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0043彦五郎01

 彦五郎(ひこごろう)はこの鉢田(はつた)山で産声を上げた。すでに人々はこの山間の隠れ里に寄り集まって、自給自足の生活を行なっていた。父の権兵衛(ごんべえ)と母のしゃぶのもと、貧しいながらも彦五郎はすくすく育ち、やがて15歳になった。鳥を狩るのが上手で、19人しかいない村人は彼の技術をもてはやした。




「神獣?」


 彦五郎がその耳慣れない言葉を聞いたのは、しずからだった。人の少ない村の中で、年齢の釣り合ったしずとの結婚は半ば規定路線として進められている。そんな折の、しずからの報告だった。


「はい、彦五郎様。村の大人たちがひそひそ話をしていたのを、こっそり聞いてしまったんです」


「神獣……神様の使いの獣、ということか?」


「はい。でも、その姿は獅子の頭に熊の前脚、狼の胴体に鳥の翼、蛇の尻尾という……」


 彦五郎は大笑いした。


「ははは、何だいそれは。まるで化け物じゃないか」


 その失笑ぶりに、しずは少し唇を尖らせる。


「私もそう思いました。でも、大人たちはそれをたびたび目撃したというのです。それも、つい最近、山中で頻繁(ひんぱん)に」


「この鉢田山でか?」


「はい。あ、水を注ぎ足します」


 しずは将来の夫の杯に、かいがいしく壷の水をすくって移した。


「すまない。……で、その神獣様をどうするって? 村に招いて守ってもらうのか?」


 未来の妻は少し恐れながら首を振る。


「いいえ、その逆です。あの神獣様が周辺のならず者や武士たちの目に留まれば、この鉢田山に化け物退治を名目に遠征に出かけてくるのではないか、と。その際この村の存在がばれてしまうかもしれない、と。大人たちはそう考えているようです」


「だから、外敵に発見される前に始末してしまおう、と。そういうことか。罰当たりだな」


「はい。でも、本気のようです」


 彦五郎はほとんど量のない夕食を終えた。杯の川水を飲みながら、しずのもたらした情報について思案する。しかし、考えても(せん)ないと思い極め、その場に引っくり返った。


 真正面に見える高い天井は板()き屋根で、この掘立柱(ほりたてばしら)建物を風雨から守ってくれている。土間と板敷きからなる二間構造で、居室は手前と奥の二室だ。竹で編んだ小さな窓が土壁に設けられており、そこから春の風がそよいでいた。この村の住居はどれも、おおよそこの家と大差ない。


 彦五郎は組んだ両手を枕として、あたかも独り言のように確認した。


「しず。もうすぐ俺たちの祝言(しゅうげん)だな」


「は、はい」


「俺たちは正式に夫婦になる。怖いか?」


「いえ……」


 しずは移動し、寝転がる彦五郎の隣に正座した。


「わくわくします。私、彦五郎様が嫌いじゃないですから」


 彦五郎は彼女を見上げてからかうように笑った。


「好きでもないと?」


「はい、まあ。いまいち実感が湧きません」


「結婚して共に生活していけばお互い慣れてくるさ。大人たちがそうだったように。一足早いが、よろしく頼むよ」


「はい。不束(ふつつか)者ですが、よろしくお願いします」


 彦五郎は、くすりと笑ってお辞儀したしずに見とれた。緑色で末端が波打つ、滝のような髪。上げた(おもて)の美しさ――


「……綺麗だ……」


「はい?」


 純粋な瞳の輝きに、彦五郎は少し狼狽してしまう。


「い、いや、何でもない。大人たちはまだ会合か?」


「はい。何でも修験者(しゅげんじゃ)の古文書が見つかったとかで、みんなで(あらた)めているとか」


「文字の読み書きができるのは長老様だけだし、俺たちには関係ないな」


「そうですね。……そろそろ私、帰ります」


 松脂(まつやに)ろうそくの明かりの中、しずは立ち上がって出入り口へと向かった。彦五郎はその背中に呼びかける。


「気をつけてな」


「はい。お休みなさい、彦五郎様」


「ああ、しず」




 翌朝、彦五郎は毒矢を持たされ、神獣退治に駆り出された。


「本当に神獣様を殺害するんですか?」


 寅吉(とらきち)という30代の男は、彦五郎の狩りの師匠で、細いがたくましい体をしている。彼は唾を飛ばして答えた。


「ああ、そうだ。あんな派手な化け物にこの周囲をうろつかれたら、おちおち夜も眠れやしない。狩りの名手はお前だ、彦。さしもの怪物も、この強力な毒矢があればたちどころに死ぬだろう。死肉を食べてみたい気もあったが、まあやめておくしかないな。さあ、狩りにいくぞ! 皆の衆!」


