0015発熱
僕――田辺篤彦は電子音を響かせる体温計を母さんに渡した。母さんはそれを見て眉根を寄せる。
「ひどい熱ね。38度3分も……。今日は学校休みなさい、篤彦」
「でも……入学早々風邪で休むなんて……」
父さんが部屋の出入り口で僕を見下ろしながら、不安そうにしていた。さとすように話しかけてくる。
「篤彦、父さんは学校よりお前の体の方が心配だよ。名門常成高校に受かってから、お前が熱を出すなんて初めてのことだ。きっと知らないうちに入学の疲れが溜まってたんだよ。雨にも濡れて帰ってきたしな。今日は家でゆっくりしてろ」
その口調には有無を言わせぬものがあった。仕方ない。僕は了解する。
「はい……」
「じゃ、私と父さんは会社行くから。ちゃんとお薬飲むのよ。おかゆ作ってあるから、昼になったら温めて食べて。行ってくるわね」
「行ってらっしゃい、二人とも」
両親が廊下に消え、やがて玄関のドアが開閉する音が鳴る。鍵をかける金属音が響いてきた。僕は自室のベッドでシーツに深く潜り込む。体中がきしむように痛んだ。
共働きの家庭では、熱で学校を休むとなると独りぼっちだ。でも……
「小石さん、小石さん」
「はい、篤彦さん」
「……なんか、よかった。一人じゃないんだなって思うよ」
そう、僕の部屋には小石さんがいるんだ。孤独じゃないんだ。
「体の具合が悪いんですよね?」
「うん。高熱でね、うまくものが考えられないんだ。額は熱いし寒気もするしで、絶不調だよ」
「石ころの私には体調というものがそもそもないので、あんまり理解できないんです。ただ、篤彦さんが苦しそうなのは分かるので、なんだか悲しいです。それに……」
「それに?」
「昨日、私を探して雨に濡れてしまったことで、風邪を引いてしまったのだと思うと……申しわけなくて、いたたまれなくて……。本当にごめんなさい」
「いいんだよ。あれは馬鹿保がやったことだから。小石さんが謝ることなんて何もないんだ」
「……すみません」
雨は今日も降り続いているらしく、カーテンの外でガラスを叩いている。時計の針が回っていき、無為な時間の経過を僕に知らせた。僕は額に腕を預けて、こわごわ切り出した。
「小石さん」
「はい」
「まだ、昨日のこと引きずってる?」
数瞬の間。『気持ち悪いんだよ』『化け物女』。渡来保の、あの酷すぎる言葉が僕の脳裏に再生される。まだ彼女は悲しんでいるんじゃないか。そう思った。
でも小石さんは気丈だった。
「少し……。いいえ、お気になさらないでください。私は大丈夫です」
「でも、小石さん泣いてた」
「…………」
「きみが泣く声なんて初めて聞いたよ。ひどいよなあ保の奴。今度会ったらきつく言ってやろう」
「いえ……いいんです。あれが多分、普通の方の反応なんだと思うんです。やっぱり篤彦さんのように、山の中で生死の境にいる人が、すがるような思いで耳を傾けたりするような――そんなことでもない限り、私は気持ち悪い化け物なんです」
「小石さん、それは……」
「慰めないでください。何だか余計に辛くなってしまいます」
うーん、そうか。
「でもさ。僕はきみを気持ち悪いとか、化け物とか、思ったりはしないから。この先、ずっと、ね。それだけは誓って約束する。どんなことがあっても、僕はきみの味方だよ」
「篤彦さん……」
その後何か会話したような気もするが、覚えていない。どうやら僕は眠ってしまったらしい。
「ちょっと水でも飲んでくる」
時刻は午後4時。僕は眠りから目覚めてそれを確認すると、パジャマ姿のままベッドから這い出した。カーテンを少しだけ開けて外を覗くと、雨は綺麗に上がっている。夕陽が輝いて、周囲の街並みを明るくなぶっていた。
僕がキッチンへ向かおうと、部屋の扉に手をかけたときだ。誰かがうちのチャイムを鳴らした。その音が静かな家の中に響き渡る。小石さんが『見て』言った。
「渡来保さんです、篤彦さん」
「えっ? 本当?」
僕は昨日の怒りがぶり返すのを感じた。ふざけやがって……! こんなに誰かを憎いと思ったことはない。
「何でこの家が分かったんだろ……。ちょうどいい、一言いってやる」
玄関にのしのしと歩いて行き、勢いよくドアを開けた。そこにはすまなそうな顔をした、制服姿の保が立っていた。伏し目がちに話しかけてくる。
「よう、篤彦。風邪引いたんだってな」
保がもっと高飛車な態度を取っていたのであれば――胸を反らして高慢ちきな目を向けてきていたのであれば、僕は舌鋒鋭く彼を罵っていたであろう。
だがこんなしおらしい様子を見せ付けられると、僕の喉も暴言を飲み込んでしまう。何だよ、調子狂うなあ。
