六日目・深夜 エルダートレント
「……えっと、つまり、あれか。飲んだのか?」
「…………そうじゃ」
たっぷりと間が空いて、クロエは小さく頷いた。
「ステータスのため、ステータスのためと思ったが流石に木は無理じゃ。無理じゃった。そもそも、我は吸血鬼であって虫ではない。樹液を吸う種族じゃない。無理する必要がなかった、大失敗じゃ」
よほど不味い思いをしたのだろう、クロエは捲し立てるようにそう言うと、自分のバックパックを下ろしてその中から血液入りペットボトルを取り出す。
それを見ていた浦野さん達がぎょっとした表情を浮かべるが、クロエはそれに構う暇なくペットボトルに口をつけると、一気にその中身を飲み干した。
「――っ、ぷはぁ! あー……、もう二度と血液以外は摂らん」
クロエは、空になったペットボトルをバックパックへと仕舞いながら深く息を吐く。
すると、その様子を見ていた浦野さんが口を開いた。
「あ、あの……。今、あなたは何を飲みました……? 私には、血のように見えましたが……」
その言葉に、クロエが浦野さんへと視線を向けた。
唇に残った真っ赤な血を舐めとりながら、クロエは唇の端を持ち上げる。
「……じゃったら、どうする? 我をモンスターじゃと言って、お主は我を倒しに来るか?」
「い、いえ……。とんでもないです」
浦野さんは笑みを浮かべるが、その目が恐怖に染まっているのを俺は見逃さなかった。
そして、それはクロエも同じだったのだろう。
小さく鼻を鳴らすと、彼らから離れるようにして一人先に進み始める。
「何をしておる、いくぞ」
クロエは俺たちに目を向けると、小さく言った。
俺とミコトはクロエの横に立ち、共に歩く。
「……ったく、どいつもこいつも。我が血を飲むとすぐにこれじゃ。すぐに目の色を変え、態度を変える」
「気にするな。どうせ、このクエストだけの付き合いだ。クエストが終わり、クゼの元に案内してもらえば、もう会うこともないだろうさ」
「そうですよ。気にしないでください」
「……そう、じゃの。すまぬ、気を遣ってもらって」
クロエは気を取り直すように小さく笑った。
それから、クロエは話題を変えるかのように言う。
「それにしても、トレントのDEFの低さはなんじゃ。張り合いもないモンスターじゃったわ」
その言葉に、ミコトが同意を示した。
「私でも簡単に倒すことが出来ましたからね。相当DEFが低いと思います」
「全体的にステータスが低いのか、それともDEFだけが低いのか気になるの」
「ステータスを見てみたらどうだ? 【吸血転化】したんだろ? 全部が1なら全体的に弱いモンスターだし、どれかが1以外の数字になってたらそれが高いモンスターだったって分かるだろ?」
「ああ、なるほど。それもそうじゃの」
そう言って、クロエはスマホを取り出す。
画面を操作してその画面に目を落とすと、小さく息を吐いた。
「……ふむ、どうやらDEXとLUKが高かったようじゃの。それはステータスが二つほど伸びたが、他は一つじゃ」
DEXが高くても、他の数値が高くなければ意味がない。
トレントがレベルやステータスの低いギルドのプレイヤーでも勝てていたのは、それが原因だろう。
適正レベルで言えば、食屍鬼と同じレベル10ぐらいだろうか。
だとすれば、トレントは今の俺たちの敵ではない。
「適正レベルも低いみたいだし、俺は自分で手を出すことを止めておくよ。一角狼やデスグリズリーなら別だけど、トレントを相手にして同化率を上げたくないしな」
現状、無理やり考えないようにしているが、これでも必死にボスモンスターへ向かいたい気持ちを抑え込んでいる。
同化率が上がった影響からか、気を抜けば思考の片隅で浦野さん達を置いてすぐさまボスモンスターへ駆けつけたほうが早いのではないか、という考えが脳裏を過っている。
それが種族の影響だと分かっているからこそ、俺は以前よりも自分自身を抑えつけることが出来ているが、これ以上種族同化率が上がれば、俺は自分を抑えられる自信がない。
