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0062番外編・夏休み初日

「オッケー……」


 私は私立常成高校2年E組所属、峰山香織(みねやま・かおり)。読書部副部長でもある。その私の口から漏れたのは、今日の終業式後の部活で、一つ上の先輩から言われた単語だった。その先輩の名は大蔵秀三(おおくら・しゅうぞう)という。読書部部長だ。


 オッケー。それはつまり、私の告白が(みの)ったということでもある。2月に秀三に告った答えが、約5ヶ月を経て、私の鼓膜に届けられたのだ。それは何ともあっけなく、あっさりしたものだった。


 だが間違いではない。これで私と秀三は正式にカップルとなったわけだ。私は湯船に鼻まで沈み込む。目の前で立ちのぼる湯気を見つめながら、その実感の湧かない新たな関係性に、ぼんやり考え込んだ。


 告白の答えなんてものは、もっと劇的な場面で言うだろう、普通。なんで部活の雑談でさらりと口にするのか。その怒りで思わず秀三を軽く叩いてしまったが、恋人としてあれはまずかった気がする。取り返しはつかないが。


 あの後は登山用具の買い出しとかで、秀三は1年の田辺篤彦(たなべ・あつひこ)を引き連れてさっさと下校してしまった。その後、彼からの連絡はない。LINEですらだ。これはどういうことだろう? やっぱり後悔して取り消し、とか?


 私は一人で悶々(もんもん)と考え込む。水面の上にあごを戻し、長めのため息をついた。


「夏休み」


 明日から夏休みが始まる。時間はたっぷりあった。自分ひとりでくよくよと悩んでいてもしょうがない。私は風呂から上がった。




「長かったわね、お風呂」


 姉の(まい)が、寝巻き姿で出てきた私の肩を叩く。楽天家で20歳の大学生である舞は、私の書く小説の熱狂的読者だった。


「また新作の構想でも()ってたんでしょ? 違う?」


「違う」


「あれ、じゃあなんで長湯したの?」


 私はタオルで髪の毛をぬぐいながら、その動作で上気した顔をこっそり隠した。あっさりした返事、いつまでも寄越さない連絡――そんなドライな恋人のことを熟考していた、なんていえるわけもない。


「無言」


 案の(じょう)舞は不満顔になった。


「何よー、私にも言えないことなの? ふーんだ」


 舞は風呂に入るべくすれ違って行ってしまった。そのとき、ふんわりとこころよい芳香ほうこうがほのかに漂う。


「香水……」


 大学生ともなると、色々おしゃれに気を使うのだろう。私は2階の自室へ引っ込むべく階段を上がっていった。




『秀三、私たちは恋人同士になったんだよね? これからどうする? 明日、どこかで会おうか?』


 言葉に出しては単語になってしまう私だったが、ペンやスマホやキーボードでは驚くほど饒舌(じょうぜつ)だった。もちろん、そうでなければ小説や読書感想文など書けるわけもない。


 とはいえ、さすがにこの確認は気恥ずかしく、決定ボタンを押すまで何度も改訂(かいてい)してしまった。


「送信」


 さすがに既読は早々つかない。5分ほどスマホを眺めてから、私は眠気に耐え切れず、明かりを消して寝床にもぐりこんだ。




『返信が遅れてすまない。それじゃ朝9時にバイクで迎えにいくから、ちょっと付き合ってくれるかね?』


 外はすっかり明るくなっており、カーテンの隙間から朝日が差し込んできていた。秀三からのLINEでの返信は、昨夜私が寝てから10分後につけられていた。私は現在の時刻が9時30分であることに気がつく。シーツを跳ね除けてベッドの上に立ち上がり、何度も文章を確認した。


 何てことだ。せっかく秀三がくれた連絡に、まさか眠っていて気付かないとは。9時? 30分前だ。すっかり寝坊してしまったではないか。


 私は寝巻き姿のまま、狂気のように部屋を出てどたどたと階段を駆け下りる。そうしながら『今気付いた。ごめんなさい。現在どこにいるの、秀三?』とスマホに打ち込んだ。


 ともかく1階にいるであろう母さん――あずみに、来客があったかどうか聞かなくては。気が()いて周りのことがおろそかだった。ドアを開ける。


「えっ」


 目の前に、その肝心かなめの秀三がいた。母さんと向かい合ってソファに座り、ともにアイスティーを喫している。夏らしく軽装だった。二人がこちらを見る。


「峰山くん、おじゃましているよ。凄い格好だね」


「香織! 何て格好しているの!」


 言われて気付いた。今の自分は、ほとんどスケスケのネグリジェのままだったのだ。私は目から火が吹くのではないかと思うほど全身が熱くなり、慌てて2階に戻っていった。




「実は8時55分にここに着いてね。応対に出てくれた峰山くんのお母さんから、まだきみが寝ていると知らされて、どうしたものか迷ったんだ。でも、それなら娘が起きてくるまで少し話しましょう、とお母さんに誘われてね。それで上がらせてもらっていた、というわけだよ」


