今が陽のあたらぬ春
木版漫画家 藤宮史が書き記す最初の短句随筆集。寂しい、悲しい、苦しい。悶絶しながら這うようにして生きていて、いったい意味があるのか。人生に答えはあるのか。人類の永遠の謎に迫る問題作!
短句集「焦眉の風」は、平成元年から平成二、三年頃までに書いた詩句と、平成十年頃に書いた詩句を載せた。これらの詩句は、私が二十四歳から二十七歳頃までのものと三十四歳頃のものに分かれる。
この「焦眉の風」を纏めるにあたり、私には多少の逡巡があった。ここに記されている若いときの気持ちは、今は、私には遠いものになっている。もっとも、大部分の詩句の感慨は今も私の気持ちそのものであるが、老残の、五十八歳と云いう年齢では、恥ずかしさが先に立つのは仕方がない。
人生は苦しいものである。孤独である。そして、時には家族から、友達から、学校から、職場から孤立を強しいられ、追い込まれてゆく。ここでは、そんな慚愧の思いを記してゆきたい。
今が陽のあたらぬ春
私は、十四歳頃から躰が悪かった。それ以前の六、七歳ごろも、鼻が蓄膿症を病んでいて、簡単な手術もした。その後、蓄膿症治療として漢方薬の錠剤を三年ぐらいは飲んだ。悪いのは躰だけでなく、神経も細かった。
十二、三歳頃より軽度の不安神経症の症状があった。私は、私の身近にいた小児癌患者の存在により、癌が恐ろしくなった。一度、癌が恐ろしいと思うと、躰に異変がなくとも自分は癌ではないかと疑い出した。所謂、癌ノイローゼである。私は、中学校の理科の授業のとき、教師が、花崗岩、蛇紋岩、砂岩、泥岩と言っただけで神経が疲弊した。誇張でなく、両耳を手で押さえていた。
十四歳のとき、人間は死ぬ、いつか死ぬ、私も死んでいなくなる、と云いうことを発見し狼狽した。私は人生に絶望した。生きていられぬほどに恐怖した。併し、しばらくして、いつもの日常の感覚に戻っていった。
十五、六歳のとき、私は歯が悪かった。常に歯痛に苦しんで、歯科医に日参し、鎮痛剤が手放せなかった。また、この頃は胃腑も悪く、胃腸薬の大瓶が、ひと月もしないでカラになった。そして、また、この頃、私の宿痾である神経痛が始まった。今では、右足の踵、左の腰骨にも神経痛はあるが、その頃は、胸部の肋骨のところが痛んだ。痛いのは、左の胸部であったので、俄かに慌わてた。私は早計にも心臓に異常があると思い、病院へ行って心電図を採り、レントゲンを撮らせた。また血液検査もした。併し、案に相違して、異常はなく、私はまったくの健康体であると言われた。私は嬉しい気持ちよりも医者の見立てを疑った。
高校を卒業し、大学受験に失敗すると、憑物が取れたように心は自由になった。私はあっさり進学を放棄して、単身上京した。東京では、画家になって大成するのだと思い込んでいた。併し、しばらくすると大成するのは無理だと悟った。挫折したのである。大成どころか、画家にもなれていなかった。私は、自分が、まだ若いからだと思い、現実から逃げていた。現実はアルバイト仕事で低賃金を稼ぐだけで、この頃も胃腑の痛い日々が続いていた。また、十六、七歳のときに入れた上前歯の差し歯が五本、そっくり取れてしまった。理髪店へ行く金もなく、だらしなく伸ばした髪が肩まで伸びていた。
二十五歳の私は、前歯が抜け、髪がぼうぼうに長く、三畳ひと間の安アパートに独居していた。この頃は、アルバイトは日雇いの土工仕事になっていた。手配師のいるドヤ街のニコヨンである。また、金融業者を騙してつくったサラ金の借金が五十万円ほどあった。絵もできず、夢も希望もないような暮らしぶりであった。それでも、その時々が〈今が陽ひのあたらぬ春〉と思えたのであった。