【短編】奥様専属侍女の追憶
※人物像のイメージ崩壊を引き起こす可能性大有なので、読むなら前もって覚悟とご注意を。
(先に忠告はしましたからね!)
「――エミリーか」
「失礼致します。旦那様、おくつろぎのところ申し訳ございませんが、本日は奥様の日記管理をさせて頂く日でございますので」
「分かっている。邪魔はしない」
素直に読んでいただろう奥様の日記を丁寧に閉じて退席した亡き主人の伴侶を粛々と見送り、テキパキと唯一と仰いだ亡き主人の遺された私物を慎重な手付きで確認する。
今はこれらを紛失、破傷しないよう管理していくのが私の任務だ。
「本日確認する日記はちょうどお嬢様が、――いえ、奥様が公爵邸に嫁いだ頃合いのものからですか」
計算された採光によって室内を柔らかく包み込んだ光に、本人がこの場で過ごしていた頃の、昔の記憶から姿を幻視して目を眇めた。
亡くなった主人の香りがいつまでも残っている気がするのは、それほどまでに大きな存在であったからなのだろう。多くの者にとって。
『あんな眼差しで、あんな表情をしておきながら何を言うのかと思えばあんの男っ……!!』
政略による婚姻相手の急な変更の為、今まで会ったことが無かったという相手との最初の顔合わせに赴いたはずの主人が、真っ赤な顔でぷんすか怒りながら帰って来た時には不忠にも心底安堵した記憶がある。
何故なら、いつもどこかで周囲を顧みずに置き去りにする勢いで常に一人だけ生き急いでいるような、けれどゆったりと時間をぼんやりと遠くから他人事のように眺めているような、そんな不安定に見えていた主人がやっと地に足をつけたような気がしたからだ。
私がお嬢様である主人、――奥様と初めて出会ったのは、とある辺境領で追手から逃げて逃げて逃げ続けた末に隠れ蓑にするため適当に侵入しようとした貴族の邸宅の中であった。
……思えば、あの時の選択がなければ私の命は今もこの世に存在してはいなかったことだろう。
『――誰ッ!?』
どうやったのか、私は侵入後に何故か瞬く間に駆けつけて来たお嬢様にすぐ見つかってしまった。メイドにでも扮装して暫く追手をやり過ごそうと侵入したばかりで、何の準備も出来ておらず私はかなり焦った。
深夜に血だらけで武装した怪しい女が貴族の邸宅に無断侵入したのだ、このままでは騎士に突き出されたとしてもおかしくはなかった。
しかし貴族のお嬢様と察しつつ焦りで咄嗟に安易に口封じしてしまおうと動いてしまい、追手に負わされていた怪我のせいで本来のようにまともに反応することは出来ずにあっさり制圧されてしまったが。
とはいえ、言い訳するのならこれは私が怪我をしていたせいではなく、元々弱かったせいでもなくお嬢様がただただ単純に物凄く、異常に強かっただけなのだ。比喩ではなく。
『分かったわ。私ってテンプレ大好きなの。任せておいて!』
お嬢様の謎理論の超魔法によって生い立ちから逃げていた理由までも洗いざらい白状させられ吐かされた私に、成長途上な真っ平な胸をとん、と叩いてお嬢様が宣言した。
てっきり、裏稼業の者と知られれば情報を絞り尽くして始末されるだけだと諦観していた予想は良い意味で裏切られた。
それからのことは、気付けばお嬢様が時々使っていた変な言葉並みに意味の良く分からないまま物事は私の都合の好い方向へ進んでいき、いつの間にか私はお嬢様の必要なのか疑わしい護衛兼専属侍女となっており、お嬢様と出会うきっかけとなったあの夜までは決死で逃げていたはずの追手も驚くほどにあっさりと組織ごと跡形も無く消え去ってしまっていた後だった。
呆気に取られるとはこのことか、と貴族にしてはあまりに変わり種なお嬢様の存在自体に驚いたものである。
しかしそんな変わったお嬢様のおかげで私が裏稼業から簡単に足を洗うことが出来たのは間違いなく、――救いの無い一面闇世界の底から救い上げてくれたお嬢様に感謝してもし足りなかったのは何があろうと変わらない事実だったが。
だからそんな自由奔放に見えていたお嬢様が、実は辺境領に住まう民や国の為に政略結婚という犠牲を受け入れることになっていると知った時には暗殺、暗躍の二文字がそれぞれ脳裏を過ぎったりしたのは若気の至りであった。
『――いいの! 私、この世界の人たちのこと嫌いじゃないし!』
世界とは、大きく出たものである。そう先に言われてしまえば、範囲の広さにヤル前から諦めがついてしまったのは仕方ないことだった。
闇稼業の暗殺者を損得無くただただ救ってしまおうとするような方だからこそ助かったとはいえ、あんまりな博愛主義っぷりに眩暈を覚えた当時の、まだ経験値の浅かった若かりし頃が実に懐かしい。
そうやって子どもであることを免罪符にし、淑女をどこかへ意図的に置き去りにしていたはずの自由人だったお嬢様も、婚姻が行われる年頃になっていくにつれ本来の自身を表へ出すことは数少なくなっていっていた。
ある時、感情を無理に抑制しているように見え、それで弊害でも出ているのか出会ったときとは別人のように変わっていくお嬢様の姿に耐えられず「嫌ならば逃げましょう」と問いかけたことがあった。
それを、――。
『どうして? 私が居なくなれば大勢が困るのよ。私のせいで誰かが処罰を受けるのは可哀想よ』
まるで何を言われているのか分からない、と本気で困惑したような顔でお嬢様は言葉を続けた。
『それに、別に政略結婚自体は特に嫌ではないの。ただ、貴族って意味の無い揚げ足取りがお仕事なところがあるからか、嫌味や弱点探しはお得意分野でしょう? だからこそいまから先に色々下準備して、いずれバレるにしても、すぐには本性がバレないようにしてるだけよ』
聞いててあれ? と思わず首を傾げた。いざという時の為に準備していたはずの逃走経路が全て不要の産物、つまり無駄になったということだけはすぐさま理解したが。
あれ? と。なんかやけに好戦的だな、と。思ったより悲壮感とか無く、むしろヤル気満々だったな、と。これってもしや余計なお世話だった? あれれ……? と。
