トンネル水路のお姉さん
私は小学6年生。
そう、子どもだ。
子どもだからこんなことをさせられるんだ。
毎週水曜日は学校が5限で終わるから、早く家に帰ってお母さんの仕事が終わる前に家事を全部済ませておこうと思ってた。
なのに、帰り道クラスの男子たちに急に絡まれて、幽霊が出ると噂のトンネル水路を歩いて確かめてこいとか言われてしまった。
もちろん私はそんな子どもっぽいことしたくはなかったし、第一幽霊なんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
だけど、断ったら断ったらで「6年生にもなってまだお化けが怖いのか」とか煽られるし。
私にはスポーツ万能成績優秀な優等生としてのプライドがあるから、ビビりだなんだの言われて勝手に格を下げられたくないのだ。
だからこうして例のトンネル水路を一人歩いて出口を目指している。
噂によると海に面した出口付近に髪の長い女が現れて、青く暗い水底へと引きずり込まれてしまうらしい。
ちなみに、昔女の子がこの辺りの水路に流されて溺れた事故に由来して噂ができたみたいだけど、図書館で読んだ古い新聞には彼女が無事に生きて帰ったことが記されていたから、もうその時点でこの噂は完全に破綻している。
「はぁーー……」
私の口からは思わず嘲笑にも似た長いため息が出た。
知っての通り小学6年生はまだ子どもだ。
しかし、子どもなら子どもなりに、いい加減少しは成長してほしいという話だ。
天井から滴り落ちる冷え切った雫と、つま先を濡らす水溜まりに不快感を覚えながら、私は歩くのをやめない。
全長は確か100メートルもないから、1、2分もすれば目的地にはすぐたどり着く。
こんなものはサクッと終わらせてさっさと帰ろう。
私は証拠写真を撮るためにポケットからスマホを取り出してカメラを準備した。
暗視機能のないレンズ越しに見て気づいたけど、50メートルほど歩くともうほとんど外の光が届かないみたいだ。
さっきまで見えていた足元の水溜まりも暗闇に紛れてわからなくなっている。
なんだか急に孤立感が増して身震いした。
すると――
「おーーーーい!!!」
トンネルに反響して憎たらしい声が耳をつんざいた。
静寂を破る大きな音に私は思わず肩をすくめる。
「何してんだよーー!!怖くて動けないのかーーー??!!」
数十メートル背後から男子たち数人のケタケタ笑う声が聞こえる。
まったく幼稚だと思いながらも私は言い返した。
「あんたたちが怖がって行けないっていうから、私が代わりに見に行ってあげてるんでしょーー! 人にものを頼む誠意ってもんを少しは見せたらどうーー?」
案の定、あいつらもそれに応戦する。
「はあーー??! 誰がんなこと言ったんだよこの屁理屈女!! そっちこそ怖いから俺たちとこうやっておしゃべりしてたいんじゃないんかーー??!」
「はあ?」
最初に話しかけてきたのはそっちでしょうが、と言いそうになったけど、このままじゃ埒が開かないだろうから、私は口をつぐんだ。
本当にムカつく。
私の貴重な時間を奪っておいて何様のつもりだ、まったく。
遠くで猿みたいに鳴く声を無視して私は早足になった。
出口へと近づくにつれて、少しずつトンネルに光が戻ってくると同時に、さざなみの音が耳に入る。
水路を流れる水かさも増して、表面が皺を寄せた絨毯のように揺れている。
それを反射して淡く映す壁面はゆらゆらと動いて生きているようだった。
一瞬不思議の国にでも飛ばされたような感覚に陥ると、私は素早く頭を振って我を取り戻そうとした。
そして、呼吸を落ち着かせると、あと15メートルといったところで再び歩みを進める。
波の音が強くなってきている。
足元の水溜まりも微かにキラキラ光って目視できる。
錆びた格子に塞がれた出口と、紺青の海が目前に迫ってきた。
もう、すぐだ。
……しかし――
「えっ」
存在感が薄くて気がつかなかったが、近づいてみれば人の形をした何かが私の視界に入っていた。
それは格子にもたれながら、気怠げに海を眺めている。
見たところ髪色は黒っぽくて、長さはロングともショートとも呼べない中途半端な感じ。
服は……セーラー服、だろうか。
小学校から500メートルほど離れたところに高校があるから、多分そこの制服だ。
あと、肌の色は至って健康で青白くはない。
ぱっと見たところ幽霊や化物ってわけでもなさそうだ。
となると……人間?
