0019河合留美A02
そして、鞄にマジックででかでかと書かれた『根暗読書野郎』の文字。それを見て愕然とする私を、クラスメイトたちが遠巻きに見て笑っていた。写真を撮る音が聞こえてくる。
酷い。酷すぎる。何でこんなむごい真似ができるの? 私は涙を流し、ただただ嗚咽を漏らした。
あまりに陰惨ないじめに、担任へ相談したこともあった。だけど先生は問題を認めたくないのか、「コミュニケーションの一環だろう」と意味不明のことを言うだけだった。
私は程なく不登校になる。教師が来て登校をうながしても、私は頑として受け付けなかった。もう、あの教室には戻りたくなかった。気が狂いそうないじめを、後もう一回でも受けたら、私の心はばらばらに壊れてしまいそうだったのだ。
「留美。もう学校には行きたくないのかい?」
年が明けた2月のある日、私が学校に行かずこたつで寝転がって本を読んでいると、幸治おじいちゃんからそう尋ねられた。私はばつの悪い思いで起き上がる。かぼそい声を出した。
「……その……」
自分が中学でいじめられているとは言いづらい。攻撃されている自分への情けない思いと、祖父母に心配をかけたくないという思いから、口は茨で閉じられていた。
もし本当のことを話せば、彼らは学校とひと悶着を起こしてしまうだろう。私のことでおおごとになるのが嫌だったのだ。
祖父は初めての質問を私に浴びせた。
「理由を、教えてくれないか?」
不登校になってから2ヶ月、かつてないことだ。しゃべりたくない。いじめられっ子だなんて現実、認めたくない。大好きな人たちに、知られたくない。私は首を勢いよく振った。
「言いたくない……」
「そうか。それならいい」
おじいちゃんはそれだけ言うと、私の頭を撫でてから立ち去っていった。
その晩、祖父母と気まずい夕食を取っていると、慶子おばあちゃんが一枚の紙を差し出した。
「娘からの――留美のお母さんからの手紙だよ。夫と離婚したって。いい機会だから留美、お母さんの家に帰りなさい」
私は驚愕を隠せなかった。箸でつまんでいたコロッケがぽとりと皿の上に落ちる。お父さんとお母さんが、離婚。とうとう! そして、私がお母さんの家に戻る……?
私は急いで箸を置き、手紙を引ったくるように受け取って、隅々まで読んだ。おばあちゃんが言うとおりの内容が、母の直筆で書かれている。私の湯飲みに熱いお茶が注がれた。
「いいかい留美。嫌なことがあるのか、嫌な人間がいるのかは知らないけれど、留美は嫌いな学校から逃げることになる。けれど、それは決して恥ずかしいことじゃないんだよ。心置きなく帰り支度をしなさい」
私はしゃべりかけ、言葉が喉に絡まった。咳払いして改めて口を開く。
「でも、そんな……。悪いよ、せっかく入れてくれた学校なのに」
おじいちゃんが苦笑し、組んだ拳を机に置いた。
「そう思うのは誤りだよ、留美。わしらは留美の幸せを一番に願っている。学校が留美にとって不幸な場所なら、遠慮なくわしらは逃がしてあげる。家に帰り、娘の下で暮らすようになっても、また学校が嫌になるかもしれない。そのときも逃げなさい。きっと娘は留美を逃がしてくれるから。学校から辛そうに帰ってくる留美よりも、家で本を読んでいるときの楽しそうな留美の方が、わしらは好きなんだよ」
「ごめんなさい……私、私……」
服の胸元をぎゅっと掴んだ。この2ヶ月、彼らに言い出せなかったことが、今なら言えそうだった。
「本当のこと言う。私、駄目な女の子で……男子からも女子からも嫌われて、学校でいじめられてたの。それが嫌で、学校に行かなくなってたの。先生に相談もしたけど、助けてはくれなかった……。私……迷惑かけた……」
気がつけば涙が溢れ、頬を滑り落ちていた。何度も何度もしゃくり上げ、むせび泣きが止められない。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……!」
