0010入学式02
『みほ』が紅蓮の炎を宿す目をこちらへ向けた。物凄い怒りようだ。
「『みほ』ー? なんであんた、あたしの名前知ってんのよー!」
「え、いや、それは……」
「さてはー! 待ち受け見たわねー? 勝手に何覗いてんのよー! この馬鹿ー!」
さすがにここまで大声でまくし立てられると、周囲の生徒たちも不審そうな目でこちらを見てくる。僕は針のむしろで、いたたまれなくなった。僕、何か悪いことしたっけ? 『みほ』はそんな僕を追撃するべく、さらにがなりたてようとした。
と、そのときだ。
「おーい、うるさいぞお前らー」
僕にとっては救世主。プロレスラーみたいながたいのいい男が、グレーのスーツ姿で入ってきた。無遠慮にガムを噛み、出席簿らしきファイルで右肩をとんとんと叩いている。『みほ』は開きかけていた口を閉ざした。
「お前ら席着け、席! 点呼取ったらお待ちかね、心底かったるい入学式だ。せいぜい頑張れよ」
どうやら教師らしい。見た目で判断するのもあれだけど、体育教師がお似合い過ぎる。
「ああ、言い忘れたな。俺は1年A組担任の潮崎一夫だ。これから1年よろしくな、生徒諸君!」
がははは、と何が楽しいのか豪快に笑う。それに気を削がれたか、『みほ』は頬を膨らませて僕をひとにらみすると、肩をいからせて自分の席へと戻っていった。た、助かった……。小石さんが苛立ち混じりにぶつぶつこぼす。
「篤彦さんはスマホを拾ってあげましたのに……何で感謝の言葉どころか馬鹿扱いなんですか? 最低の方でしたね」
僕のために怒ってくれている。それにむず痒くなるような嬉しさを覚えて、僕はポケットを撫でた。
「いいんだ。ありがとう、小石さん」
常成高校新一年生202名は、広い体育館で保護者同席のもと入学式を行なった。挨拶に立った校長はたけのこのような印象の人で、3年生代表・生徒会会長は王侯貴族のような人だった。
新1年生代表は、入学試験トップ通過だった多奈川美穂。それはスマホを落とした『みほ』だった。多奈川っていう名字なのか。首席か……。僕は彼女の卒ない挨拶を拝聴し、人間見た目では分からないものだと考えを新たにした。
たくさんの来賓の祝辞が終わると、校長や教頭、保護者の皆さんはここで退場となった。続けて新1年生へ担当先生が自己紹介する。潮崎先生は一番背が高く、さすがにガムは噛んでいなかった。
「まあ、お前らの学生生活はあっという間だ。根を詰めて肉体改造に励め。そうすれば、三年間が終わった頃には、俺のようなたくましい男になれる。一緒にプロレスをやろうぜ!」
プロレスラーなのだろうか。教師が副業って、やっていいんだっけ?
何だかんだで、式は終わるまでに2時間半を要した。
「あー疲れた……」
僕は体育館からA組に列をなして戻る途中、ぼんやり呟いた。とにかく挨拶が長すぎる。延々聞かされるものの身にもなってほしい。パイプ椅子に座っていた尻が痛い……
と、そのときだった。
「俺も疲れたー」
急になれなれしく話しかけてくる男子がいた。今風のラフにとかした黒髪で、短い眉毛に三白眼。頬にそばかすがあり、尖った鼻はやんちゃ坊主な印象を強めている。シャープな輪郭線で、耳が大きかった。
「校長の話がまず長い。それで生徒会長の話もくそ長いときたら、退屈で退屈で死にそうだったぜ。なあ?」
にやりと笑う。彼が笑いかけている相手は、僕――で、いいんだよね?
「う、うん……」
「お前、名前何て言うの? 俺は渡来保」
「僕は田辺篤彦」
「同じクラスだ。これからよろしくな、篤彦。俺のことは気軽に保って呼んでくれていいから」
何か本当になれなれしいな。だけど悪い気はしない。彼の態度は開けっぴろげすぎて、文句を言う気も何となく失われるのだった。
「わ、分かったよ。た、たも……」
「た・も・つ」
「保」
「よっしゃ。俺もお前を篤彦って呼ぶからよ。さっき教室で俺の席が後ろだったの、気がつかなかったか?」
「え、ホント? あいうえお順じゃなかったんだ」
保は僕の上腕をばしばし叩いた。肩に手を回してきて、顔を近づけてくる。なれなれしすぎる……!
「俺、お前に『独り言の篤彦』って異名をつけてやるよ」
「え?」
「あの学年トップでツインテールの多奈川美穂がお前に怒鳴る前、お前、何か一人でぶつぶつつぶやいてただろ。俺の耳は節穴じゃないぞ」
小石さんとの会話――というか、僕の一方的なしゃべり――を聞かれていたのか。かなり小さく、口の中だけで話していたつもりだったのに、何て耳のいい奴だ。保はささやいた。
「なあ、あれか、呪文か? 呪いの文句? 怖いねえ。俺、そういうの大好きだぜ」
「呪文なんかじゃないよ。ちょっとした癖だよ。気にしないで」
見定めるような視線が僕の眼球付近を走査してくるので、僕は目を逸らさざるを得なかった。
「ふーん。ま、いいけど。なあ、明日から一緒に部活見学回ろうぜ」
「ええっ?」
「一人で行くより連れ立って行った方がいいだろ。別に俺と一緒の部活に入らなくてもいいんだからさ。じゃ、話は決まった。それでさ、あの巨乳の先生、何て言ったかな……そうそう、相沢先生! あれってさ……」
そんな感じで、保は僕をなかなか離さなかった。
その後、戻ったA組では席替えと自己紹介と各種冊子の配布が行なわれた。これから憧れだった常成高校での学校生活が始まるのだと思うと、感慨深いものがある。
僕は他の受験生を1人蹴落として合格したんだ。顔すら知らないその人のためにも、頑張らないと。
やがて下校となった。
「じゃーな、篤彦。また明日!」
「うん、じゃあ、また」
何の因果か前後を変えてまた席が隣接した保は、満面の笑顔で手を振って去っていった。僕も手を振って、紙袋と鞄を提げて家路につく。途中で前を歩いていた女の子――多奈川さんが振り返り、僕の顔を見て激しくにらんできた。鋭い犬歯で散々こちらを威嚇すると、もう後も見ずに早足で去っていく。一人に好かれ、一人に嫌われた初日だった。
「お疲れ様、篤彦さん。ごめんなさい、私のせいで『独り言の篤彦』なんて異名をつけられて……」
その口調があんまり深刻だったから、僕は苦笑を緩衝材とした。
「ううん、別に気にしてないよ。……それよりどうだった、学校は。桜の花は」
「どちらも素晴らしかったです! 私が人間なら、一人の女の子として学校に通いたいぐらいでした」
「それなら小石さんも通えばいいよ」
意味が理解できなかったらしく、小石さんは固まる。
「え?」
「僕のポケットの中で、だけど……正直、まだ高校は心細くて。だからきみがいてくれると安心するんだ。小石さんさえよければ、なんだけど」
「そんな……。いいんですか?」
僕は力強く請け合った。
「もちろん!」
小石さんは手足があればばたばたしそうな勢いで返してきた。
「じゃあお言葉に甘えて、私も通学します!」