「あ、あの……」
私はとても訝しげに声をかけた。
人間だったとしても昼間からこんなところにいる人間はまともではないからだ。
すると、それは徐に振り返って、萎縮したように私を見つめた。
「……どうも」
不器用に会釈されて、とりあえず私も頭を下げた。
危険性は感じられなかったため、私は彼女に問いかける。
「……あの、何やってるんですか。こんなところで……」
私が少し距離を詰めると、彼女は半笑いで顔を逸らした。
「いや……ちょっと、現実逃避っていうか。なんというか……」
「現実逃避?」
「あ、うん。昼から学校抜け出して、ここにいる……」
「はあ」
どうやら授業をサボって逃げてきた非行少女か何からしい。
しかし一応聞いておこう。
「ちなみにですけど、お姉さんは人間ですか?」
「え。学校サボっただけで人間扱いされないの?」
「いや、そうじゃなくて。ここに幽霊が出るって噂があるので」
「ああーそういうことね。……うん人間だと思うよ」
そう言うと彼女はどこか自嘲気味に笑みを浮かべた。
「……逆に君はどうしてこんなところへ?」
「私は……」
言いかけて少し考えた。
見ず知らずの相手だとはいえ、男子たちにからかわれて仕方なくここまで来たなんて言うのは、私のプライドが許さない。
「まあ、色々あって」
「同級生に意地悪されたとか?」
「うっ」
なぜバレた。
「はは、あるある。君みたいな可愛い子には特に」
「どういうことですか」
「男子小学生はそういう生き物だってことだよ」
「……なんですかそれ」
「さあ?」
お姉さんは手を肩の上に挙げてしらを切った。
何を言ってるのかピンとこないけど、多分歳上にしか分からないことがあるのだろう。
「ていうかなんでわかったんですか。やっぱり化物なんですか」
「人間じゃないとか化物だとか、さっきから酷いなあ。さっきまでの会話全部丸聞こえだったから、それでおおよその見当はついたんだよ」
「あっ……」
私は恥ずかしくなって耳まで赤くなった。
完全に盲点だった。
こんなことなら言い返したりなんかしなければ良かったと思う。
「ふふ。そういうところが可愛くて仕方ないんだろうね。あの子たちは」
「……別に、あいつらはそんなこと考えてませんよ」
「そうかなー。だってほら、鏡見てみ。長い黒髪に清楚なクラシックワンピースて。絵に描いたような美少女よ、君」
「…………ありがとうございます」
「あ、そこは素直に嬉しいんだ」
「……まあ」
今までは完璧であることが当たり前で、周りの人から純粋に褒められたことがあまりなかったから、私は決まりが悪くなって腕を組んだ。
「……ところで、お姉さんはサボるにしてもどうしてこんなところまで来たんですか。身を隠すだけならもっと快適な場所があったでしょうに」
私が問うとお姉さんは首を傾げて数秒間沈黙した。
「あー。それね……」
「どうかしたんですか?」
「……うーん、なんというか。……できるだけ遠くに行きたかったんだよね……でも、本当に遠くへ行きたかったわけでもないというか……」
「?」
トンネル水路の青を纏った彼女は少し憂を帯びて見えた。
「……とにかく、私にとってこの位置が一番心地よかったんだよね。海に出るわけでもなく、ただ遠くを眺めていられるこの位置が」
そう言うと、お姉さんはしばらく目を細めて空まで伸びる地平線を見つめた。
どこかで鴎の鳴く声がする。
「……なんか、要領を得ないといいますか。中途半端ですね」
「はは。私もそう思う」
「心が中途半端だから髪も中途半端に伸ばしてるんですか?」
「急に生意気だなおい。これは恐らくセミロングって言うんだよ」
「恐らくって。自分でもよく分かってないじゃないですか」
「確かに、そうかも」
やっぱりこの人まともじゃないなと思いつつも、私は少し居心地の良さみたいなものを感じていた。