 私は今度は外出用のシャツとハーフパンツに着替えて、居間で秀三の説明に耳を傾けていた。ふがいない姿をさらした自分と、それを見た秀三へのちょっと理不尽な怒りから、膨れっ面を抑えられない。


「まあそう怒らないで。すまなかったね」


 秀三は笑みを浮かべながら、ストローを口にくわえて紅茶をすすった。私も自分の分を一口だけ飲む。母さんはとっくに引っ込んでいた。


「目的地」


 秀三が空のコップをコースターの上に置く。


「これからバイクで行く先かい? いや、実は特にはないんだ。今は明日に迫った、小石くんの故郷訪問で頭がいっぱいでね。それもあって、今日は軽めのツーリングといきたいところなんだ。何せ――」


 秀三の表情がやや思い詰めたものになる。


「何せ、明日の冒険で危険な目に()ったり、事故に出くわしたりして、二度と帰れなくなるかもしれないからね……」


 私はふと秀三を見つめた。七三分けの黒髪、二枚目の器量、黒縁眼鏡、すらりと高い長身。せっかく恋人同士になったのに、二度と帰ってこられなくなるなんて。


 そんなの……


「嫌!」


 私は悲哀とともにきっぱりと言った。受け止めた秀三がまた口角を上げる。


「大丈夫さ、今のはちょっと言ってみただけさ。田辺くんも小石くんもいるんだし、万全だよ。怖がらせてすまないね」


 秀三は立ち上がった。私に手を差し出す。


「じゃ、行こうか」


猶予(ゆうよ)


「え?」


 香織は秀三を待たせて1階の化粧台に向かった。そこには昨日舞が体につけていた香水の瓶が置かれていた。オードパルファムとかいうらしいが、よく分からない。姉の化粧品を勝手に使用してしまうことについては、後で謝っておこう。香織は香水を適量手の平に取り、うなじと耳の裏になじませた。確かこれが正しいつけ方だと思っていたけど、合ってたっけ?




 秀三のバイクはスズキの『GSR250』だった。シートが直射日光でだいぶ熱くなっている。秀三はヘルメットを被って黒縁眼鏡を付け直すと、私にもヘルメットを渡した。


 フルフェイスのこれ、被るんだ。これでは香水の意味がない。


「実はこの愛車の後部シートに女子を乗せるのは初めてなんだ」


 秀三は照れたように視線をそらした。バイクにまたがる。


「いつか、好きな人を乗せて走らせてみたいって、ずっと思ってたよ。今日はそれを叶えにきたといってもいい」


「秀三……」


 私の脳裏に、読書部OBの早野結(はやの・ゆい)の顔がよみがえった。秀三は去年バイクの免許を取得したというから、当時好きだった結を本当は『初めて乗せる女子』としたかったに違いない。


 だが彼の口振りからすると、秀三は結への想いを綺麗に清算して、今は私を好きになってくれているのだろう。胸が温かいもので満たされる。


「特に目的地を決めず、お腹が空いたら美味そうな店で食べて、喉が渇いたら涼しそうな店で一服しよう。……デートと呼べるものでもないけど、今日のところはこれで満足してくれたまえ」


 私の告白に対する、あのあっけなくそっけない「オッケー」の言葉。恐らく秀三は、その軽さを今日のツーリングで補おうとしているのだろう。つまり今日のこれは、本当の意味での「返事」なのだ。


 私はふっと笑う。自分も性急な付き合いをしたいわけじゃない。秀三が楽しいなら私も楽しい。私はヘルメットを装着すると、まだ女子が座ったことがないという後部座席にまたがった。何となく誇らしい気持ちになる。眼前に広い背中があった。秀三の、気を許した背中。


「遠慮なく抱きついてきたまえ、峰山くん。落ちないように気をつけて」


「了解」


「……あ、ところで峰山くん」


「ん?」


 秀三は賛嘆するように笑った。


「今日は香水つけてるんだね。華やかな香りがするよ」


 どうやら気付いていたらしい。私は少しドキッとしながら、「そ、そう」と返した。


 秀三がエンジンをかける。爆音がとどろき、バイクが振動し始めた。


 これは最初の一歩。お互いに『好き』を深めていく、その過程の始まり。


「じゃあ行こうか、峰山くん!」


「承知」


 二輪車は私たちカップルを乗せて、意気揚々と発進した。風が吹いて(こずえ)が揺れる。空いている道路は走りがいがありそうだ。


 私は目の前にいる男子を思い切り抱き締めて、夏の景色の中を運ばれていくのだった。

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