私の困惑を知ってか知らずか、「敵を騙すにはまず味方から……」とかなんとか、何故か無駄に意気込んでる様子に何とも言えない顔をしてしまったのは、仕方なかったかもしれない。
……大勢の味方を騙すにしても、一番近くの味方であるはずの私へ簡単に計画をバラしてしまうくらいならば、せめて協力出来るようにもっと前もって言って欲しかった、と思わず天を仰いだ。
『ふふふ、もしかして自己犠牲で受け入れてるとか勘違いさせちゃった? でもエミリーがそこまで心配するくらいに騙せていたのなら、私の猫被りも捨てたもんじゃないわね!』
『……いえ。はい……ですが。本当に全て――偽りでしたか……?』
だからこそ。異様に猫かぶりの上手過ぎる主人の本音という隠し事を見逃さないよう、視線を逸らすことなく問いかけたのはそれでも疑問に思っていたことだった。
いくらなんでも偽るのが上手過ぎる。裏稼業でも嘘が上手い人間というのは一定数存在していた。彼ら彼女らに共通したのはただひとつ。嘘の中に真実も混ぜていたということ。これであっさり人は騙されやすくなる。
真意を読み取れない、隙の無さ過ぎる綺麗な微笑みのまま主人がぽつりと言葉を溢した。
『――大丈夫。私は私の愛をすでに決めているから』
答えになっていなかった。――はぐらかされたか、とため息が漏れた。
とはいえ、これが真実の可能性もある。早計な判断は慎むべきだ。
……しかし、そうなると私も知らない恋人が存在していたということになるのではないか。
そうなったらそれはそれでなんともややこしい――。
『……恋人がいらっしゃるのなら尚のこと――』
『まだいないけど?』
『――――』
『これから見つかるといいんだけど』
そう言って笑った主人の楽し気な表情に弄ばれたか、とあの時に判断したからか、後でそれ以上それに関して詳しく聞くことはしなかった。
――が。まさか、少し昔に何の為にかお嬢様のことを執拗に探っていた大きな、けれど裏っぽくは無い素人組織に。
お嬢様への危険や面倒を避けるためにありもしない適当な偽情報を掴ませ続け、何度も追い払った謎の勢力の頂点がまさか、――まさか戯言と判断してしまったお嬢様の言葉そのものの相手になるとは当時は思いもよらなかった。
そもそも、あまりに相手がしつこいからと当時お嬢様に何か心当たりが無いか聞いた時には「え? ……んー。多すぎて分かんないや!」と、褒めていないにも関わらず本心も思考も読み取れないへらっとどこか照れたような適当な笑顔で言われたものだから、余計に。
当時のあれはわざとだったのか単に忘れていただけだったのか、それとも別に隠すような何か重要な理由でもあったのか、もしくは伝え方が悪くて心当たりが無いと勘違いさせていただけかもしれない。
いずれにしても、お嬢様の思考に関して判断に困るのはいつものことだったから、それが亡くなってしまったらもう尚更その真意は分からず仕舞いのままだ。
――人生とは実に不思議に満ちている。
この世の一番の不思議は間違いなくお嬢様であったろうが。
『――こいつ、実は童貞なんじゃなかろうか?』
「こ、これは……!」
昔を懐かしみつつも順番に虫食いや欠けが無いか丁寧に確認し、主人から授かった修復と保存の魔法を掛けられるという唯一無二の特別な魔道具で修繕をしていた作業を、見て見ぬふりでは到底見逃せないような衝撃の一文を目にして一時停止。
多くの子どもを産んだことで落ち着いて見えたから、やっと大人になったのだと思い込んで勘違いしていたようだ……私的な日記とはいえ、いくらなんでも自由が過ぎるのではなかろうか。
今更になって気付いた、主人が巧妙に隠していた顔に呆れつつも、いくら年を取るにつれて淑女としての表面を取り繕うのが上手くなろうと、根本は出会った頃の自由奔放だった少女そのままだったのだと、自然と笑みが浮かんだ。
こうして在りし日の主人を想い起させてくれる日記を管理する仕事は、私に残された任務であり、唯一の楽しみになっているのかもしれない。
いつもなら仕事中はサラッと読み流し、後からこっそり誰も居ない時に読み耽ることも多いが、内容が内容であるため、先に確認はしておいたほうがいいかもしれないと言い訳する。
主人の家族たちは無意識にか、意識的にか、主人が公爵邸に嫁いでから書いた大量の日記にまだ誰一人として触れることが出来ないでいたから。
今は皆、幼少期の主人が仕出かした多くの問題事や厄介事を冒険譚風に誤魔化した日記に夢中になっているところだろうけど、それも時間の問題ではあるからこそ今の内に主人の名誉の為にも先に確認が一応は必要かと思った次第である。
ちなみに物語風に日記を書いてはいるものの虚偽ではなく全て事実だ。
おかげで主人の双子の子どもたちに「えみりー。すぱい? にんじゃ? あさしん?」と主人の謎語録で真剣に私の本当の職業はどれかについて問いかけられて困ったりもした。
……唯一の救いは、謎語録のおかげか大体は虚構の物語であるだろうと判断されている節があることだ。
これで普通に事実の箇条書きみたいに「庭先に侵入してきた逃亡中の瀕死な暗殺者を拾ったから追手組織を壊滅させてやった」だなんて書かれていたら説明に困った事態に陥っていたかもしれない。
……いや。説明も何も、その前にどうしてそうなったかの意味が分からないし、意外と普通にそう書いてあっても軟弱そうな見た目の主人がやったとは信じられずに妄想か虚言であると判断されたかもしれないが。
とはいえそれでも察しの良い一部にはそもそも最初から気付いている実力者もいたから、今更といえば今更なのかもしれなかった。
旦那様も相当な実力者であるために奥様の強さに関しては気付いていたようだったが、何故か婚姻前も後も一向に何も言ってきたことが無かった為、すっかり誰も最後まで何も問わずに主人は亡くなってしまった。
生前、主人はもしも何か聞かれて困ったら「女の秘密、つまりシークレット☆」だとか「天からの祝福、つまりチート☆」だとでも言って何事も適当に煙に巻いて誤魔化せばいいなどと、二人きりで気が抜けて酒を飲んで酔っていた時にふざけたようなことを軽く世迷い事のように宣っていたが、まさか本気でそれだけで乗り切って逝ってしまうとは、人生とはやはり不思議に満ちている。
