0006受験生
その夜、僕は自宅で英語の勉強に取り組んでいた。小石さんは本棚の空いているスペースに飾られている。いつもの定位置だった。
もう0時か……
僕は壁の電波時計を見上げ、すぐ机に視線を戻す。マグカップからコーヒーを喉に注ぎ込み、そのぬるさにがっかりした。エアコンの暖かい風が室内を回流する中、僕は今度は目の前の壁に貼られた紙を見つめる。
『常成高校絶対合格!』
春に自分で筆ペンを使ってしたためた、高い高い目標。高偏差値で知られる私立常成高校への入学。共働きの両親の期待に応えるためにも、今はひたすら受験勉強に励まなければならない。僕は「よし!」と小声で気合を入れると、またノートに英単語とその訳を書き始めた。
午前1時を回った頃。それまで僕の邪魔にならないよう気を使って無言だった小石さんが、急に話しかけてきた。
「……篤彦さん、つかぬことをお聞きします。中学校って楽しいですか?」
「何だい、藪から棒に」
「篤彦さんは毎日中学校という場所に行ってますよね? そこの黒い服に着替えて」
県立狭見川中学校。ただ近場にあるというだけで通っている。友達はそこそこいて、彼らは僕が遭難から帰還すると、面白そうにそのときの話を聞きたがった。
でも僕は、仲間にも先生にも、両親にさえも、小箱に入っていた小石さんのことは話さなかった。もし小石さんのことがばれれば、この県どころか日本中、いや世界中が仰天することになるだろう。小石さんは、きっと心ない好奇心の餌食となって、連れ去られ、学者たちの研究材料とされるに違いない。そんなこと、断じて許すわけにはいかなかったのだ。
小石さんは人間と話すことができる。その気になれば、すぐ近くで眠っているであろう僕の両親に、あの声で語りかけることだって朝飯前のはずだ。それをしないのは、この前の雑談中に僕がそういった危惧を話したからに違いない。
――ええと、学校の話だったっけ。
「うん、毎日中学校に通っているよ」
「そこは何をする場所なんですか?」
「今やっているような、勉強をするところさ。同じ年齢の男女が集まって、一緒に勉強するんだよ。教師っていう大人の指導のもとでね。小石さんは『見る』能力で見たことないの?」
「ありますよ。でも、体育館で小さな玉を打ち合ったり、校庭で大きなボールを追いかけたり……いろいろ運動の方もやっているみたいですから、どっちが本当の姿なのか分からなくて」
僕は肩を揺らし、意味がないと承知の上で小石さんを見上げた。
「どっちも本当だよ。勉強して、運動して。それが学校さ」
「でも……。篤彦さん、そんなに楽しそうじゃないですよね。勉強してるときも、運動してるときも」
はて、どう答えたものか。僕は再びコーヒーをすすった。砂糖は入れていないので、ほろりと苦い。
「僕はね、昔から駄目なんだ。取り得がないんだよ」
田辺春雄、宮崎佳代子が若くして恋愛結婚し、翌年生まれた長男が僕、田辺篤彦だった。誕生時は未熟児で、他の子供の半分ぐらいの体重しかなかったらしい。このことが取っかかりとなって、両親からちょっと過保護に育てられちゃった。
地元の小学校、中学校と、交友・スポーツ・勉学をそつなくこなしていった。サッカー選手に憧れて、中学1年のときサッカー部に入ったんだ。部員が多いこととそれほど上手じゃなかったこともあって、頑張っても頑張っても、どうしてもレギュラーにはなれなかった。そのことを悲観したのは僕当人よりも親の方で、せめて頭のいい高校に通わせてやろうと、学費を稼ぐために共働きを開始したんだ。
僕は、僕のために頑張ってくれている両親の期待に応えようと、3年進級時にサッカー部を退部して、塾通いを始めた。目標を名門私立常成高校に設定し、毎日毎日みっちり勉強した。夏休みも友達の誘いを断って、ひたすら学習に時間を費やした。
その甲斐あって、成績はなかなかの高ランクに上り詰めた。でも担任は三者面談のときに、このままの学力を維持すればいけるかもしれないって、あいまいに答えるのみだった……
僕はいつもこんな感じさ。勉強も運動も一番になれなくて、常に自信を持てなくて……。成功体験がないっていうのかな。落ちこぼれなんだよ。中学生の、というより、人間の。
小石さんが優しく笑う。
「取り得、あるじゃないですか」
ん? 話、聞いてた?
「いやあ、特に秀でたものはないって、自分でも分かってる。僕に取り得なんて……」
ふわりとさえぎられた。
「違いますよ、篤彦さん。あなたの取り得は、『努力を惜しまない』ところです!」
僕ははっとなって動きを止めた。小石さんが羽毛のように語りかけてくる。
「サッカー部もそう。勉強もそう。この前の遭難脱出もそう。篤彦さんは、いつだって努力を惜しみません。サッカー部は残念でしたけど、私、何となく分かるんです。きっとその当時の篤彦さんは、懸命に努力して努力して、全身全霊で打ち込んでいたであろうことを」
僕は、手にしているマグカップの中で、水面が揺れるのを見つめていた。揺れているのは入れ物ではない、それを持つ自分の手だ。
「それに勉強もそう。今だってこうやって、全力を傾けているじゃないですか! これを努力と言わずして、何と言うんですか」
小石さん、僕の心をそんなにつつかないでくれ。それ以上なぐさめられたら、僕は……僕は……
「取り得がないなんて、そんな悲しいことを言わないでください。自分を小さく見積もらないでください。過小評価しないでください。私は今、ちゃあんと見ていますから。篤彦さんが、頑張って努力する姿を。私は石ころだけど、『見る』力でいつでもあなたを見守っていますよ。篤彦さんは、素敵です!」
コーヒーの表面に何かが落ちた。僕の涙だと気付くまで、そう時間はかからなかった。小石さんの温かい言葉が、僕の胸郭に春風のように吹き込んで、淀んでいた黒雲をかき消していく。
「う、うう……」
僕は泣いていた。欲しかったのは成功体験だけではない。こんな僕を――情けない僕を、認めてくれる視線。それも、僕が欲してやまないものだったのだ。
目尻を拳でごしごしこするも、それでも水滴はあとからあとから、絶えることなく湧き出してくる。嗚咽が止まらない。小石さんが慌てていた。
「ちょ、篤彦さん、泣いてるんですか? ご、ごめんなさい! 私、元気付けてあげようと思って、それで……それで……!」
「いいんだ。小石さん、いいんだ。ありがとう……」
僕はむせび泣いた。久しぶりに流した涙は、とても気持ちがよかった。