0008高校受験02
僕が目指した私立常成高等学校は、インターネットで受験番号の合格通知を行なうらしい。それは月曜日の朝8時ジャストということだった。
「篤彦さん、ずっと寝返りを打ってましたね」
現在時刻は朝の7時。僕はシーツにくるまったまま、目の前の壁を凝視していた。別に何も書かれちゃいないんだけど。
「眠れなかった……」
「目が血走ってますよ。大丈夫ですか?」
「いや、あんまり……。小石さんはよく眠れた?」
小石さんは落ち込んだような声を発した。
「私は人間さんや鳥さんや動物さんが取るような、『睡眠』とやらに入ったことがないんです。今まで、ずうっと。ですから寝るということ、眠るということが、未だによく分からなくて……」
「あ、そうなんだ。ごめんね」
「いいえ」
僕はベッドの上に起き上がると、机の上をまさぐって、一枚の紙を取り出した。受験票だ。
「受験番号は0984。8時に更新される常成の発表ページに、この数字があれば、僕は晴れて合格なんだ。もしなければ、僕の行き先は滑り止めの高校に決まる」
ああ、緊張してきた。大丈夫かなあ。
「テストでは全力を出せたのでしょう?」
「うん……。実は数学が苦手でね。ミスったところが結構あったんだ。やばいかもしれない……」
「でも、苦手を克服するために今まで頑張ってきたのでしょう?」
「そうなんだけどさ、たまたま一番嫌な演算があってさ。ちょっと解けなかった……」
飲み物を取りにキッチンへ行くと、リビングで父さん――春雄と、母さん――佳代子が、うろうろうろつき回っていた。出勤前のこのひとときが、今日は落ち着かないらしい。無論、一人息子である僕の合否が気にかかっているのだ。
「あなた、ネクタイ曲がってるわよ」
「お前こそ口紅ずれてるぞ」
僕が顔を出すと、二人ともぎょっとする。その驚きの表情は、すぐ下手な作り笑いに取って代わられた。見ているこちらが痛々しいってやつだ。父さんが震え声で優しく言う。
「おお、篤彦。大丈夫だ、どんな結果でも父さんは受け入れるぞ」
母さんが父さんのふくらはぎを蹴りつけた。
「ちょっとあなた、『どんな結果でも』とは何よ、『どんな結果でも』とは。……受かります。篤彦は常成に受かります。ねえ、篤彦」
「う、うん……」
僕がどうにか愛想笑いを作っていると、父さんが盛大なため息をついた。
「ああ、あの遭難と入院で失われた2週間が悔やまれる! 勉強全然できなかったもんな、篤彦」
「あなたねえ、そんなこと今さら言ってもしょうがないでしょう!」
このままでは夫婦喧嘩が勃発してしまう。僕は白々しく壁時計を指差した。
「父さん母さん、そろそろ会社行かなくていいの?」
「おっと、そうだった。じゃ、じゃあな篤彦! 結果は帰ってから聞くから、スマホで教えなくてもいいぞ」
「私にはすぐに連絡ちょうだいね、篤彦。受かってるだろうから、帰りにお祝いのケーキ買ってくるわね」
「残念会のケーキにならないといいが……」
「あなた!」
2人は7時30分に出て行った。僕は精神的に疲労困憊になりながら、冷蔵庫を開けてお茶のペットボトルを取り出す。
時刻は刻一刻と迫ってきた。7時45分。僕は心臓が張り裂けそうになりながら、小石さんにせんないことを言った。
「小石さん、僕を励ましてくれないかな」
「といいますと?」
「もし落ちていても、駄目な人間じゃないですよ、とかさ」
「何で弱気なんですか……」
「いや、さっきも言ったじゃない、数学がさ……」
「篤彦さん!」
いきなりの怒鳴りに、僕は反射的に応答する。
「はい!」
「……大丈夫です。篤彦さんは絶対に合格してます。篤彦さんを落とすような高校なら、こっちから願い下げですよ。そうでしょう?」
「小石さん……」
「もう試験は終わってるんです。今さらじたばたしても始まりませんよ」
まあ、そうなんだけどさ。僕はベッドに寝転がった。天井を見上げていると、戸棚の小石さんが柔らかい声を放ってきた。
「それより、いいご両親ですね」
「あ、さっきの『見て』たんだ」
「はい。自分の子供の受験が気にかかるというより、まるで自分自身の命がかかった瀬戸際にいるような、そんな慌てぶりが素晴らしくて……。いいですね、人間って。他人を思いやってあげられるって、素敵です」
「……そうだね。前にも言ったけど、僕、生まれたときは未熟児でさ。普通の子供の半分ぐらいしかなかったんだ」
「はい。それで篤彦さんは過保護に育てられたそうですね」
「そうなんだよ。痛くないか、篤彦。辛くないか、篤彦。暑くないか、寒くないか、腹減ってないか、疲れてないか、だるくないか。いつも僕を気にかけてくれてる。共働きして、頑張ってお金を稼いでくれてる。僕を塾に行かせてくれて、今度はお金のかかる私立高校に行かせようとしてくれてる。本当に、僕なんかにはもったいない父さんと母さんだよ」
「篤彦さん……」
僕に勉強の才能があればよかったんだけどね。そうすれば、あんなに心配させずに済んだのに……
そのときだった。目覚まし時計のベルがけたたましく鳴り出したのだ。僕はいきなりの不意打ちに、文字どおりベッドから飛び起きた。
「うわっ! ……ああ、もう8時だ! 合格発表だ!」
「そのノートパソコンとやらいうのを使うんですよね?」
「うん。今は便利でね、これやスマホで世界中の情報を一瞬で手に入れられるんだ」
「へえ……」
僕の心臓が下手なダンスを踊る。呼吸は苦しくなり、やたらと喉が渇いた。意を決して椅子に座り、ノートパソコンを操作する。
「あのさ小石さん。先に言わないでね。自分自身の目で合否を確認したいから」
「分かりました。じゃあ私もよそを『見て』ます」
「ええと、常成高校……検索……合格発表……クリック」
画面が切り替わると同時に、僕は顔を背けた。
「ひゃあっ、見たくないなあ!」
「ファイトです、篤彦さん!」
生まれてこの方、こんなに緊張し、不安にさいなまれたことなどない。父さんと母さんの顔が脳裏にちらつく。僕はこわごわと、おっかなびっくり正面を向いた。
「0984……0984……あってよ、頼むよ……」
瞬間、僕は固まった。画面を何度も何度も見直す。
「ああ……!」
僕の声に、小石さんが不安そうに尋ねた。
「あ、篤彦さん。まさか……」
僕は脱力して、椅子の上でだらしなく斜めにずり落ちた。数秒間絶句する。
「篤彦さん!」
小石さんが恐怖に絡め取られていた。それを解きほぐそうと、僕はつぶやいた。
「……合格」
「え?」
「あったよ、0984。僕の受験番号」
「ほ、本当ですか? どれどれ……あ、本当です! ……でも篤彦さん、あんまり喜んでないみたいですね」
「うん……。嬉しさより安心感がこみ上げてきて、何だか疲れちゃった。もっと爆発的な喜びは、この後来るんだろうね……」
小石さんが欣喜雀躍する。
「よかったじゃないですか! ね、言ったでしょう? 篤彦さんは合格してるって! おめでとうございます! やっぱり篤彦さんは、積み重ねてきた努力は、認めてもらえたんですよ! それに……」
僕はまだ何事か口走って喜んでいる小石さんの声を聞きながら、ゆっくりと眠りの海に落ちていった。それは心地よい体験だった。