何故あれで皆が疑問をすんなりと引くのかが未だに理解不能なのは、私が主人の強さの真理を理解する境地に至れていないからなのだろう。
主人の謎語録は実はとても凄いものだったらしい。何が役立つかは世の中やってみないと分からないものである。まあ、それはそれとして。
ちょっと日記に書かれている主人視点での私が脚色され過ぎてて、主人の家族の食卓の話題にされると凄く気恥ずかしいのなんのという問題を除けば、主人の遺した冒険譚風の日記に問題は何もなかった。
――そう、その日記には何も。
しかし、私は奇しくもまだ主人の家族の誰も読んでいない日記の中に問題のある日記を今日ついに見つけてしまったのだ。
これは今すぐにでも確認するべき取り扱い注意の危険物だと私の勘が言っている。主人の名誉の為にも。
『――こいつ、実は童貞なんじゃなかろうか?』
――そうして疑問提起から始まった日記は、つらつらと主人が旦那を童貞であると断じる理由らしき詳細を事細かに指摘しており、読んでいると無駄に文章表現が凝って巧みなせいで場面が容易に想像出来て実に居た堪れない。
……こんな破廉恥なことまで書いて残していたとは思わなかった。まさか羞恥心まで捨て去っていたのだとは流石に気付けるわけがない……。
『奥様、あの、実は今朝のことなのですが、……旦那様がかなり険しい顔で寝室を飛び出し走って別宮へ出仕していかれましたが、何かございましたでしょうか?』
『あら、エミリー。おはよう。朝早くご苦労様。ちょっと昨日緊張で失敗しちゃってやらかしたせいかもね……』
『さようでございましたか……』
平民の初夜であれば暫くは蜜月を過ごすものと知識にはあったものの、政略結婚の貴族だから初夜の翌日であっても夫婦が別々に過ごす、そういう日常は普通であるのだろうと当時は深く触れずに納得して受け流した。
――が、日記によると正しくはあまりの手際の悪さ遅さに痺れを切らした奥様が初夜の途中で旦那様を逆に押し倒して事に及んでしまい、次の日にびっくりしたらしい旦那様が色んな意味の羞恥で逃げたというのが真相であったようだ。
……今頃になって知りたくはなかった主人に関しての衝撃の事実である。
政略結婚においては特に後継者という問題は繊細であることも相まって、初夜が失敗したと聞いて主人の負担にならぬようにと気遣ってあまり深く聞くことはしなかったが……まさか予想していたのとは違う方向で主人が婚姻早々にやらかしていたとは知らなかった。
思い返せば確かに旦那様の様子のおかしさに比べ、失敗したと言いつつも堂々たる主人の寝坊は何か変だとは思っていたが、当時は主人を気遣っていた為に深く話に突っ込まずに適当な理由で納得した記憶があった。
……まあ、その後に立て続けで主人が子どもを順調に産み続けたから初夜の失敗云々の話はとっくに記憶の彼方に忘れていたせいもあるのだろうが。
「――――」
ふと、まさかと思って確認作業がまだ先のはずの主人の日記を一通り確認して、思わずくらっとまだまだ現役なはずなのによろけそうになった。
――日記の書かれた時期が後半になるにつれ、二人の立場が逆転してきてるから逆転し返したいという謎の熱意溢れる主人の要らない情報を挟みつつ、明らかに子どもに見せてはいけない内容がつらつらと書き連ねられている日記を確認して処置なし、と嘆息した。
なんてものを遺してるんだ、あの主人は――!!
きっと自分がそんなに危ない内容を書いていたということは、書くだけ書いた後にすっかり忘れてうっかり託してしまったに違いない。
――これは流石に、一人では抱えきれない問題だ。
この日は作業を中断し、私はまず被害者である旦那様に真っ先に確認し、けれど何故か意外にも大丈夫を貰い困惑し、最終的には一番良識があるだろう子に育った主人の一番目の子どもに後を託すことにした。
若干、知りたくなかった母親のアレコレについて知ってしまってげっそりとやつれた顔になってしまっていたが、万が一あれが他の家族に読まれた時のことを思えば少ない被害、必要な犠牲であったことだろう。
結局、建国史から名が存在する由緒正しき古き血脈である公爵家という全ての伝手を総動員して命に関わる契約魔術で縛った宮廷魔導師を秘かに招待し、問題の箇所を一定の年齢層に達し、更に当主の許可を得た主人の血族と旦那様にだけ読めるようにとわざわざ大魔法を掛けてもらった。
しかし大昔の聖魔法を模倣しただけの気休め程度のものだから、効果にあまり持続性はない。
定期的に魔法を掛けてもらう必要性があるので出費が嵩むが、そこは母親の名誉のためにも一番目の子には真面目に頑張って欲しいところである。
もしかしたらいずれ、伝説の聖魔法の使い手であったという勇者や聖女が現れて、永続的な大魔法を掛け直して財政を救ってくれるのやもしれないのだし。
……お伽噺の伝説にしか存在を聞いたことがないので、その可能性は限りなく無いに等しいが。
なにはともあれ、救いを求めるだけなら金は掛からないから損は無い。
幼少期から裏社会で育った名残りか、こうなってくるといっそ名誉棄損の証拠となるだろうものは一刻も早く抹消するために燃やしてしまったほうが処理も早く、簡単に済む上に後腐れもなくて主人の名誉も永遠に守られるのでは? とついつい考えてしまうのは治らない思考の癖だった。
がしかし、それを私も一瞬考え提案はしたのだが、一番目の子や詳細は知らずとも反対する他の主人の子にとっては最初からその選択肢は無しなようで、それを見て主人は想像以上に家族にとても愛されていたのだと思い知った私はその考えをすぐさま取り下げることとなったが。
こうして主人の名誉を無事守るという仕事を見事こなした私は、再び他に問題が無いか含めて日記の管理の続きに戻ることにした。
さすがにアレ以上にアレな内容は出てこないはずだ。
「エミリー。先日は大変だったのに、今日も熱心ですね」
「ベンジャミン」
引き継ぎや主人の子の補佐で忙しいはずの、夫のベンジャミンがこの時間帯にここへ来るとは珍しい。
