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0001プロローグ

 僕は死にかけていた。


 緑色に少し赤づいた葉っぱが、目の前の地面でかすれた音を立てている。耳はそんな訴えとこずえのざわめきを通していた。頬は涼しいというより寒い風の感触を伝えてくる。


 渇きと空腹と疲労で、うつ伏せになったまま、もう動けない。


 何でこんなことになっちゃったんだ……


 深い後悔と運命のひどい嫌がらせに、愚痴を言う気力すらなかった。




 ええと、家族3人でキャンプに来たのは、いったい何日前のことだったっけ?


 母さん――佳代子(かよこ)は、私営のキャンプ場に行きたがった。水もあるトイレもある、便利で快適な施設。しかしアウトドアで鳴らす父さん――春雄(はるお)は、他の客に気兼ねするからと、天然自然の美野里山(みのりやま)に車を走らせた。


 僕と母さんは気乗りしなかった。でも実際着いてみれば、うまい空気と自然の絶景、初秋の山のちょうどいい気候に、すっかり(とりこ)になってしまった。山の管理者に見つかったらことだけど、父さんは「そのときはそのときさ」と気にしない。僕らもまあいいか、と達人の彼に任せてしまった。


 晴れた空の下、川に近い開けた場所で、慣れないテントの設営を行なう。それが終わると、父さんは僕の肩を軽く叩いた。


篤彦(あつひこ)()りに行こう。どっちがたくさん獲物を持ち帰るか、勝負だ!」


 河原に出た僕と父さんは、準備よく持ち込んでいた釣竿(つりざお)を手にして、早速ささやかな決闘にのめりこんだ。


「父さん、負けたほうは罰として、相手のどんな質問にも答えるってのはどう?」


「いいねえ。それで決まりだ」


 僕は父さんに聞いてみたいことがあった。この僕が生まれる最初のきっかけとなった、母さんへの告白の言葉。今まで二人がどうしても教えてくれなかったこの謎に、今日こそは答えてもらわなくっちゃ。夫婦仲がよく、一人息子の僕に精一杯の愛情を注いでくれる二人のなれそめは、僕の両親に対する興味の一丁目一番地だったのだ。


「ちなみに、父さんは僕に何か聞きたいことある?」


「それは勝負に勝ってから明らかにするよ。……ほれ、一匹かかったぞ!」


 父さんの釣竿がしなる。ルアーに何かかかった証拠だ。魚はたいした抵抗もなく、あっけなく水中からその姿を引きずり出された。


「アユだ! まずは一匹!」


 誇らしげな父さんは、僕に獲物を見せた。(だいだい)と黒の婚姻色だ。体長は15センチほどか。口元を針に引っかけられて、元気よく左右に尾びれを振っている。僕は感嘆しつつ舌打ちするという曲芸を披露した。


「ちぇっ、父さんにはかなわないや」


 父さんは笑って僕の背中をどやしつけた。痛い。


「何言ってんだ、まだ闘いは始まったばかりだろ。それとも何か? もうギブアップして俺の質問に答えるっていうのか?」


 僕はその挑発に気合いを入れ直した。


「まさか。絶対勝つよ、父さん!」


「おう、その意気だ!」




「5対1……」


 1時間が過ぎた頃には、僕は父さんに5倍の差をつけられていた。バケツの中の水へ窮屈そうに押し込められた6匹は、今夜の食事になるだろう。その様子を中腰で眺めていた僕は、敗北の実感に重くため息をついた。


「僕の負けだよ、父さん」


 父さんは嬉しくて仕方ない、といった様子で戦利品の入った容器を片手に提げる。


「それじゃ、俺からの質問だ。答えてもらおうか」


 悔しいなあ。僕は捨て鉢になって返事した。


「はいはい、何でも聞いてよ、父さん」


 僕らは母さんの待つテント目指して歩き始める。空は雲ひとつなく快晴で、夕暮れの気配が音もなく辺り一帯を侵食し始めていた。


「……じゃあ聞くぞ。篤彦、お前は女の子とつきあったことはあるか?」


 え? 父さんが聞きたいことってそれ?


 僕はもっと変化球が飛んでくるものだと思っていたけど、父さんの横顔はすでに「返事待ち」だ。


 僕は少し恥ずかしさを覚えながら、生みの親の要求に応えた。


「ないよ。女子と付き合うなんて、そんなこと今まで考えもしなかったよ」


「ほう、そうか」


 父さんは口元をゆるませ、隣を歩く僕に唐突に言った。


「俺は佳代子に言ったぞ。あれは大学2年生の頃だったかな。ちゃんと目を見て、はっきりと『あなたが好きです。付き合ってください』ってな」


 僕は驚いて父さんの顔を見上げた。え? 僕が心に抱いていた疑問が分かってたの? ひょっとしてエスパー? ……いや、きっと偶然なんだろう。それにしても個性に欠ける台詞だなあ。


 長年の謎があっさり解けた僕は、父さんの横顔を凝視する。いつか僕と恋愛について語り合おうと考えていたのかもしれない。少し頬を赤らめているところが、何となしに彼らしかった。