私の心の底からの謝罪だった。祖父母はとびっきりの笑顔でうんうんうなずく。
「言ったでしょう、留美。私もこの人も、留美のお母さんも、留美が一番大事だって。迷惑だなんて思わないわ。よく言ってくれたわね。もう悲しまなくていいのよ。これから留美には、明るい未来が待っているんだから」
何でこの人たちは、私にこんなに優しいんだろう。どうしてこんなに愛してくれるんだろう。私は咳き込むように号泣し、なかなか常態に戻れなかった。
その後、中泉中学校に登校することはなかった。おじいちゃんとおばあちゃんは私の意を汲んで、学校へ殴り込んだりはしなかった。
暖かい3月になると、私は飛行機に乗ってお母さん・明日香のもとへ帰った。無事着陸したときは、心が浮き立ってしょうがなかった。
「留美、おかえり!」
「お母さん! 久しぶり!」
空港ではさっぱりしたスーツ姿のお母さんが待っていてくれて、駆け寄るなり私を抱き締めてくれた。それにしても小ざっぱりした身なりだ。しばらく見ない間に垢抜けたなあ。いい香り……
「成長したわね、留美。あの嫌な暴力夫とは別れたから。慰謝料をたっぷりふんだくってね。私も稼ぎのいいところに勤めてるし、しばらくお金の心配はしなくていいわよ」
お母さんにも言っておくべきだ。自分の口で、ちゃんと。
「お母さん。私ね、実家の中学校で……」
「言わなくていいわ、留美」
私は機先を制されて口ごもった。
「え……」
「大丈夫、だいたい察してるから。もうここにはひどい人たちはいないわ。安心して新しい中学校に転校してね」
こうして私は県立狭見川中学校に、3年1学期の開始とともに転校する。久しぶりの登校には恐怖と緊張で泣きそうになった。だがすぐに友達になってくれたぼんやり女子・加納美優ちゃんのおかげで、学校生活は平穏無事に開始された。
「藤沢周平の時代物が好きでさ、私。『雪明かり』とかオススメだよ。留美ちゃんは?」
「私は住野よるの恋愛小説『君の膵臓をたべたい』かな」
「じゃあさ! 今度交換して読み合いっこしようよ!」
「いいね!」
私は美優の支えで、辛い過去を徐々に忘れていき、楽しい日々を過ごした。こんなに学校が面白いだなんて、思ってもみなかったなあ。
中学3年生は高校受験を控えている。私は熱心な塾通いで、学力の遅れを取り戻すどころか、むしろ同級生に差をつけ始めていた。
「私、美優と一緒の高校に行きたいわ。いいでしょ、美優」
「でも私、勉強の方は全然だからさ。社会だけだよ、成績いいのは」
夕暮れの公園でベンチに座り、仲よくアイスを食べる。私はもっと、美優とのこんな安らぐ時間を共有したかった。
「ねえ、どこでもいいから同じ高校へ行こうよ、美優。私たち友達でしょ?」
「うん、そうだよ。でも、だからじゃん」
「え?」
美優はウエハースでできたコーンまで食べ切り、指先をぺろりと舐めた。
「高校は違っても、私と留美の友達付き合いは一生もんだから心配しないで。留美は頭がいいんだから、私なんかに気を使わず、自分が行ける最高の高校を目指すべきだよ。でしょ?」
「美優……」
「たとえば名門の常成高校に受かるとかさ。そしたら留美の友達として私も鼻高々だよ。ね?」
私は呆然としていた。でもやがてくすりと笑う。美優らしい。
「そうね。そのとおりだわ。……ありがとう、美優」
「えへへ。どういたしまして」
その後、一生懸命勉学に励んだ私は、見事に私立常成高校に合格。今でも美優とときどき遊びにいったりしながら、高校生活を満喫している。
しかし、自分が遠い北国の中学校でいじめられていたことだけは、美優に対してさえ打ち明けられずにいた。あのときの情けない自分を恥じ、ひた隠しにしておきたい気持ちは、いつまでも尾を引いていたのだ。