主人の紹介で結婚することにしたベンジャミンは、焦げ茶の髪と薄茶の瞳、群衆に埋没出来る実に羨ましい容姿の持ち主だった。
元々は主人の傍にいる理由づけの為だけに適当に選んだ夫だったが、今ではそこそこそれなりの良好な関係を築けている。
後はカールトン義父様のように実力がつけばいいのだが、以前お嬢様の適当な情報を掴ませて追っ払っていたのが私だと未だに気付けていない程度なので、残念ながらまだまだ未熟者である。
「申し訳ないのですが最近、ラファエル様とアリエル様の魔力値が異様に成長していまして、何か心当たりはありませんか?」
「――――」
異様……。主人の子だからそれは別に普通のことではないだろうか。
などと一瞬思ってしまったが、よくよく考えれば確かに世間一般的には普通のことではなかったのだと思い直した。
「急激な変化は身体への負担も大きいので心配ということもあるのですが、成長期にしては異様な速度の魔力値上昇に流石に不安になりまして」
「――――」
そうか……。そういえばこれは心配し不安になるべきことなのか……。
主人はぴんぴんしていたので、その主人の子なら大丈夫だろうと勘違いしたまま気付いても気にせず放置してしまった。失態だ。
「直接お二人から原因の心当たりを聞こうとしても所々意味の不明な言葉で返されてしまい……亡くなられた奥様はそもそもご出身の系譜の中では有り得ないほどに魔力が多く優秀な方だったそうでしたから、もしかしたら一番長く仕えていたエミリーなら原因が何かを知ってるかもしれないと思ったのですが……」
「――いえ。特には」
私は手に持っていた主人の日記に視線を逸らして夫へ答えた。なんとなく、双子の行動範囲による推測や主人と過ごし培った鋭い勘によって心当たりらしきものが無きにしもあらずではあるが、確実ではないのでまだ言わない。
というより、それより先に気になる色々が初耳である。……そうか。やけに主人がでたらめな強さだったのは、てっきり貴族の特別な血筋からかと今の今まで思い込んでいたが、どうやら違ったようだ。
「そうですか……ありがとうございます。大事なお役目の最中に失礼しました」
聞くだけ聞いて去って行った夫を後目に、私はすぐさま主人の双子の子どもを探し出して捕まえて根気よく話を聞き出した。
……どうやら、素質のあるものになら見れば言葉を理解し実践出来るという修行法らしい記載が主人の日記に魔法で小細工されていたらしい。聞いてない。
だからか。主人に直接教えてもらったにしても、私でも覚えるのが難しかった主人の謎語録の単語や文法を活舌もまだまだなはずの子どもたちがやたらと使いこなしていたのは。
――封印する必要のある日記の該当箇所が増えたのは言うまでもない。
もうこうなってくると主人なら何でもありだ。すでに亡くなっているはずなのに偲ぶにしても妙に名残りが強烈過ぎるのはいかがなものだろうか。これではしんみりと偲べないのに、わざとか。わざとなのか。
こんな主人の子たちへ悪影響を与えるようなものばかりを遺して、もしもそのせいで主人の子たちが昔の自由人全開だった主人のような無茶苦茶に育ってしまったら人類が可哀想過ぎるというものである。
『――尻軽王女が何を勘違いしたのか、夫を交換して助けてやろうかなどと上から目線で精一杯の嫌らしくしたらしい顔で、貧相なまな板を頑張って張って親切を装って聞いてきたから、遠回しにお前の子どもっぽい顔と胸じゃ無理だって言っておいたのだけど、そんなに気にしていたのか何故か前よりも更に嫌われてしまったみたい。親切に夫の好みを教えてあげたというのに、素直に助言を聞かないなんて馬鹿なんじゃないだろうか』
馬鹿は主人です。何してるんです!?
そんなことあったなんて何も聞いてないんですがッ!!
『――元婚約者がやたらと尻軽王女の体型を嘆いてくるのだけど、知るか。お前が育てろ。乳は育つ。努力が足りない。そしてそもそも婚約中ですら数回しか会ったことの無かった王子と復縁出来るような懇ろで親密な仲では決してなかったし、そもそも前提として政略結婚を一体なんだと思って生きてきたんだろうか』
よほど怒りが治まらなかったのか、王女とバチバチ嫌味の応酬をしてたことよりもよっぽど長々と王子に口説かれたことについての悪口が数枚に渡ってびっしりと書かれていた。
……やはりあの時に暗殺しておけば。いや、どのみち王子との結婚は回避され、旦那様と主人が出会えたのだから王子妃の引き取り手として殺さずに放置しておいて逆に良かったのかもしれない。
『実は私とは親と国に引き裂かれてしまった悲劇の恋人同士だった~とか記憶の捏造改竄妄想が酷いし、何度ハッキリ断っても自分と裏でこっそり浮気しようだなんて絶対すぐ噂になってバレること間違いなしな性欲馬鹿丸出しの提案を勧め続けるとか鳥頭の阿呆か。婚約が白紙に戻る前ですら政略でもなければ普通に無し寄りの皆無だったわボケが』
だんだんと淑女を引っぺがして王子をぼろっぼろの襤褸切れにする勢いで書かれている主人の日記の文章を読んでスッ、と頭が冷えた。
王太子……いや、今は王子妃と共に離宮に引っ込んで病気療養してるだかでただの王子に継承順位が繰り下げになっていたのでしたか。
王子暗殺……今からでも遅くない気がしてならない。
『前から思っていたけど王家は教育がなってなさ過ぎる。改革が必要だと訴えるのが今の内に出来て良かった。代替わり前にまだまともらしい現王へ具申する機会があって助かったからいいものの。まだ教育が間に合う純真でぴちぴちの孫がいるのに、尻軽王女の言いなりになってるくせしてうちの夫をライバル視して私を口説こうとか魂胆見え見えで片腹痛い。まずは夫みたいに目線ひとつ寄越すだけで女をぞろぞろ引っ掛けるだけの脅威の手練手管を見習っ……うのは神に与えられた天賦の才能だろうからまず不可能だろうけど。とにかく、夫とは存在価値が比べるのも烏滸がましいほどの勘違い色ボケ馬鹿王子に本気で王位を譲ろうとしてたなんて世も乳も末である――』
乳は関係ないでしょう! 何故急に乳!?