「お主、今の同化率はいくつじゃ」
とクロエが言った。
俺はスマホを取り出して画面を確認する。
「……32%だ」
「大丈夫ですか? 結構上昇しているみたいですけど」
とミコトが心配そうな顔で言う。
その言葉に、俺は小さく笑いながら答える。
「ああ、今のところは平気だ。多分だけど、順調にボスモンスターの討伐へ向かっているからだろうな。思考が暴走するほど、討伐に意識が向くことはないみたいだ」
「種族に身体が乗っ取られるのが50%じゃったか? 時間との勝負じゃの。それまでにボスを討伐さえすれば、お主の上昇率もまた落ち着くじゃろ」
「そうだな……。出来れば、短い時間で勝負を決めたい。俺は……、長期戦には向かないから」
ボスと出会い、戦闘が長引けば長引くほど、俺の思考はよりボス討伐へ傾くはず。
【一閃】の効果を考えても、出来れば初撃で全てを決めたい。
「まあ、どんなボスが相手なのか今から楽しみだな」
と俺は笑った。
その言葉に、ミコトが何かを言いかけるように口を開くが、結局は何も言わず、小さく息を吐く。
対してクロエは、俺にちらりとした視線を向けると、
「……そうじゃの。いち早く討伐できるボスであって欲しいものじゃ」
とゆっくりとした息を吐いたのだった。
俺たちの行く道をトレントに邪魔をされながらも進むこと十数分。
相変わらず鬱蒼と生い茂る森の地面に、舗装されたアスファルトが混じり始めた。
どうやら、ここはまだかつての文明の名残が残っているらしい。
そんなことを思っていると、俺たちの前を進んでいた浦野さんがピタリと足を止めた。
「……着きました」
浦野さんは、緊張した硬い声で主語のない言葉を吐いた。
俺は、目を細めて浦野さんが見つめる先を見やる。
アスファルトと土の地面が混じった森の中、十数メートルほど開けたその場所の中心に、風化し苔と緑の蔦で覆われた江戸城跡の石垣が鎮座している。
その石垣の奥には、高さが十メートルはあろうと思われる大きな杉の木に似た樹木が、俺たちを見下ろしていた。
「あれが、エルダートレント、です」
と浦野さんは言った。
「……あれが」
と俺は言って、その木を観察する。
長い年月を重ねてきたと思われるその幹は、直径で十メートルはあるだろう。
手入れがされていない枝葉は空を覆うほど大きく伸びているが、その枝先に木の葉が付いている様子はない。まるでその木だけに冬の季節が訪れたかのように、周囲と比べれば若々しい生命力というものが欠けているようだ。
だというのに、その木全体からは圧倒的な存在感と威圧感が伝わってくる。
もし、ここが神社の境内で、あの太い幹に注連縄でも巻かれていれば、立派なご神木として祀られていてもおかしくはないと思った。
「攻撃手段はなんだ?」
「分かり、ません。ただ、アイツが、ボスモンスターであることは、確かだと思います」
俺の問いかけに、浦野さんがやたらと言葉を区切りながら答えた。
「……?」
その様子に、俺は首を傾げて浦野さんの顔を見る。
「……どうしたんだ」
と俺は思わず浦野さんの顔を見て、そんな言葉が出た。
浦野さんの顔からは、完全に血の気がなくなっていた。
唇は真っ青を通り越して色がなく真っ白で、細かく震えている。
呼吸は浅く、まるで過呼吸になったかのように回数が多い。
そして何より、エルダートレントと言って俺たちにその存在を伝えた巨木を見つめるその目には、明らかな恐怖の色が濃く浮かんでいた。
そして、その恐怖に慄いているのは浦野さんだけではない。
俺たちを除くギルドの面々が、恐怖で顔を引きつらせ、足を震わせ、その顔から血の気が引いている。中には、数歩後退りをしてこの場から逃げようとしているプレイヤーもいるぐらいだ。
「皆さん、どうしたんですか?」
とミコトが恐怖で震える彼らを見て、そう言った。
そんなミコトに向けて、浦野さんが小さく息を吐く。
「あなた方は……。アレの強さが、その恐怖が分からないんですか?」
