0003声02
でもそれ以外は何の変哲もない、単なる小箱。正直混乱した。
「鳥居さん、もしかしてこれ? これがきみ?」
「はい、そうです! あんまり振らないでください、壊れちゃいますから」
「あ、ああ。ごめん。……って、人間じゃないの? 本当にこの小箱なの?」
「はい、そのとおりです」
少女の声は落ち着き払っていて、僕はそれで一時の興奮を静められた。まあ、自分で人間じゃないって言っていたしね。だけど実際にそうだと分かると、結構ショックだった。
幽霊? 怪奇生物? それとも宇宙人? まるで映画の世界だ。
「日が暮れる前に急ぎましょう、篤彦さん。私を持って、まずは夕陽を背にしたときに正面に見える斜面を登ってください」
「きみを持って?」
「はい。私は遠い周囲の風景を『見る』ことができます。でも、私の声はそれよりずっと狭い範囲にしか届かないんです。篤彦さんを遠くの人間さんが集まっている場所へ誘導するためには、私を持ち運んでもらって、常に声で道を教えられる状態でいないといけないんです」
僕は聞き逃せない情報に食いついていた。
「『遠くの人間さんが集まっている場所』? それって、もしかして捜索隊かい? 僕を捜している……!」
「それは分かりませんが、散らばったり固まったりして、山の中を移動しています。『見る』範囲内ぎりぎりですが、確かに篤彦さんと同じ人間さんですよ」
僕は急に湧き上がってきた希望に、全身へ力が行き渡るようだった。こんな山中をうろつく大勢の人間なんて、捜索隊以外にない。そこまで行けば保護してもらえる。助かるんだ!
「よし、正面の斜面だね。行こう!」
「頑張って!」
僕は山中を歩いていった。日は沈み、辺りは暗くて月明かりが唯一の頼みだ。心細い気持ちと懸命に格闘しながら、僕はろくに視界も利かない木々の中を進んでいく。抱きかかえた鳥居さんの小箱と、頭の中に響くナビの声が、僕の命運を握っているといえた。
「でも、何で僕を助けようと思ったんだい? そもそも、声の届く範囲内に僕が入って動けなくなったとき、鳥居さんはすぐに声をかけてこなかったよね?」
「そこはもう少し右寄りです。……私は、長い長い歳月をあのほこらの中で過ごしてきました。鳥さんや動物さんとおしゃべりして、見える範囲内のものを見物して、春夏秋冬の景色を眺めて、時の流れに浸っていました。それが、数日前から見える範囲内に、見たこともない生き物がいる。2本足で歩いている。私は興味をひかれて注視しました」
「僕のことだね」
「はい。ふらふらしているところから、弱っているのが分かりました。あてどもなくさ迷っているところから、仲間とはぐれてしまったのかな、ということも。そして、声の届く範囲で倒れたとき、私はその生き物がもうじき死ぬのだろうと思いました。これまで幾度となく見てきた、生き物の死。それは自然の摂理ですから、私は傍観しようと決めたのです」
結構冷淡なところもあるんだなあ。風が冷たくなってきた気がして、僕は縮こまって足を速めた。
「うん。それで?」
「でも見える範囲内に、死にかけている生き物と同じ、2本足で歩く多数の生き物が侵入してきました。仲間だ、と私は思いました。もし、私がこの死にかけている生き物を連れていってあげられたら、助けてもらえるかもしれない。死なせなくて済むかもしれない。なら、そうしてあげたい。でも、どうやって? そこで私は、多数の生き物たちが、前足で物を持っている様子を注視しました。それで閃いたんです。私を死にかけている生き物に運んでもらえばいいんだ、と。そこまで考えて私は、まだ力が残っているかどうか分かりませんが、試しに声をかけてみたんです。篤彦さん、あなたに」
ようやく事情が飲み込めた。いろいろ謎は残るが、この人間すら知らない鳥居さんの小箱は、純粋な善意で僕を助けてくれたのだ。それは本当にありがたかった。でも……
「これでよかったのかい? きみはどうやってあのほこらに戻るつもりなんだい? こんな複雑な、遭難しちゃうような険しい山の秘境だよ。誰かに持っていってもらうわけにはいかないよ。戻って来れなくなること確実だし……」
「いいんです、私は戻れなくても。今は篤彦さんを助けることが最優先ですから。この先どうなるかは分かりませんが、私もほこらの外の世界は初めてですし、どこに放置されてもこの先退屈はしないでしょう」
僕は胸を打たれた。山で遭難するような間抜けな僕なんかのために、ここまでしてくれるなんて。感謝の念がこみ上がるけど、このありがたさをどう言葉にしていいか分からなかった。
「鳥居さん……」
「あ、そこの大木は右へ」
僕は息を切らし、干上がった喉の痛みに耐え、まだ残っていた水分を残らず汗として発散しながら、痛みを訴える足を懸命に繰り出した。もう体力が尽きてしまう。鳥居さんの小箱をぎゅっと抱き締め、絞りかすの気力を総動員して、僕はふらふらと斜面を登っていった。
力尽きるにしても前のめりだ。それが、僕のために住みかを捨てることまでしてくれた、鳥居さんへのせめてもの恩返しだった。
どれくらい歩いただろう。僕の耳に、鳥居さんのものではない、大人の男の人の声が届いてきた。それも、複数。
「おーい! 篤彦くーん! いたら返事してくれー!」
捜索隊だ! 凄い、僕は本当に助かるんだ!
こんな夜中まで山中を捜索するとは考えられない。きっと近くに道路があり、日暮れとともにそこまで戻った上で呼びかけてきているんだろう。それでも特別なことだった。必死で僕を捜してくれていたのだ。
唾を飲み込む。かすれ声で叫んだ。失敗し、もう一回やり直す。
「僕です! 田辺篤彦です! 生きてます!」
静寂が辺りを包む。聞こえたのか。僕はもう数回、繰り返し、力の限り大声を放った。やがて確認するような返事が返ってきた。
「篤彦くんだね! 今行く!」
どよめきが遠く前方から聞こえ、懐中電灯の光がこちらに複数向けられる。僕は最後の力を振り絞って、情けない速度ながらもまっしぐらに駆けていった。向こうもガードレールを乗り越えてきたらしく、互いの距離が急速に縮まる。
ああ、信じられない。この安心、感動、感激を、どうやって表せばいいものか? 中学3年の僕のボキャブラリーでは、貧相すぎていい語が浮かばなかった。
「篤彦くん!」
僕は42.195キロを走り終えたマラソンランナーのように、ヘルメットにコート姿の大人たちの群れへ飛び込んだ。寄りかかった僕の体を、力強い腕が2本、がっしりと支えてくれた。
「よく頑張った! もう大丈夫だ!」
感動に打ち震える大人たちのねぎらいの声が、多数僕の鼓膜を打つ。僕は安堵といちじるしい体力の消耗で、急速に意識が遠のくのを感じた。小箱の感触が手からこぼれ落ちる。
「よかったですね、篤彦さん」
鳥居さんの柔らかい声が、僕の壮絶な生還劇の、最後の一幕だった。