もしや父と掛けてる!? 上手くも面白くもありませんよ、主人!
そして何気に自分の夫の褒められたものではない才能に自慢気ですね!
あれだけ執拗に愛人関連調べてこい、と恐ろしい主人の魔力量で無意識に脅されながらも顎で扱き使われた日々はなんだったのか、と思いつつ何気なく続きを確認して判明した無駄に自慢げだった理由に思わず唖然とした。
そして、
「納得いかない……」
主人が亡くなってしまった今更言っても仕方ないことなのかもしれないが、命令とはいえせっかくほぼ自主的に主人の為をと想って寝る間も惜しんで旦那様と愛人の関係を逐一監視していた苦労の日々が走馬灯のように薄れていく。
最初の頃はともかく相思相愛っぽくなっていた途中から完全に、主人はむしろ自分の夫が女を度々どこかで引っ掛けてくる姿を実は内心面白がっていたらしいといった内容が王家の愚痴悪口の後で日記の続きにひっそり書かれていたのだ。
さらに言えば、時々変わっていく推しの愛人とかいうのと繰り広げたらしい陰湿なやり取りが云々とかいうふんわり意味の分かってしまいそうな正気では意味を知りたくない余計な謎語録付きである。
人生の何事をも最期の瞬間まで楽しんでいたようで何よりではあるが、流石にこれはいかがなものだろうか、とも悩んでしまう。
普通の女性ならば浮気未遂や疑いなどと聞いて、表面上はどうであれ心の奥底では夫や恋人、愛する人の浮気というやつに正気ではいられないはずである。
当時の主人も例に漏れず表面上は本気で平気そうに振る舞っているように見えたが、裏では私にこっそり調査を求めてきたくらいだったのだから、完璧にああこれは虚勢を張ってるんだろうなと凄く心配していたというのに……まさか内心でそんなことを考えていたとは全く気付かなかった。
確かによくよく当時の主人を思い返せば、夫の愛人についての報告で憂い顔などのそれらしい顔を浮かべる瞬間が夫ではなく愛人のほうに関してで妙に偏ってるような気がして変な時があったが、日記に書かれていた当時の主人の内心を知れば知るほどなるほど、と当時の何故かズレている気がした主人から感じた不可解にきっちり全てがスッキリ当て嵌まった。……当て嵌まってしまった。なんて紛らわしいのか。色々と。
つまり夫の監視がしたかったとかではなく、遊び半分娯楽半分で愛人関連について徹底的に調べさせていたのだ。納得し難いのも仕方ないと言いたい。
そうなるとそもそもからして、主人には何か夫の愛を最初から信じきれるような明確な根拠でもあったということになるのだろうか。
……もう聞き出せないというのに、主人の謎に満ちた思考回路の不思議ばかりが増えていく。
客観的には間違いなく、いくら手出ししていないとして誤魔化しや逃げ場の為だけに愛人を何人も作って囲っていた旦那様が最低であり一方的に悪いはずなのに、何故か旦那様のほうが主人に純情を弄ばれていたと言われたほうがしっくりくるような気がしてならない。
……おそらく気のせいだろう。ということにしておきたい。
でないとそう考えてしまうと、どこかで主人の琴線の何かに触れてしまい、気付かぬうちに主人の純粋で見返りの求められていない重過ぎる愛を一心に向けられていた旦那様へと同情を寄せてしまいそうになるからだ。
主人の行動ひとつひとつ全て挙げていけば正気の沙汰ではなかった、と言われても仕方ないというのは裏社会で育った私でも思ってしまうのだから。
だからこそ傍目には完全に相思相愛であったとはいえ、他人事として外から見ていても主人の重い愛から逃げたくなる旦那様の気持ちはとてもよく分かった。
……まあ、もしかしたら想像出来ないような全く別の理由で主人から逃走していただけかもしれないが。
「はあ……もうそんな過ぎ去ったことより、これをどうしましょうか……」
主人の日記を読むことで訪れた幻の疲労だったせいか、身体はまだまだ疲れていない。強いて言えば大きな心労には襲われたが。
後半にちょろっと書かれていた主人のちょっとした内心を知った驚きと衝撃でぽろっと忘れそうになったが、そもそも王家に対しての誹謗批判や醜聞となる内容のほうが優先すべき重要な大問題である。
普段は普通に平々凡々で平和な日常のことだけを書いているというのに、時々どうした、何があったんだ、と問いかけたくなる頻度でとんでもないことがさらっとなんでもないことのように唐突に書かれていたりするものだから、主人の日記を確認するなら常に気を抜かず、警戒しなければならないのだ。
気をしっかりと持ち直して日記が書かれた問題の時期の出来事を必死に思い返したが、あの時は別に何か社交界やましてや国で騒がれ話題になるような大きな事件などは断じて無かったはずである。
そもそも主人の日記に書かれたこれが全て事実だとして、――いや間違いなく事実だろうが。当時の隣国から嫁いだ王子妃と王太子について夫婦仲が悪かったという話等は全く聞いたことなどない。
旦那様が女性を勘違いさせて云々は充分有り得る話であるからともかく、元々の婚約者であった王子と主人との間でそんな下品な会話がなされていたとは。
というより、もしかしなくとも王子妃に嫌われていた云々というのは、普通に自分の旦那である王太子が主人を裏で口説いているのを知っていたせいではなかろうか? そう思えてならない。
他にも王家批判満載とも言える結構なことが書かれている部分を読んで違う意味のため息を漏らしたくなる。今更になってとんでもない置き土産である。
これは間違いなく知られれば瞬く間に醜聞となっていたであろう話の数々だ。
今でも充分知られれば問題であるだろうが。
当時、普通に平穏な子育てを楽しんでいたはずの主人との平和だった彩り豊かな記憶が、あの日々の裏ではこんなことが……な真っ黒な内容がびっしりこれでもかと書かれているせいで、一気にドロドロとした黒いものに塗り替えられてしまった心地だ。