少し身体の内側が軽くなったような、そんな感覚。
私は彼女の隣にしゃがみ込んだ。
「……お姉さんは小学生の頃、どんな人でしたか」
「何、突然」
「いや……反面教師にでもしようかなと思って」
「本人を前にして言うことじゃないぞそれ。まあ、いいけどさ」
お姉さんがふっと息を吐いて隣に転がっていた小石を水路へ投げ入れると、ぽちゃんと水の跳ねる音がした。
「別に。普通の小学生だったよ。今みたいに半ばやさぐれてるわけでもなかったし。普通に学校行って、友達と遊んで、宿題して、よく寝てた。それだけ」
「……そうですか」
私は無意識に何か特別なことを期待していたみたいで、不服そうに小石を蹴り落とした。
「……君はどうなの」
「私ですか」
「そう。君は小学校楽しい?」
「私は……」
お姉さんにそう問われて、トンネルの入口の方角を見遣った。
ここからじゃよく見えないけど、多分あいつらは今も私を馬鹿にして楽しんでるんだと思う。
「学生の本分は勉強ですから。楽しいとかそういうの、どうでもいいです」
「……ふーん。そっか」
生返事をした彼女の表情は、落胆しているわけでもなく、ただ安堵しているような様相を呈していた。
「ま、安心しなよ。今のままなら君は私みたいにはならないからさ」
お姉さんがニッと笑って私の肩をポンと叩く。
なぜだか分からないけど、その手が少し大きく、暖かく感じられた。
「……お姉さんはなんでこうなっちゃったんですか」
トンネルに風が吹き抜けて、髪を揺らす。
「……正直なところ。自分でもよく分からないんだよね。ただ、私は、高校を卒業したら死ぬんじゃないのかなって、思ってる」
天井から雫が落ちて、お姉さんの鼻頭を濡らす。
「死ぬって……」
「ああいや、そんな大層な話じゃないよ。ただ、高校を卒業したあとの人生が想像できないの。大学とか就職とか、色々あるんだろうけど、どうしても自分が何やってるのか想像できないってこと」
そう言ってまた海を眺める彼女の姿は、どこか重苦しく感じられた。
「君はどう? 今はまだ小学生だけど、将来やりたいこととかある?」
将来……
私はずっと女手一つで育ててくれたお母さんの助けになれたらって、そうやって生きてきたから、将来の夢とか、あまり考えたことがなかった。
だけど、昔お母さんがお父さんと離婚する前、家族で水族館に行った時、私の視界には収まりきらないくらいの大水槽の前で、なんとなく海に関係する仕事ができればとは思ってた。
ふと、あの時感じた純粋無垢な憧れみたいなものが頭を過って、私の口から言葉が溢れた。
「……海洋生物学者、ですかね」
「わお。これまた大きくでたね」
「そう、でしょうか」
「……そうだね。少なくとも私じゃそんな大層な夢は抱けないかなあ」
お姉さんはぎこちなく笑って、息を漏らす。
「良いなあ。小学生って」
「どうしてですか?」
「だって、未来のこととか、何でも考えられるし、何より、夢を見られるでしょ」
お姉さんが天井に手を伸ばす。
「大人になるとね。多分夢って見られなくなると思うんだ。だから、これから大人になる私は、未来のこととか、何も思い浮かばなくなる」
力なく手を振り落とした彼女が目を閉じる。
……多分、なんとなくだけど、お姉さんがなんでこんなところに来てしまったのかわかるような気がする。
だけど、私には一つ納得いっていないことがある。
「……大人は、夢を見られなくなるんじゃなくて、夢を叶えられるようになるんじゃないですか」
「……え?」
私は続ける。
「だって、大人になったら、子どもじゃできないこともできるようになりますし。夢だって当然ただ見るものじゃなくて、そこにあって掴まなきゃいけないものになりますよね」
私がそう言うと、なぜだかお姉さんは豆鉄砲を食らったような顔で私の方に振り向いた。