「俺はそれで佳代子を射止めたんだ。……篤彦、お前も女の子と付き合いたいと思ったら、ちゃんと真心を込めて告白するんだぞ。恋に限らずどんなものごとも、成功しようが失敗しようが、それは人生の(かて)になるはずだ。――なんちゃってな」


 最後はふざけたが、父さんは大真面目にみえた。釣竿を抱える僕の頭を撫でる。


「さあ、母さんが待ってる。腹も減ったし飯にしよう」




 僕は焚き火を前に飯ごうを見つめて、両親とともにでき上がりを待った。釣り立てのアユは美味しく、味覚に芳醇(ほうじゅん)な感動を残した。生涯忘れられない味になりそうだった。


 満天の星空はいつまで見ていても飽きることがなく、望遠鏡で星座を探すのには夢中になった。


 そう、ここまでは良かったんだ。ここまでは。




「ちょっといい?」


 最初の失敗はトイレだ。僕は小用を足そうと、ウイスキーにほろ酔い気味の両親をテントに残し、少し離れた場所を探した。姿を見られてもまずいからね。


 辺りは月が出ているものの、木陰で暗かった。木の葉と土の放つ匂いがブレンドされて、独特の香りを漂わせている。それを嗅ぎながら、明かりの届くいい地点を見つけ、足を速めた。


 そのときだった。それまで何の支障もなく地面を踏んでいた靴裏が、急に虚空を空振りしたのだ。体勢が崩れる。重心が前に移動し、気がつけば僕は斜面に向かってダイブしていた。


 落ちる。転がる。滑っていく。視界はぐるぐる回り、上下が交互に入れ替わる。全身が鈍器で殴られているような痛みと、どんどんまとわりついてくる土、一向に止まらない降下に、僕はなす術がなかった。あまりの恐ろしさに悲鳴を上げるゆとりさえない。


 しばらくしてようやく転落は収まった。月明かりの中、僕は痛む頭をさすりながら、仰向けの体を起こした。


「いててて……。ひどい目に遭ったなあ」


 土埃を上げる高角度の地面が、はるか上へと伸びている。僕はどうやら、足を踏み外して急斜面を滑落したらしい。こうして生きているのが不思議なほどだった。


 一見して、登って戻るのは不可能だ。別の帰還ルートを探すしかなかった。僕はまず小用を済ませると、勘を頼りに道なき道を歩き出す。


「そんなに離れていないし、大丈夫、すぐ戻れるさ」


 僕はそう楽観した。今思えば、それが第二の失敗だった。




 夜が明けた。横なぎの朝日が、山から闇を追い払う。それで僕は、自分がひと気のない、どこともしれない木々のまっただ中にいることに気がついた。すでに数時間の寝ずの行軍で、疲労と眠気でくたびれきっていたところだ。目の前の光景は、無情な現実を僕の胸に突きつけてきた。


 誰もいない。道路も見えない。車が通る音も、電車が走る音も聞こえない。


「父さん! 母さん!」


 いくら呼んでも、誰も返事をするものはない。僕は恐怖と絶望でその場にしゃがみ込んだ。どうやら僕は、一人遭難してしまったらしい。


「マジかよ……!」


 認めたくなかったその事実を、僕は悔恨と同時に受け入れた。




 それから僕は、助けを求めて山中を孤独に歩き回った。喉が渇く。腹が減る。眠い。疲れた。寒い。寂しい。状況は時間の経過に比例してどんどん悪化していく。中学3年生、美野里山で行方不明。捜索隊、今日も発見できず。今頃そんな見出しが、地方新聞の片隅に掲載されているのだろうか。


 遠い空を群れをなして飛ぶ鳥を、ひどくうらやましく感じた。喉の渇きに苦しんでいて川に出たときは、狂喜のあまり、乾いた喉へと清流を注ぎ込んだ。反対側の山肌に何か動く生き物を見たときは、恐怖で背筋がぞっとした。




 何日経ったか分からなくなった。疲れ切って、歩くのが億劫(おっくう)になった。足はたびたび止まり、座って休むことが多くなった。成分不明のきのこに危うく手を出しそうになった。温かい食事と清潔なベッドを夢見て夜を過ごしたが、空腹と寒さでろくに眠れなかった。日を追うごとに、僕は衰弱し、遂には重力の重みにすら耐え切れなくなった。


 そうして僕は、とうとう動けなくなったのだ。




 今頃父さんと母さんは必死で僕を捜していることだろう。でも、もう駄目だ。これ以上さまよい歩いても彼らのもとに辿り着けるとは思えない。第一、そんな体力は残っていない。ああ、疲れた……


 これまでの人生って、結局何だったんだろう。何で生きてきたんだろう。どうして死ななきゃならないんだろう。


 人間って、生きるって、一体どんな意味があったんだろう。




 もう僕は死ぬんだ。そんなときがきたら嘆き悲しむかと思っていたけど、その実感も感慨もなかった。ただ横たわっているだけだ。目の前をアリンコが横切る。夕日が山の稜線目指して推移していった。


 と、そのときだった。


「私の声が聞こえますか?」


 若い女の子の声。僕より少しだけ年上か。それが僕の聴覚ではなく、意識の中に鮮烈に響き渡ったのだ。

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