こんな裏を知らなかった当時の事件らしい事件があったとすれば、主人が急に王家との交流だなんだとか言い出して、次期王太子殿下の乳母兼教育係に本来の人選を押しのけて急に抜擢されたことぐらいで……。
「――――」
そういえば「ちょっと国の将来が心配だから、どうせなら万が一に舵取りしやすいよう、うちの子大大大好きっ子に育てようと思うの」だなんて王族相手に不敬甚だしいふざけたことを言っていたが、もしやこれが原因で……。
いやしかし、結果的には主人の子と王家が良好な関係をしっかりと築けているのだから無駄ではなかったはず……。
「――――」
とりあえず、せっかく良好な関係を築けているのだから、今更になって不和の種になりそうな事実は全て隠すべきである。
私は最近よく赴くことに慣れた現当主執務室へ迷わず向かった――。
『――どうみても相思相愛だと思うのですが、何故旦那様へだけいつまでもあのような他人行儀ともとれる言動を取り続けるのですか』
主人が自らの子どもたちや家人と接する時と、旦那様と接する時での言動のあまりに大きな差を不思議に思って問いかけたことがある。
妙なところで積極的な主人のことだからすぐにバレるかバラすかして、早々に旦那様へも主人の本性を晒け出してもっと気安い態度に、――主人の謎語録を用いればラブラブホット、というやつに変わるだろうとしていた予想はとうとう主人が最期を迎えてまでも叶うことはなかった。
『え? うーん。そうしないと夫との会話が成立しないから?』
『はあ……?』
『もっと詳しく言えば、猫被んないで私が接するとあまりに刺激的過ぎるせいなのか、とっても初心な夫の記憶が一発でぶっ飛んじゃうくらいの気絶で倒れさせちゃうから?』
『分かりました。もういいです』
『ほんとなのにぃ……』
悩んだ末に答えた主人は当時、少しだけ困ったような顔をしていた。
私は主人のそのただの惚気みたいなふざけた答えを冗談だとして軽く受け流した。まさか真実だったとは……。
主人の日記を読むために今日も今日とて手ぶらでふらりと主人の部屋に訪れた旦那様が、例の危険な日記についに手を掛けてしまうのを横目に粛々と退室しようとしたところ、ちょうど一枚めくったらしいところで何故か急に旦那様が鼻血を出しながら気絶してぶっ倒れたのだ。
ちょっと意味が分からなかった。そして危うく主人の日記が真っ赤に染まるところだったから、普通に旦那様よりも日記を咄嗟に優先してしまった。
ゴッ! と結構な音で床に頭をぶつけてしまわれたのは私のせいではないはず。
――いや待て、もしかしなくともこの状況は客観的に見て危険ではなかろうか……。
「――きゃ、きゅあああああああっ! 旦那様! ご無事ですかっ!」
「う、ん……」
私は一度、主人の段々ただの危険物と化している日記を丁寧に片してから、さも今ちょうどやってきましたというわざとらしくない程度の顔と悲鳴で旦那様に駆け寄った。
主人の言葉が真実確かなら、記憶はぶっ飛んでるはずである。
「え、みりーか……私は何を……」
「覚えておられないのですか? 足を滑らせて頭を打ったのですよ」
「そ、そうか……?」
「そうです。それより、本日も奥様の日記をご覧にいらっしゃったのではないのですか? 頭は大丈夫ですか?」
若干巧妙に違う意味を混ぜ込みながらも心配の声を掛け、疑われないように近くの椅子に素早く座らせた。本当に記憶が無いらしい。
こんな状態でどうやって主人とあんなにたくさんの子作りなんてものが出来たんだろうか……不思議である。人類の神秘というやつであろうか。
「そういえば落としましたよ。破損しないようお気を付けて下さい」
「あ、ああ……すまない」
ちゃっかり旦那様を気絶させてしまっただろう項目を飛ばした主人の日記を渡して、その日はなんとか事なきを得た。
あの体たらくで何で以前聞いた時に暢気な顔で大丈夫だなんて臆面もなく言えたんだろうか、あの主人の伴侶様は。不思議だ。
「――ひっ!」
いつものように主人の日記管理の為に主人の部屋へと向かうと、血だらけになった惨殺死体があった。
あ、いやよく見たら旦那様だった。脈を測ってみた。
「ふむ。生きているようですね」
元暗殺者とはいえ、久々にそういった類のものを急に見て驚いてしまうとは。死体未遂ではあるが。
まだまだ現役だと驕っていたが、どうやら実は勘や感覚が結構鈍っているのかもしれない。もっと訓練を増やそう。
「――――」
……それにしても。これは、少々まずいのではなかろうか。
主人の意思が何事においても優先されるので、旦那様が主人の破廉恥な日記を読みたければ特に止めようとはしないが、さすがに何度も惨殺死体みたいに血を流されては日記を管理する私が非常に困ったことになる。
「……これはもう丸投げですね」
とりあえず、まだ起きそうもない旦那様を現場に放置してもはや日常的に通い慣れ始めてきた場所へと一直線に進んだ。
――結論から言えば。旦那様は出禁にはならなかった。しかし。
『母さんの日記を全て、当家の禁書として未来永劫認定する……』
ここのところの騒動や旦那様がすぐ倒れるという話を聞いてようやく主人のあの日記が危険物であったのだと悟ったのか、とうとう重苦しいため息と共に現当主から非情な判断が下された。
それに伴って旦那様は最後まで抗議していたが、結局は耐性が出来たと認められるまでは暫く主人の日記を読める範囲が著しく狭まってしまったのだ。
特にこの顛末に関して落ち込んだ様子の旦那様を可哀想だとか、ましてや気の毒だとは思えなかった。何故ならむしろ旦那様の命と健康を守ったとも言えるからだ。
落ち込む前に、主人の伴侶だからと見逃してやっていた今までをもっと誠心誠意で感謝してほしいくらいである。
『――いいかげん、病因を教えてください。本当は御存じですよね』