「……なるほど。おそらく、レベルやステータスの関係じゃろうな。正直に言って、我らはお主らギルドのプレイヤーよりも強い。これは確かじゃ。考えるに、我らのレベルとステータスがあのボスモンスターとさほど変わらないんじゃろう。あの木を見て、我はアレを怖いとすら思わん」
クロエはそう言うと、小さく息を吐いた。
「ボスモンスターを相手に、恐怖を感じないのは初めてじゃ。ユウマ、お主もそうじゃろ?」
「そう、だな。俺も何も感じない。いや、威圧感とかそういう感覚は分かるんだけど、格の違いを感じることはないな」
俺はそう言って、浦野さん達へと目を向ける。
「これなら、俺たちだけでも勝てそうだ。アレが怖いなら、後ろで待ってるか?」
「…………いえ、それは、それだけは出来ません。ここに初めて来たとき、私たちはあの巨木を見て逃げ帰りました。生物的な直観、とでも言えば良いんですかね……。あの巨木がすぐにボスモンスターだと分かってしまうのもそうですが、何よりアレに勝つイメージが全然湧かないんです。でもだからと言ってここで逃げだせば、私たちは何も変わらない。プレイヤーズギルドは、クゼさんが戦力の拡大を目的に作った場所です。私たちは強くなる必要がある。今はまだ弱くても、私たちは強くなる必要がある! そんな私たちが、二度も恐怖に押しやられて逃げるわけにはいきません!!」
浦野さんは、唇と同じ色になるまで鉄の棍棒を握りしめて、そう言った。
その言葉は、自らを鼓舞するための言葉であり、同時にギルドのリーダーとしてギルドのメンバーへ向けた言葉だったのだろう。
浦野さんの言葉に、メンバーの一人一人が恐怖で震える身体を抑えるように、その感情を噛み砕くように、硬く歯を食いしばると、それぞれ武器を持つ手に力を入れて力強く頷いた。
「私たち、プレイヤーズギルドは戦います。死を受け入れる準備も、もう出来ています。私たちはこのクエストを乗り越えて、前に進むと誓ったんです!」
そう、浦野さんは言った。
俺はその言葉にじっと耳を傾けると、小さく口元を綻ばせる。
「――そうか」
彼らの覚悟は本物だ。
恐怖を乗り越え、死を受け入れ、その先にある勝利を掴もうとしている。
であれば、俺たちだけで勝てるからと言って無理に後ろに下がらせることは無粋に当たるだろう。
ボスモンスターはレイド戦だと、クロエは言っていた。
だったらやってやろう。
彼らの覚悟を実現させるために。
俺たち全員で、あのボスモンスターを倒そうじゃないか。
「ミコト、クロエ。準備は良いか?」
「当たり前じゃ。いつでも行けるぞ」
クロエがグローブを引っ張りながら、ニヤリと笑う。
「私も、準備は万全です。MPも十分にありますし、いざとなれば【聖域展開】で皆さんを守れますよ」
とミコトが頷く。
俺は二人に向けて一度頷くと、エルダートレントへと目を向けた。
「……このまま全員で掛かれば、ギルドの人たちが大きな怪我を負うことは間違いない。今回は、俺が盾役でボスモンスターのヘイトを稼ぐ。クロエはギルドの人たちと一緒にエルダートレントへ攻撃を、ミコトは全体を見ながらスキルで補助してくれ」
「いや、それなら盾役を我がしよう。お主には【曙光】があるじゃろ。経験値のためにも、しっかりと攻撃してもらわんとな」
「分かった。それならクロエに頼む」
「任せておくのじゃ」
クロエはくくっと喉を鳴らして笑った。
俺は浦野さんへと声を掛ける。
「浦野さん、あんた達ギルドの役割は攻撃だ。ボスモンスターの攻撃はクロエが全て捌く。あんた達は、俺と一緒にエルダートレントへ攻撃してくれ。危ない攻撃があれば、俺が引き受ける」
「分かりました。よろしくお願いします」
俺は浦野さんの言葉に頷く。
そして、ゆっくりと息を吐くと、ここにいる全員に聞こえるように大声で言った。
「……よし。それじゃあ、行こうか。クエストを終わらせるために!」
「ぉおお!!」
俺の言葉に、プレイヤーの声が重なる。
『緑の古王』のボスモンスター、エルダートレントへ挑む十名のプレイヤーの死闘が幕を開けた。