弟の王国
今宵も一つの夢がそっと月へと昇っていきました。それは小さな兄弟の弟のほうの夢でした。
弟は何をやっても兄には勝てませんでした。算術も、読み書きも、狩りの手伝いも、兄にはかないませんでした。兄には名前がありましたが、弟には名前がありませんでした。いつも、弟とよばれていたのです。自分は何者で、なぜ生きているのだろうか、弟はそのことをずっと考えていました。今夜もそう思いながら、眠ったのでした。
気がつくと、黒い階段が月へと続いていました。階段の途中には、扉だけがありましたが、どうやら閉まっているようでした。弟はおそるおそる階段を一段ずつ上り、扉のところまでどうにかたどり着きましたが、やはり扉のほかには何もありません。
「コン、コン、コン……。」
静まり返った闇夜に、三回、扉を叩く音がしました。すると、扉の向こう側から、かすかに心臓の鼓動がするのが分かりました。
「トクン、トクン、トクン……。」
弟は再びあたりを見回しましたが、やはり月と扉と階段のほかには何もありません。
「ドックン、ドックン、ドックン……。」
やがて、鼓動はどんどん大きくなっていき、弟のそれと共鳴して、ますます激しく高鳴ります。弟は一刻も早く逃げ出したいという思いに耐えられなくなり、ついに扉を開けてしまいました。
扉の先には、何も特別なものはありませんでした。ただ、月と階段と沈黙があるだけでした。しかしながら、眼下には月の統べる王国が広がっていることに、弟は気づきました。そして、弟は自分がこの王国の玉座にいるということを知りました。算術も、読み書きも、狩りの手伝いも、満足にはできない王国でしたが、それは確かに弟のものなのでした。あの心臓の鼓動は、実は弟の王国に仕える軍人たちの足音だったということも知りました。弟は実は自分にはすべてが与えられていたのだ、ということが分かって、とても喜びました。
すると、地上に兄の姿が見えました。兄はどうやら自分を探しているようだったので、弟は急いで階段を降りました。あまりに急いでいたので、扉を開けたと同時にそれが消えたということにも気づいていませんでした。
「兄さん、王国を手に入れたよ。軍隊だっている王国さ。僕は王だったんだ。」
兄は驚きました。兄は自分が全てを手にしていると思っていたので、弟のことばをあまり良く理解しないまま、恐怖したのでした。そして、すぐそばを流れていた川に、弟を突き落としてしまったのです。川の水はどこまでも黒く、ただ月だけがぽっかりと浮かんでいました。弟の身体は、さらに暗い川の奥底へと向かって、沈んでいきました。
弟は死んでしまったのでしょうか。それは誰にも分かりません。なぜなら、この弟と同じ心臓が、わたしたちの身体で生きているからです。誰もが王さまであって、闘うための軍隊さえも持っているのです。
心臓の鼓動を感じたときには、どうかこの弟のことも思い出してあげてください。




