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真夜中の読経

作者: 涅槃


真夜中の寺の隅、黒く墨で塗りたくられたような夜の中で、坊主がひとり、読経している。畳の上に正座し、蝋燭の光だけを頼りとして。


ただひたすら読経している。ただひたすら読経している。億千の言葉は闇に消えるばかりである。経、この坊主には、経を誰かに聞かせようと言う気が、多分ないのであろう。そしてそれは、自分に対してすらないのである。


普通僕たちは発話した自分の声を自分の耳で聞くが、この坊主にはそれすらない。望んでか無意識か、それすらしていない。つまり自分で声に出した経の、その意味のかたまりと音のかたまりを、自分では、完全に受け取っていない。


三昧の境地とも違う。坊主は読経に熱中しているわけではない。木の葉が風に揺れ、石が水の流れにゆっくりと削られていくように、坊主は意識することなく経を読んでいる。それだけである。


ただ経は読まれゆくばかりである。あいも変わらず真夜中に、読経の声だけが響いている。荘厳な響きをもつようにも聞こえる。しかしあるいは、軽薄さを抱いているようにも捉えることができる声かも知れない。


そしてここまで、イメージと思考が僕の頭の中に満ちたとき、僕はふと我に帰ると同時に、すごく重大に見える諸問題を頭の中に抱えることになった。


「坊主は果たして本当に読経しているのだろうか?」


坊主は読経している。

思考は言語的であるから、「坊主が読経している」と書くと、この言葉は「坊主が読経している」という意味以上のものをもたない。いやもつかも知れない。

しかし、「坊主が読経している」と書いた以上、「坊主が読経している」というイメージ以外のイメージを、この文章から想起させることは不可能に思われた。


しかし坊主の読経のイメージは、頭を完全に空にしている坊主の読経のイメージは、なぜだか「読経している」と言う感じがしない。坊主は、自ら望んで読経しているわけではない。本人も、読経を認識しているわけではない。これは果たして、読経と言えるのか?


そう思考しているうちに、頭の中でまた読経の声が聞こえはじめた。そしてそれは、だんだん大きくなっていった。

部屋が暗くなっていった。寺に安置された数十枚の伽藍堂を、整然と並んだ障子を、そして様々な小物を、読経の声が突き抜けた。


いったいなんだろう、この不安感は。僕たちは何なのだろう。

数億年後地球が滅びてしまっても、依然として読経の声はあるような気がする。素粒子のつながりを、やはり突き抜けるであろう。さっきイメージの中のさまざまなものにそうしたように。


だんだんと、心地よい振動が体の中を満たしてきた。

何かが、読経と共に僕の中に入ってきた。もはや思考が出来なくなった。


人間は機械ではない。機械によく似ているが、そこらの機械とは精密さが違うのである。人間は非常に精密な機械で、細かい入力に対して、出力をやはり細かに調整してくりかえすのである。しかも、それを無意識にやっている。


だから、人間の思考は、こんなふうに外的な入力に拠った気分にすごく影響されやすい。もう満足に考えることは出来ない。

読経の声は、先刻まで冷ややかな調子で、刺すような痛みと畏怖さえ僕はその声に覚えていたのだが、だんだん心地よくなってきた。人間の感覚や思考というものは、やはり信用出来ない。


僕のからだや脳みそは、坊主の読経と共にあたたかさに包まれた。まるで胎児が羊水に全身を浸かっているように。


僕は思考が痺れ、幸せだったが、だんだんと思考がその仕事を取り戻すにつれ、雑念ともいえる論理の展開が、頭の中で目まぐるしく移り変わった。


読経のイメージの心地よい満足感の中で、僕はふと「死ぬということも、このような坊主の読経と同じかも知れない」と考えた。


死ぬということを意識することはない。

しかし、意識せずともそれは(客観的にいえば)完了していて、そして、僕という主体からその現象を見ることはけして出来ずに、その現象は僕の消滅と同時に完了するのだ。ちょうどこれは、坊主が無心で読経をしているのと同じであろう。

そう考えると、死はとても客体的な現象だと思った。他人にしか知覚できない。客体の知覚によって成る。完了する。

だがその後、僕はこうも思った。

主体としての自分は(デカルト哲学的にいえば)存在するが、客体としての他人は、本当に存在するかが分からない。「死」という現象が客体的な観測で完了するのであれば、「死」は存在しないのではないか。



いや、僕が死ねば解決だ。死ねば全てわかる。死ねば、この真夜中の読経から逃れられる。



僕は死が怖くなり、死を心待ちにし、死から逃げたくなり、死を面白がり、読経の声に紐つけられた死を、しばしの間楽しみ、悲しんだ。



声がだんだん小さくなり、イメージが遠のき、いつの間にか坊主の読経の声は聞こえなくなっていた。


そうして、人はみな死ぬ。


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