 同じく毒矢を装備した腕利きの村人4名――もちろん彦五郎も含まれる――は、二手に分かれて神獣捜索に入る。彦五郎は寅吉とともに行動し、急な坂道を慣れた足さばきで登っていった。


 程なくして、寅吉が彦五郎を制してささやく。


「彦、いたぞ」


「えっ」


「声が大きい。木陰に隠れてこっそりしゃべるんだ。……ほれ、あの岩の上」


 寅吉が指差した先に、いた。確かにしずに聞いたとおりの神獣が、対岸となる崖の上で巨大な体躯を長々と伸ばしている。彦五郎は息を呑んだ。こんなまがまがしい生物を、こんな近くで観察できるなんて。しかもこれから殺そうというのだ。喉が渇いてしょうがなく、彦五郎は生唾を何度も飲み込んだ。


「寅吉様、俺がやります」


「頼む。今では彦の方がわしより上手(うわて)だからな」


 神獣は病気なのか、弱っているように見えた。その目に生気はなく、だるそうに蛇の尻尾を振っている。投げ出した四肢も力なく横たわり、まるで瀕死のように見えた。


 天から舞い降りてきた、病にむしばまれる神――


 彦五郎はドキドキして弓を構えた。もしかして自分は、とても罰当たりな、残酷なことを行なおうとしているのかもしれない。でも、村の大人が決めたことだ。子供の彦五郎に反抗する権利はなかった。それに、武士たちを呼び込まないためという大義名分もある。


 彦五郎は意を決し、狙いを定めて弓を引き絞った。神獣は何も気付かず、山の平穏を享受している。寅吉が小声で叱咤(しった)した。


「ためらうな。村のみんなのためだ。やれ、彦!」


「くっ……!」


 彦五郎は毒矢を射た。それは狙いあやまたず、神獣の胴体に突き刺さった。


 その瞬間だった。


「ぐおおおおお……っ!」


 地鳴りのような咆哮(ほうこう)とともに、神獣はそれまでの静寂をかなぐり捨て、狂ったようにもがき苦しみ始めたのだ。


「やった、彦! どんぴしゃだ!」


「は、はは……やった!」


 神獣が岩の上から足を滑らせ、崖下へと落下する。派手な衝突音がそれに続いた。


「追うぞ、彦! とどめを刺すんだ!」


「分かりました!」


 彦五郎は目的をやり遂げた達成感と満足感、そして自分への自信に喜びすら覚えながら、意気揚々と迂回(うかい)して沢に下りていった。ほどなく清流の上で巨体をのたうたせ、痙攣(けいれん)する神獣の姿を発見する。寅吉は「もう大丈夫だ」と近づいていった。彦五郎も後に続く。


「はー、それにしてもびっくらたまげた。こんな化け物、わしも未だに信じられないよ」


「寅吉様、まだ生きています。介錯(かいしゃく)です」


「おうよ。このダンビラで……」


 寅吉が刀を構えたときだった。低い、暗くて淀んだ男の声が頭の中に響き渡ってきた。


『人間よ……』


「えっ?」


「な、何だ今の声は?」


 自分と寅吉の他には神獣以外誰もいない。まさか、この怪物が……?


『人間よ。我はこの聖地にお前らが移り住みついてきてより100余年、お前らを可愛く思い、守護してきた。その最後が、この仕打ちか。病み老いて実体化せざるを得なかったとはいえ、その我を化け物と(さげす)むか』


「守護してきた……?」


「騙されるな彦、化け物のたわ言だ!」


 しかし寅吉の言葉より、意識に浸透してくる神獣の声のほうが、はるかに説得力に(まさ)っていた。


『我は神獣。この聖地鉢田山の守護を神より任され、太古より孤独に生きてきた聖なる生き物。我はもう死ぬ。だが役目は引き継がねばならぬ。その人物は、我を殺したお前にするとしよう……』


 そのときだった。神獣の尻尾の蛇が、突然縄のように伸びて、彦五郎の腕に噛み付いたのだ。


「ぎゃあっ!」


「彦! ええい、この化け物がっ! 死ねえっ! 死ねえっ!」


 狂気のように神獣を切り刻む寅吉。赤い血飛沫が飛び散り、周囲の岩にへばりつく。だが蛇の牙は鋭く彦五郎の腕に食い込み、激痛をもたらしたまま離れない。

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