さらば友よ また会う時代(とき)まで
そいつはわしの前にぼうっとした形を見せた。
わしにはすぐにそれが何だか分かったから、即座に声をかけた。
「牛か。随分早かったじゃないか。もう逝くのか?」
中空で浮かびながら、徐々にその姿をはっきりさせた牛はわしにこう言い返した。
「馬鹿を言うな。梅。わしはご主君が亡くなられてから八年も待ったんだぞ。わしは二十年も生きた。我が種族では一番長命な口だ」
「そうか」
牛の平均寿命は十五年ほどとも言われている。このわしの友たる牛は二十年生きたのなら、確かに長命なのだろう。
◇◇◇
「そういう訳だ。すまん。梅。先にご主君のところに行かせてもらう」
柄にもなく神妙な牛にわしも返す。
「羨ましいが、これは仕方がないことだ。わしらの種族は普通百年は優に生きるからな。それにわしはご主君から歌を賜っている」
牛も頷く。
「ああ。そうだったな。わしは歌を賜ったことはない。それは羨ましいよ」
『東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ』
(梅の花よ。暖かい東からの風が吹いてきたら ちゃんとその香りを漂わせてくれよ 主君である私がいなくなっても春を忘れてはいけないよ:作者訳)
我が主君がわしに詠んでくれた歌だ。このお気持ちに応えるべく、わしは当時いた京からご主君のおわしたここ九州の太宰府までと届けと香りを漂わせた。
◇◇◇
「それにご主君の下の行くのはわしが最初じゃない。桜が先に行っているだろう」
牛の言葉にわしは頷く。
「そうだったな」
ご主君、菅原道真公のお屋敷にわが友、牛がやってきた時、このわし梅と桜、そして、松が苗木として、お庭に植えられた。
人たるご主君とわしたち植物、動物は何となくその気持ちが分かることがあっても、完全に心を通わすことは出来ない。
また、わしたち植物、動物同士も必ずしも心を通わされることが出来る訳ではない。相性というものがあるらしい。
だが、牛とこのわし梅、そして、桜と松は不思議なくらい心を通わせることが出来た。
ひときわ可憐であった桜は、ご主君から「弥勒菩薩が悟りをひらくという龍華樹も遠く及ばない」と称えられ、わしらからすると人で言うところの妹のような存在だった。
ご主君が九州太宰府に冤罪で左遷された際、牛はご主君から離れずついて行った。
その牛から心を通じて、左遷から二年後、ご主君が亡くなられたことを知らされた時、桜の落胆ぶりは痛々しいほどだった。
そして、桜はみるみるうちにその葉を落とし、枯れてしまったのである。
◇◇◇
ご主君に続き、桜まで失ったわしは弟のように思っていた松と語らった。
「わしらもご主君が亡くなられた九州太宰府へ行こう。そこで生涯を終えよう」
松は頷き、わしと松は九州太宰府に向け、夜空を飛んだ。
しかし、松の力では九州太宰府まで飛べず、摂津国須磨(神戸市須磨区)に落ち、その地に根を下ろした。
「悔しい。悔しいぞ。梅の兄」
そう嘆く松に、わしは語りかけた。
「松よ。離れていても、わしらは兄弟ぞ。これからも心を通わそうぞ」
◇◇◇
わしはご主君が住まわれていたという家の隣に根を下ろした。
そして、憤った。配流されたとはいえ、左大臣までいった方をこのようなあばら家に住まわせるとは。
そうこうしているうちに、ご主君の埋葬が行われることになった。
生前から死ぬことがあれば安楽寺に葬られたいというご主君の言葉を聞いていた牛は御遺骸を乗せていた牛車を安楽寺の前で止め、梃子でも動かなくなった。
周囲の者はそれならばと安楽寺にご主君を葬った。
◇◇◇
わが友、牛がご主君の下に行くのを見送ってからも、わしと松は人の世を見つめ続けた。
ご主君の才を妬み、冤罪で左遷に追いやった者どものその後の醜態には呆れるばかりだった。
当事者の病死や天災をご主君のせいにして、祟り神呼ばわりとは失礼千万な話である。
詩作を好んだ学者であったご主君がそのようなことをされると考えるとは……
器量の狭い者は他の人も自分と同じ物差しでしか測れないのであろう。
◇◇◇
だが、人も愚か者ばかりではなかった。
ご主君が亡くなられてから八十年を経た頃、その学問の業績を見出す者が現れた。
ご主君は祟り神から学問の神、天神と呼ばれるようになった。これこそが、わがご主君に相応しい。
安楽寺は太宰府天満宮と名を変え、心ある人がわしをその庭に移し替えてくれた。
これは嬉しかった。しかし、それにも増して嬉しかったことがある。
わが友、牛がご主君を妬んだ者が放った刺客を角を向けて突進して追い払ったこと、その最期までご主君に寄り添ったこと、ご主君が望み通り安楽寺に葬られるよう努めたこと、そういったことが認められ、「天神様のお使い」と呼ばれることになったことだ。
わしは天上でご主君と共にいるわが友、牛に向かって呟いた。
「良かったな」と。
◇◇◇
心を通わせ続けてきたわが弟、松も人のいうところの大正時代、落雷で枯れてしまった。
唯一取り残されることになったわしは今日も太宰府天満宮を訪れる人を見つめ続ける。
わしが天上に行くのはまだまだ先になりそうだ。
ご主君、わが友、弟妹よ。わしがいつそちらへ行くことになるかは分からない。
だが、その時は共にまた同じ時代を生きようぞ。