信じたくないことに有り得ないと思っていたのに、とうとう寝たきりにまでなってしまった主人の寝台の横に跪き、懇願するように問いかけた。
主人が最初から不治の病の原因が何かを知っていて故意に隠していることは言われずとも分かっていたからだ。
『病因? ……死相が出たとかなんじゃない?』
『命が掛かっているんです。ふざけないで下さい』
『ふざけてないわよ』
『――ッ!?』
死に対する畏れや恐怖がまるで何も感じ取れない、状況とは場違いにも嬉しそうに細められた主人の目と美しい微笑みに息を呑んだ。
死にそうな人間や死ぬ寸前の人間の顔ならいくつも見てきたと自負する私が、主人の表情がそのどれにも当てはめることが出来無かったからだ。
『――しっ、死ぬん、ですよ!? このままでは……ッ! 本当に分かってて言ってるんですか!』
『もちろん。大丈夫よ』
『何が大丈夫なんですかッ!』
死なないから大丈夫、などという気休めの言葉ではないのは主人の声音で理解していた。むしろ死ぬから大丈夫、だなどと全く逆の正気の沙汰ではない意味にしか聞こえなかったというのが一番の問題であった。
本当に人類から産まれたのか、と疑うことは何度もあったもののまさか本気で人間の生存本能までも持ち合わせて無いとはまでは疑わなかった。
『私、もしかして頭がおかしいの?』
『当たり前です! 死ぬと分かっていて恐怖も無く笑えるだなんて、頭がおかしいに決まってます!』
『あはは、ひどい』
『だからッ! 笑い事ではないと……!』
主人との意思疎通や会話が噛み合わないのはいつものことであったが、この時ほど噛みあって欲しいと願ったことなどなかった。
頼むから当たり前のように本気で死を受け入れないでほしい。もっと貪欲に生を渇望してほしい。私の願いはそれだけだった。
『あっ、あなたさまが死んだらっ! 共に死んでやるんですからねっ!』
『それは、ちょっとだけ困るかなぁ?』
『ちょっとだけですか!?』
幼い少女だった頃の言葉で、自分自身が大変な時だというのに普段通りに私をからかうように言われて頭に血が昇った。
文句を言うために開こうとした口は、しかし主人が溢した謎の言葉に遮られることとなった。
『私ね。もう死んでるの。だから、死ぬことは別に怖くない』
『……はい?』
意味が咀嚼出来ずに、促すように聞き返した。
『ずっとずっとずーっと小さい頃にね、死の淵を彷徨って死んだの、私。本当だったらね』
『そ、それは一体どういう――』
そんな話は今までに聞いたことが無かった。辺境伯家にお嬢様専属として滑り込んで仕えていた時に、古株だった同僚たちからも聞いた情報にそんな話は噂のひとつとしてもなかった。
何が言いたいのか分からなくて、口を噤んで主人の言葉の続きを待った。
『……どうせ死ぬ運命なら、――死ぬときは、幸せなまま死にたい』
『――――』
『だから今回だけはって、ほんのすこーしだけ頑張って生を望んだの。だけど結果は結局、死ぬまでの期限という寿命が多少延びただけで、本来であれば私はいつであれどこであれすぐにでも死んでしまってもおかしくなかった運命だったってお話』
ちゃんちゃん、と主人が笑顔で自らの子どもたちへいつも寝物語の終わりに語っていた言葉を続けた。
直接聞いたはずなのに、いつ思い返してもやはり全く意味は分からなかったが、主人が死を日常で食事を摂るかの如く当然のものとして受け入れているのだけはなんとか理解出来た。
だから死を目前にしても、既に全力を出し切ってやり切って生きて来た主人にとっては死を笑顔で受け入れる他に出来ることは何も無く、これ以上は主人でももう延命は無理だから、――だから生き延びるという意思がみえなかったのだ、と。
泣いてるの? とあまりに優しく触れる手に擦り寄って、私は唯一の主人が死ぬという当たり前の話をついに悟って沈黙した。
『……エミリーは何も言わずともしっかりついて来てくれそうだけど、あの人は不器用でおっちょこちょいな鈍感だから、私のせいで本来の道を必要もなく間違えて迷ってしまわないかって少しだけ心配なのよね』
だからエミリーが先に一緒に来ちゃうと、ちょっとだけ困るの。と苦笑で言葉を続けた主人に私は、――私は主人の命令に沈黙を貫き通した。
……結局は不忠にも主人を先に見送ってしまい、忠心によって主人の命令を遵守することになったが。
――政略による婚姻相手の急な変更の為、今まで会ったことが無かったという相手との最初の顔合わせに赴いたはずの主人が、真っ赤な顔でぷんすか怒りながら帰って来た時には不忠にも心底安堵した記憶がある。
何故なら、いつもどこかで周囲を顧みずに置き去りにする勢いで常に一人だけ生き急いでいるような、けれどゆったりと時間をぼんやりと遠くから他人事のように眺めているような、そんな不安定に見えていた主人がやっと地に足をつけたような気がしたからだ。
『エミリー聞いて! セドリックがね、――』
『ねえエミリー! セドリックに、――』
エミリー、エミリー、エミリー、エミ――。
……いつからだったろうか。
主人が私の新たな生の為だけに付けてくれた特別で大事な名前の後に、主人の伴侶の名前が大体にしていつも付随するようになったのは。
その内容はくだらないものから大事まで千差万別で、この大地に根付くようにと常に願っていた主人の幸せそうな輝く笑顔と共に付随していた。
主人の言っていた言葉の真意、本当のところまでは正直に言ってしまえば今も今後も死ぬまで理解出来ない自信がある。
――しかし、たとえそうなったとしても。
主人が伴侶の為に遺した、主人がこの世界の大地に根付いて、楽しく幸せに生きたという確かな証である日記や、主人の面影が年々強くなっていく子どもたちには尽きることない並々ならぬ興味があるから問題は無い。
『――またいつか、必ず出会えるから』
