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10.ボクのジオラマ



 ジオラマがボクのモノになってから、二週間ほどたったある昼下がりのことだった。いつものように、自分が自分じゃないと感じながら教室の様子を伺う。


 ボクは妙に胸がざわつく今の状況をなんと形容していいかわからなかった。ボクはひとりぼっちなのだ、とくすんだ視界の中でぼんやりと思った。


 その孤独な、誰も味方などいないと思えてしまうような状態は、ユウマの席を頂点としている。ユウマは、ボクがユウマの目線に入った瞬間、見てはいけないものを見た、とでも言いたげな視線を送って、すぐに目を逸らしてしまう。その度にボクの心臓は、手でぎゅうっと握りしめられたような強い痛みを深く刻み込んだ。


 繊細すぎる味、鈍感すぎる痛み、ぼんやりする視界、どんな音でも敏感に拾ってしまう耳、止まらない鼻炎。ボクの知らない感覚と感情。そして、見た目がコロコロと変わる変わったジオラマ。


 世界が変わるごとに呼吸を忘れ、それから自分自身を見失わないように、耳も目も口も塞ぎ、体を丸めて縮こまった。


「おい、ツバサ、大丈夫か?」


「あっ……ハルキ……。大丈夫だよ」


 ボクはそう答えながらも、自分の席の上で膝を抱え、縮こまったままだった。それほどまでに追い詰められているのにもかかわらず、ハルキの世界は、どんな世界だったっけ、と、どこか冷静に思考を巡らせる頭があった。


「大丈夫には、見えねぇけど……」


 ボクの丸まった背中がハルキの視線を一身に浴びる。


「にしても、ユウマの奴、本当にひでぇよな」


 ボクが顔を少しだけ上げると、ハルキはちらっとユウマへ眼を遣った。ユウマは一人で机にうつ伏せている。あぁ、ユウマは元のユウマには戻ってない。自分の周りにバリアを張っている冷酷なユウマのままだ……頭の奥で、そういう呟きが聞こえた。


 ハルキはボクの隣に立ち、心配そうにボクを見つめている。


「ツバサが毎日気にかけてやってたのに、ツバサの体調が崩れたらコレだ」


 ハルキが腕を組み、トントントンと五本の指で自身の二の腕を叩きながら続けた。


「本当に最低な奴だよ」


「ううん。いいんだ。ボクが勝手に付き纏ってただけだから」


 ボクは力なく言う。胃がムカムカして気持ちが悪い。自分の具合の悪さなのか、それとも、誰かの具合の悪さなのか、わからなくて頭が混乱する。


 ハルキは気の毒そうにボクを見て、


「ほんと、マジで顔色悪いぞ。ほら、俺の水筒。おでこに当てな」


 と、ステンレス製のひんやりとした水筒をボクの机の上に置いた。


 言われた通りにおでこに当てたとき、この冷たさはボクの味方だと思った。おでこの熱と共にボクの気持ちの悪さを吸収してくれる力がある、と思った。


「実は、水筒の中身はコーラなんだ。これ、秘密な? もし飲みたかったら飲んでもいいぜ」


 ニヤリと笑うハルキを見て、ボクの肩の重荷がより軽くなったように感じた。ハルキの優しさが身に染みる。水筒とコーラの力はジオラマにも勝るのだ。


 放課後、ボクはハルキに水筒を返して、ハルキと一緒に家へ帰った。


 ランドセルと共に毎日持ってきているジオラマのことは誰も触れない。ボクはおそらくみんなに変な奴だと思われている。だけど、ユウマの世界を救ったと考えれば、後悔は……多分、ない。


 冷静になって考えてみれば、ユウマがボクに近付かなくなるのは当たり前だ。でも、ボクはお人好しなのか、考えなしなのか、『いい人』という自分に酔っていたのか、ユウマを助けたらきっと、ユウマは元の優しいユウマに戻って、ボクにたくさん感謝してくれるだろうと、楽観視しすぎてきたのだ。だって、ボクがユウマの立場なら、助けてくれたユウマの手を取り、泣いて喜び感謝の意を無限に伝えるだろうから。でも、ユウマは違ったのだ。ユウマはボクよりも自己中心的に物事を考える人間だったのだ。なぜ、ボクはユウマの性質をよく理解しようとしなかったのだろう。ボクと同じように考えていると思い込んでしまったのだろう。思考や物事の捉え方は人によって違う、とジオラマで学んだはずだったのに。後悔してももう遅い。ボクがジオラマを心から求め、手に入れてしまったせいで、全てが変わってしまったんだから。


 ボクはたまらなくなって、すごい勢いで部屋のベッドに潜り込む。ジオラマを手に入れてから、この部屋の模様替えを何度もした。ある時は埃で咳が止まらなくなったし、またある時は部屋が整然としていると落ち着かなくて、部屋をぐちゃぐちゃな状態にした。何も変わっていないのは小学校の時に購入してもらったベッドボードが丸くしなやかな木製のベッドだけだ。変わっていないのは本当にここだけ。


