、目を開き、体を起こした。胸も相変わらず痛くて、頭はボワンボワンと揺れて、思考がはっきりとしない。本来ならば、自分の部屋にいるだけで落ち着くのに、落ち着くどころか、真っ昼間にカーテンを引かれた光の入らない、どんよりとした部屋の空気感にそわそわして、居ても立っても居られなかった。


 そうだ、ユウマはどうしているだろう、とボクは思った。この感覚はユウマのものなのだから、ユウマならば、この気持ち悪さの正体を知っているかもしれない。ボクはユウマ自身のことをもっと知らなければいけないような気がした。


 それに、なんだかすごく嫌な予感がする。目を開ける前、夢を見ていた。なんの夢だったか、覚えていない。だけど、ボクとユウマに関わる大事な夢だったと思う。忘れてはいけない、大切な夢。


 楽しみにしていた遠足の日をすっかり忘れてしまって、その日の朝、のんびりと学校の準備をしている時に遠足だったことを思い出した時のように、ボクの心は焦っていた。肝がヒュッと冷え、慌てて、間に合うかドキドキしてる時のあの嫌な感覚だ。ボクの口に苦味が広がる。


 ボクは急いでジオラマを背負い、ユウマの家へと向かうことにした。お父さんとお母さんへの声掛けもなおざりに、勢いよく自宅から飛び出た。




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