主人が亡くなる前夜、いつ主人が逝ってしまっても良いようにと、主人の家族にも隠れて主人を見守っていた時、弱っているのに目敏く私の気配に気づいた主人に幸せに満ちた微笑とともに口パクで言われたのだ。
私への遺言、というやつだったのだろう。それが単に私を慰める為のものだったのか、それとも本気でそう思ってのものかはやはり判断など出来なかったが。
もしくは、読唇をただの私の願望だけで読み取ってしまって、本当は全く別のことを言われていた可能性も残っている。
……ただ、たとえそうであったとしても主人の遺言としてならば面白くて突拍子の無いほうがふさわしい、というのは間違いなかったが。
主人を丁重に葬送しさて、と振り返って改めて見た主人の遺された家族は、主人と違って普通の人の範囲に収まっていた。
それは強さしかり、感情表現しかり。……やはり主人だけが特別で変で不思議の塊のような存在だったのだ。
とはいえ、主人の遺した禁書認定までされてしまった日記のせいで特に子どもたちが徐々に主人に似てきていて、周囲は困ったものではある。
そのうちかつての主人にもっと似てきて、それぞれ個性的な方向へと進化するのも時間の問題であった。
私はといえば完全に蚊帳の外の出来事として主人の意思だけを尊重し、主人の遺した日記を管理するだけの日々を粛々と過ごしていくだけだ。
まあ実はこっそりと、主人が伴侶である旦那様だけに渡していたという特別な封筒の存在を知って隙を見て一度覗こうとしたが、主人に施されていたらしい高度な魔法に普通に弾かれてしまい動揺と衝撃を受けるという事件があったりもしたが。
中身が気になって気になって仕方がない。
だから主人の遺された何かの観察日記やら子ども別の子育て日記やら、他にも狂気の沙汰としか思えない複数種類の、事細かに書かれつつも人の一生にしても大量にあり過ぎた日記を一通り確認し終わっても、私は旦那様が主人の日記を遅々として読み耽っている限り粛々と管理を続けていくのだ。
――もし主人と死後に必ず会えるというのなら、堂々と会う為に。
死後せっかく主人に会えたとして、主人の伴侶を主人の望むように寿命までしっかりと長生きさせてから連れていかなかったせいで主人が伴侶に出会う前の状態になってしまったら何も意味がない。
――だから何としてでも。
あの主人が愛した伴侶だからこそ明かしているに違いない、主人の本当の願いや望みの全てが詰まっているだろう封筒の中身を聞き出すのだ。
――主人が遺していってしまった気掛かりの全てを、ひとつも取りこぼして逃さないようすくい上げる為に私がここに残って。おっちょこちょいらしい主人の伴侶にだけ全てを任せることは出来ないのだから、と。
だから今日も今日とて、私の知らなかった主人の幼少期、そして私が出会ったお嬢様から奥様になって死ぬまでの主人の濃厚だった一生分以上の日記を何周も読んで、私は虎視眈々と旦那様の隙を窺うのだ――。
……のだったが。この話の終点は結局、そうやって主人の為に聞き出すと意気込んだはずなのに、肝心の旦那様を気付けばとうとう主人の望み通り寿命で主人の元へ先に見送ってしまい、聞き出すまではと根性で生き延びてしまったのに旦那様と共に主人の特別な封筒が燃やされてただの灰にされるという終焉を迎え、どうやっても私が中身を知ることは終ぞ出来なかったというものになるとは、この時の私が知る由もない結末だった。
――これがまだまだ現役だった時代の、そしてここまで長く生き過ぎてしまった、主人想いだった私の――最後の追憶でございます。
この短編を最後まで読んで頂きありがとうございます!
シリーズ他の作品も読んでたら更にありがとうございます!
このお話は蛇足も蛇足、大蛇足。
シリーズ他の作中では謎に包まれ過ぎてた奥様のことがちょっとだけ分かるお話でした。
それはそうと、人物像の崩壊は大丈夫でしたか?
ちゃんと覚悟を決めてから読んで下さいって、先に言いましたからね!
大丈夫だとは思いつつ、一応の配慮ってやつです\(^o^)/
シリーズ他の作品を全部読んだ読者ならば当然、ぴこーん!
となるだろう知りたかったちょっとしたアレコレや、
知りたくなかっただろう新事実(多め)なんかと共にお届けしました。
何度もあっちこっちに話が飛んで、
めちゃくちゃになってしまったような気がしないでもないですが……。
まあこまけぇこたぁいちいち気にすんなよブラザー! ハッハッハ。
……ごめんなさい。反省はしてます。後悔はしてませんけど。
これでも一応、こいつぁクライモルテ公爵家シリーズの中での面汚しだ!
……とか言われぬよう、泣けるポイントはちょろっとどこかにあったかも程度に。
すぐに話がどこかへ過ぎ去って即行涙なんて引っ込んだかもですが(*´▽`*)アハハ
基本的にエミリーはご主人様のことしか考えてないので、
己の主人が愛したセドリックに対してはそこそこ好意的? なほうです。
なので最低行為云々については別に、って感じで怒りもなく記憶にも後々にはもう残ってないです。
だってご主人様は特に気にしてないんだもん! って感じで。単純明快。
ととと、なんか当然のように書いてますけども。
シリーズ他の作品読んでなかったら頭が「???」ってなってたかもですね。
設定とか知らない状態で読んだことないので、そこはなんとも……。
というわけで一応、シリーズのURLは貼っときます。
シリーズリンクからも行けるはずですけど。一応ね。
短編「転生した妻の置き手紙」
https://ncode.syosetu.com/n6901hw/
完結「クライモルテ公爵家の最愛」
https://ncode.syosetu.com/n9142hw/
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ここまで読んで頂き、ありがとうございました。