 目を閉じると世界がぐるぐると回って見える。




 あの日、激しい大粒の雨が降っていた。薄暗い雲を雷がピカリと照らし、雨音だけがユウマの部屋に不気味に響く。窓際で不思議な輝きを見せているジオラマだけが、異質だった。ボクはこの時分には、ジオラマが気持ち悪いと思っていたし、出来れば触れたくないと思っていた。だけど、ユウマを助けるためだ。ボクはジオラマが欲しいふりをする。精一杯自分の心を騙す。


 最初はうまくいかなかった。そりゃそうだ。ボクはジオラマを欲しいなんて、これっぽっちも思ってないんだから。ジオラマはいらない。でも、ユウマを助けたい。ユウマを助けるためにはジオラマがいる。思考が堂々巡りになる。


 どうしたんだよ、と痺れを切らしたユウマに話しかけられたときはもう三十分ほどたっていた。三十分も黙って見ていてくれたユウマが首を傾げ、不安そうな顔をしていた。その顔に見つめられて、ボクの心がざわつきだした。


 あぁ、助けなきゃ。


 どうしてだかわからないけれど、本気で、心から、ボクはそう願った。これまでとは違う強い意志だった。


 ジオラマが艶やかな光を放つ。鋭い小さな剣の形の光が出たと思えば、氷の国のかけらのような水晶のような光、カチッカチッと音を出すように弾ける光……そのほかボクが今まで見たことのないような多彩な赤や青や緑の様々な光が、ジオラマを中心に広がっていた。世界がジオラマとボク、二人だけのものになる。


 光が収まったところで、ジオラマはボクの背中にピッタリとくっついていた。


「どういうことだよ」


 ユウマが戸惑いながら、ボクにたずねる。


 ボクはジオラマを欲するまでの経緯を事細かにユウマに話した。ユウマは驚いた様子で何度も瞬きをして、ボクを見つめる。天井に叩きつけていた大粒の雨は、いつの間にか小粒の雨に変わっていた。ユウマは信じられないといった様子で、ボクが背負うジオラマを何度も見た後、思いついたように部屋から飛び出した。およそ五分ほどして、ユウマは部屋に興奮した様子で戻ってくる。おそらく、走ってボクの家の方まで行ったのだろう。かなり息が切れていた。顔も服もびしょしよだった。だけどユウマの顔は華やかだった。


「まじじゃん! まじじゃん! まじじゃん!」


「なにが?」


「まじで、オレ、ジオラマから解放されてるじゃん! 離れても心臓が痛くない! 世界が、おかしくない! 世界が、オレのものだ!」


 ユウマはボクの両手を取り、ボクを立たせると、興奮冷めやらぬように飛び跳ねた。満面の笑顔だった。


「ツバサのおかげだよ。本当にありがとう」


 ユウマがボクに抱きつこうとした時、不意にその動きが止まった。ボクの背負っているジオラマに手が触れるか、触れないか、という距離感だった。ユウマがゆっくりと後ずさる。ユウマの顔は引きつっていた。ジオラマに触れたくないのだ、とボクはすぐにわかった。わかっているけど、こういうふうにあからさまに距離を置かれるというのは、なんとも言いようのない切なさと悲しみが込み上げてくる。


「すまん。ツバサ、もう帰ってくれないか」


「えっ?」


「オレはもう、そのジオラマに関わりたくないんだ。二度と触れたくないんだ。助けてくれたのはありがたいと思ってる。感謝してもしきれない。恩返しだってしたい。ツバサのためならなんだってやる。でも……そのジオラマはダメだ。近づきたくない。二度と目に触れたくない。ツバサがソレを持ってる限り、オレはお前に近づけない」


「えっと、それはどういう……」


「そのジオラマをなんとかするまで、オレと縁を切ってくれ」


「えっ……」


「とにかく、そういうことだから」


 最初、それは意地の悪い冗談だと思った。冷たくなってしまったユウマは、ひどい冗談を言ってよくボクをからかっていたから。けれども、ユウマの顰めっ面と口調で、ユウマが本気なんだと悟ることができた。


 そのとたん、ボクの目から涙が出そうになった。いつもならこんなことで、泣くなんてこと絶対にないのに。


 ボクはユウマに涙を見られまいと、逃げるようにして、ユウマの家を出て行った。


 強風が吹く。傘が揺らめき、顔が濡れる。葉と葉がすれあい、小枝が地面に落ちる。遠くに雷の音を聞いた。ゴツゴツとした木の幹がいつもより大きく見えるし、葉が揺れる音は、木々がボクを蔑み笑っているような気がする。


 ——嗚呼、かわいそう。


 ——せっかく、助けてあげたのにね。君は見捨てられたの。


 ——やっぱりあの子は汚れた悪魔の子だわ。


 ——薄汚れてる。汚い汚い。


 突然、風が意志を持ったようにビュッと吹いて、ボクと木の葉を吹き飛ばそうとしてくる。小粒の雨が瞬く間に大粒に変わり、風と雨が大合唱を始めた。ボクはすごく惨めになって、一目散に家まで走って帰ったのである。



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