「大人になるってそういうことじゃないんですか」
ポカンとした彼女がしばらく私を見つめて押し黙る。
何か変なことを言っただろうか。
「……はは。やっぱ小学生は最高だよ」
「なんですかそれ」
「そういえばそうだったなって思っただけ」
お姉さんは訳のわからないことを言うと、私の頭を掴んでグッと立ち上がった。
「……ほら。そろそろ行かないと。あんまり遅いとあの子たちも心配してると思うよ」
「あ」
そういえばあいつらのことを完全に忘れていた。
まあ心配なんてしてないと思うけど。
「あ、でも今ちょっと思いついたことがあるんだけど……」
「なんですか?」
お姉さんがちょいちょいと私の耳を寄せて小声で話しかける。
「…………てなわけなんだけど。どう?」
それを聞いた私は、たまにはそんなことをしてみるのも良いかもしれないと思って、コクリと頷いた。
◆◆◆
入口の方へと近づくと、あいつらの姿がハッキリと見えてくると同時に、強い日差しがさして世界が一瞬真っ白になった。
そして、段々目が慣れてくると、あいつらは不機嫌そうな顔をして私を待っていた。
「おい! そこでずっと何やってたんだよ」
リーダー格の男子が前に出て私に問い詰める。
「別に。何もなかったよ。向こうまで行ったけど幽霊なんていなかったし」
「はあ? 嘘つけ。こんな時間かかっておいて何もなかったってことはないだろ」
「本当だよ。そんなに信じられないなら自分たちで確かめて来れば? それとも怖いの?」
私がそう提案すると、彼らはムッとしてお互いの顔を見合わせる。
「……ふん。仕方ねえな。どうせお前が怖くて奥まで進めなかっただけだろ。俺たちが代わりに行ってきてやるよ」
臆病者はそこで待ってな、と言わんばかりに私を睨みつけると、彼らはずんずんとトンネル水路の中を進んでいった。
それから風が凪ぎ、しばらく辺りがしん……と鎮まると、何かが起こる予感がした。
そして――
「ぎゃああああああああ!!!!」
大きな叫び声がこだまして、乱れた足取りでびちゃびちゃと走ってくる音が近づいてくると、出口の前で待っていた私を素通りして彼らは遠くへと走り去っていった。
「……作戦大成功だね」
彼らの後を追うようにトンネルを歩いてきたお姉さんが、暗がりからヌッと姿を現して、私を見下ろした。
「ですね」
私はらしくなく、少し子どもっぽく無邪気に笑ってみせた。
「どう? 気持ちよかったでしょ?」
「はい……なんかこう、ざまあみろって感じで」
「はは。その意気その意気」
空を見上げて笑うとお姉さんはパンパン私の背中を叩いた。
「……ていうかお姉さん、髪色……」
「え? ああ、これね。向こうじゃ気づかなかった?」
「はい」
「まあ暗いと光が通りにくいからね。黒っぽく見えてたのかも」
お姉さんはそう言いながら明るい髪の毛を掻き上げた。
「染めてるんですか?」
「いんや。地毛だよ」
「ということは、外国人かハーフ?」
「ううん。クォーター」
「……なんか中途半端ですね」
「おい。全世界のクォーターに謝れ」
お互い目を合わせると、冗談めかして笑った。
「……でも、お姉さんらしくていいと思います」
「そう?」
「はい」
しばらく二人で空を仰ぐと、どこかで鴎の鳴く声がした。
「なんだか海に出られそうな気がするよ」
「……?」
「何でもない。ただの独り言」
私を見て微笑むお姉さんの表情は、心なしかトンネルの中で見た時よりも輝いて見えた。
かくいう私も、なんだか解放されたような心地になって、今ならなんだってやってしまえそうな気がした。
――なんとなく、私ももう少し自由に生きてみてもいいのかもしれないと、そう思ったのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
よければ評価等よろしくおねがいします。






