根無し草の定住
忠信は境遇が境遇だ、とにかくいつも金がなかった。
ほぼ無趣味の男だ、本を買う以外は無駄をしない。
それでもいつも金がなかった。
遺族の寄付金とやらに吸い込まれていくからである。
だから当然のように、義務教育を終えたら就職した。
彼の成績を惜しむ声もあったが、貧困と言うより押しつけられた義務感が少年を束縛した。
お前は、あの家の子なのだから、償い続けなければならない。
怨嗟の声は何年経っても薄まることはなく、むしろそれが生きがいになっているようだった。
切っても切っても、世羅の名前が追いかけてきてはつきまとう。
関係者であるとわかると排斥された。
あるいは、そうと知っていて受け入れる者は、逆手に非人間扱いを公然と押しつけた。
世羅は漂い続けていた。
人並みに本の読める場所を探して。
そのうちに、世間では高校を卒業する年齢になった。
雨の日だった。
男が家に尋ねてきた。
「君が忠信君、かな?」
信者達は忠信を「童師様」と呼ぶ。世羅を憎む者は名字を吐き捨てる。
さほど執着しているわけではないが、個体名は少しだけ新鮮だった。実に業務的な声の調子も。
胡乱な目をよこした青年に、黒服の男はドアチェーンの向こうから囁きかけた。
「仕事をしないか。数年だけ。その後は、君は今までの人生からすっかり自由になれる」
物事に頓着せず、流される事に慣れている彼の好奇心が珍しく騒いだ。
まあ、話を聞くだけ。
それで彼は、男について車に乗った。
例えばもし、そこで自分が殺されても、誰も困らない、何の損もない。
世羅忠信はいらない人間だ。
取り繕う人付き合いをして、葬式に誰も来ない事はなかろうが、彼らは彼が何者であるか知らぬし、一時涙を流してもすぐ忘れ去る、その程度の仲でしかないだろう。
幸運だった、というべきなのだろうか。
不審な動きはなく、ビジネスの話が進んだ。
曰く、ある家の子を世話してほしい。
難病を抱えていて、部屋から出られないのだそうだ。
奥方が面倒を見ていたが、最近どうにも様子が危うい。
なので誰かに、外注をしたい。
ベビーシッター、という奴になるのだろうか。
渡された資料も退屈な彼の興味を引いた。
鼻にチューブを常時身につけていないといけない、という所もなかなかセンセーショナルだったが、肌がやわすぎて太陽光で火傷するため日光に当たれない、と言うのが何よりよかった。
虚飾じみた現実。生きている事が不思議でならない少女。
「しかし、他にも人はいるでしょう。なぜ俺に?」
一応確認は必要か、と思ったのはそこだったろうか。
にこやかに尋ねてみれば、すっかりヤニの染みついた車内で、ぷかりと吹かせて担当者は答えた。
「お嬢様は、亡霊だ」
――なるほど。
義務で養っているし、延命は努力する。
けれど父親の本音は、この厄介者の娘にさっさといなくなってほしい、といったところか。
青年は笑んでシートに背を埋めた。
この世にいてはいけない男と、この世に望まれぬ子。
ま、ぴったりと言えばぴったりだ。
わざわざ探してきて組み合わせる当たり、どうかしているとは思うが。
世羅の口元に浮かぶのが揶揄と感じ取ったか、眉間に皺を寄せ担当の男が補足した。
「それに、ここだけの話。旦那様は世羅に恩がある。あれらのしたことは間違えていたが、その信仰は確かに一度、若君様を救ったのだ」
眠たげに半分目を閉じて、忠信は言葉を聞き流していた。
世羅が在ったのは九年前まで。
娘が生まれたのは五、六年前。
どうやら娘どころか、その母親の方から元からいらぬ人間だったようだ。
別宅と呼称されている方が、父親にとっては元から本宅なのだろう。
ならばなぜ、番うのか。
それとも娘の虚弱さは、いびつな関係に対する天からの制裁か。
馬鹿馬鹿しい感傷だ。忠信は知っている。
神はいない。ここはもう、仏が救済不能を告げた時代だ。
――この車内は息苦しくて、だからきっと、そんな妄想も頭をかすめていくのだろう。
何にせよどうでもいいことだ。相手の動機が打算だろうが詫びだろうが、ともあれ今の、死んでいるような毎日が少しでも色づくのなら。
紫煙ごしのミラーには、哀れみを流し目に送る薄ら笑いの男が、ただぼんやり反射してゆらめいた。
前向きに準備しておきますよ、と別れた数日後、男は再び世羅の潜むアパートにやってきた。
今度は切羽詰まって、しかも憔悴した様子。
「奥様が、亡くなられた。今すぐ来てほしい」
忠信はピンと眉を跳ね上げる。
「世を、儚みましたか?」
男は黙っていたが、沈黙は雄弁だった。
青年は了承を告げ、その場でその足で家を出た。
そこから何も、持ち出そうとはしなかった。
そうして彼は、真っ白な少女と出会った。
先天性色素欠乏症。なるほど色素という防壁がまるでない、これならば日の光に灼けるのも道理である。
鼻のチューブは呼吸器が駄目なのだったか。
扱いが面倒、と聞かされていたが、色々な医療器具だとか、気をつけてやらねばならない体調周りの事を除けば、人の言うことを聞く大人しい娘だった。
透き通るように細い肌には青い血管が所々浮いていて、枯れ木のような手足はほとんど骨と皮で構成されている。
顔のパーツは整っていた。もう少しふっくらして、見苦しいチューブなぞなければ、さぞ愛らしく見えたことだろう。
出かけるとわかって、娘は機嫌がよかった。
どこにいくのかしら。うれしい。
これから母親の葬儀に向かうのに、そんなことを言って足をぷらつかせる。
この子供に湧き上がる、何か胸の内の衝動。
忠信はその名を知らなかった。
花に埋もれ、女は永久の眠りに浸っていた。
儚むだけ世に期待する余地があったのか、なんてことをぼんやり思う。
傍らの少女を見下ろした。死を理解できぬ無知。再び胸の内で何かが渦巻く。相変わらずその情動の名を知らぬまま、ふと気がつけば、母親の遺体を前に少女に説明を始めていた。
――この世羅が。
なぜだろう。
数年、自らけして口に出そうとしなかったそれが、するりと喉を突き破って飛び出した。
ぽろりとこぼれ落ちた失言に、けれど娘は不思議そうに首を傾げ、無邪気に言った。
――セラって、おんなのこみたいななまえね。
ああ、また、胸の中に何かがごぼごぼと、溢れて、止まらない。
世羅は少女の手を握りしめた。
世羅という名に何の意味も見出さぬ、呆れるほどに無垢な子供。
(知っていますか。知るはずもない。俺はあなたを看取って葬儀までこなしたらお役御免、と言われているのですよ)
ユキ。世羅は主の名を舌の上で転がす。覚えやすい名前で結構なことだ。
「あなたの望むことなら、なんでも叶えてさしあげましょう」
彼は死んだ女を前に、死にゆく女に甘く謳う。
偽りでもあり真実でもある優しさの毒の味は、確かに自分が世羅であることを思い出させた。
浮き草の人生が終わり、世羅の根が張りだした瞬間であった。