「先生から聞いたの?」
「ああ。この住所も。ほれ、今日の学校のプリント」
差し出したのは紙の束だった。
「これを渡しに来たの?」
「ま、それもあるけどよ……。なあ。あの石、見つかったのか?」
僕はちょっとふてくされた。視線を脇へ外す。
「保にはもう関係ないだろ」
彼は退かなかった。
「見つかったのか?」
「……う、うん。雨の中、ずぶ濡れになって探したよ」
保は面を上げて、哀願するように訴えてくる。
「上がらせてもらっていいか? あの石、もう一度拝ませてほしいんだ」
「え……?」
「なあ、頼むよ。このとおりだ!」
保は深々と頭を下げた。あの軽くてなれなれしい保が、こんな謝罪の姿勢を取るなんて。僕は逡巡したが、いつまで経ってももとに戻らない保に根負けした。このまま突っ立っていてもしょうがないし。
「わ、分かったよ。でも、もう二度とひどいこと言うなよ。投げるなよ。あれは僕の大事な小石さんなんだ。いいね?」
「誓ってしないさ」
僕の部屋で、保は小石さんに向き合って正座していた。殊勝な態度だ。
「俺、あれからいろいろ考えたんだ。そして、俺って最低だったな、って心底思った。篤彦が俺に、俺だけに打ち明けてくれた命の恩人の存在を、俺はただ理解できないというだけで、拒絶し、邪険にし、あまつさえひどい言葉を叩きつけて、投げ捨ててしまったんだ」
凄く真面目な顔だった。こんな姿は初めて見る。
「……小石ちゃん。俺の声が聞こえるんだろ? 俺の姿が見えるんだろ? また昨日みたく、俺の頭に話しかけて答えてくれないか?」
「……はい。渡来さん、聞こえます。見えます」
「ああ、本当に質問に答えてる。本当に、本当に、この石が人間の女の子の意思を持ってるんだな……」
小石さんの声は僕にも聞こえる。どうやら小石さんは、同時に複数の人間に話しかけることができるらしい。保は蛍光灯を見上げた。蒸気のように息を吐き出す。僕は念押しした。
「信じた? 保……」
「ああ。昨日は取り乱して、ひどいことして悪かった。情けなかったよ、俺は。親友を信じてやれなくて、その友達を信じてやれなくて……。この世で一番醜いことは、多分、そういうことだと思うしさ。今なら心から言えるよ。許してもらえないかもしれないけど……本当に、本当にすまなかった。ごめんなさい、篤彦、小石ちゃん」
本当に反省してるみたいだ。
「保……。小石さん、どうする?」
「どうするも何も……。私が気持ち悪くないんですか、渡来さん」
渡来はぶんぶん首を振って否定し、無作法にあぐらをかいた。それまでの彼らしくない、くそ真面目な態度が一変する。
「もう全然。あれだな、こうして見たら綺麗な石だし、神秘的な感じもする。声も可愛いし、何でこんな魅力的な女の子にあんなひどい態度取ったんだろう。俺でも、昨日の俺にはさすがに引くわー」
僕は呆れて保を見やった。
「何だよ、急に本来の調子に戻って」
「いや、何か殊勝に謝るのもいいけど、それって俺に似合わないじゃん? あんまり頭下げて小石ちゃんを困らせてもしょうがないし、これからは仲よくなりたいと思ってるしさ。ね、小石ちゃん」
小石さんが息を呑んだ。ついで、信じられないとばかりに質問する。
「えっ……。私と仲よくしてくれるんですか、渡来さん」
「おう、もちろん! 体が石ころなのは残念だけど、可愛い女の子は嫌いじゃないよ。篤彦を山から助けてくれてありがとな。感謝してる。聞かせてよ、生まれたときから今までのこと……」
「いえ、それが……。私は自分がいつ生まれ、どうしてあの山で小箱に入ってまつられていたのか、その記憶がないんです」
「そ、そうなんだ」
出鼻をくじかれた格好の保に、小石さんはすぐフォローを入れた。
「でも、それ以降の話ならできます。特に、篤彦さんと会ってこの街に来てからの、楽しい日々について……!」
「おっ、それいいねえ。じゃあ今から早速聞かせてくれよ」
僕はこのお調子者に、やんわりと釘を刺す。
「あのさ、保。僕はこれでも病人なんだけど……」
「あっ、そっか」
それは気付かなかったと言わんばかりの彼に対し、僕は苦笑して首を振った。
「時間はこれからたっぷりあるんだよ。話はいつでも、いつまででもできる。今日のところは引き上げてくれないかな」
「そうだったな。悪かった。じゃ、俺、退散するわ。じゃあな、篤彦。じゃあね、小石ちゃん。また話そうぜ」
「うん」
「はい!」
保は帰っていった。僕はベッドに寝転がり、シーツを引きかぶる。再び戸棚の上に戻った小石さんに、僕は微笑みかけた。
「よかったね、小石さん」
「はい! 新しい友達、できました!」




