私はとても幸せなんです
次に目が覚めたとき、私は水の中にぷかぷか浮かんでいました。
溺れちゃう! と慌てたけど、ちっともそんなことはなくて。
だって、息を吸うのも吐くのも、苦しくないの。
身体のどこにも、痛みがない!
「お嬢様。聞こえますか?」
セラの声が、外から聞こえてきました。
近くにいることは、わかりました。
なんだか不安そうだったので、私はすぐ返事をしました。
「セラ? あのね、今、とっても気持ちがいいの。なんだか上手に周りが見えないけれど、これまでにないほどいい気持ち。ねえ、どこも痛くも、苦しくもないの。ねえ、セラ!」
私が頑張ってそう伝えようとしたら、ちゃんと届いたのかしら。
セラがぶるっと震えた感触が、どこかから伝わってきました。
「お嬢様。もう大丈夫です。お嬢様は肉体の楔から解放され、これから楽しい余生を過ごされるのです。ああ、この世に方法がないのなら、その外の世界から持ってくればいい……ユゴスは存在し、異星人は約束を守り、俺は成功した。やってやったんだ!」
彼は興奮した様子で、何か独り言をずっと言っていたけれど、落ち着いたらちゃんと説明をしてくれました。
私の身体はもうどうにもならないけど、私の身体の一番大事な部分を取り出すことに成功した。
私は私の身体を失ったけれど、代わりにもうどこへでも世界中自由自在に飛んでいける。
この脳は今世界中のネットワークと繋がっているし、私の頭の中で考えたことは、全て私にとって現実になるのだから。
正直、彼のお話は難しい事も多くて、私にはわからないことも多かったけど、今までは子供用に制限されていたネットが無制限になったことと、もう発作に怯える必要がなくなったことがわかったから、とても嬉しくなりました。
もうあの醜い入れ物に苛まれる必要がない!
私はとても自由でした。
疲れ知らずの心で駆け回って、情報の海に溺れてむせびました。
ひとしきり私の興奮も落ち着くと、これからどうしようか、という悩みが新しく出てきました。
「お嬢様はもう、自由になさっていいんですよ」
「自由……私、お友達がほしいの」
「今なら、あらゆるツールがありますから。ああ、ただし、注意事項が一つ。お嬢様は自由になりましたが、それは内緒の事なんです」
「私が今こうしていることがわかってしまったら、セラが困るの?」
「はい。だから、お友達は選んで、それから本名を名乗らないように」
「ハンドルネームと、インターネットリテラシーね? 私、知っているわ」
「お嬢様は賢いですね。そうですね、お友達を増やすなら……お嬢様の好きな、ゲームの話をするといいのではないでしょうか? そうですね、こうしてみたらいかがでしょう?」
セラは優しくて賢いので、私はその通りにしました。
ユキ、から連想して、私は白をモチーフにした新しい名前でひっそりと色々なところに降り立ってみました。
最初にお友達になったのは、大人の女の人、でした。
SNSも、話しかける相手も、その内容も、セラがセッティングしてくれたので安心でした。
毎日シャチク生活をしていて、ゲームの時間が癒やし。
私達は同じキャラクターが好きで、それで意気投合して、夜はいつもお話しするようにまでなりました。
「あー、ほんっともう、パワハラ上司め。異世界転生したい」
そんなことを彼女が言ったのが、次のきっかけ。
私はふと、思いついたのです。
私は私の身体を捨てて、脳みそを培養液に浮かべて電極でネットにつないで、思い通りに生きることができています。
人間は、自分の望むように、世界を切り取って見ている。
だから脳さえあれば、脳に適切な刺激を与えれば、本当に望むとおりの人生を送ることができる。
ただし、鮮度を担保するためには、やっぱり直接脳みそを弄らないといけない。
確かセラが時々言う話をまとめると、そんなところだったのです。
「ねえ、セラ。私ね、お友達ができたの」
「素晴らしい、お嬢様」
「それで……あのね。その人、とっても困っているみたい。毎日、毎日、ああこんな不自由な暮らしは嫌だ、生まれ変わって自由に生きたい、って言うの。私……私達、お手伝い、できないかしら?」
彼はもしかして、私の言ったことに驚いたのかもしれない。
少し、間があってから、優しい声。
「もちろんですとも、お嬢様。夢はたくさんの人に見せた方がいいですものね。わかりました、この部屋に彼女を連れてきます」
「まあ、素敵。そうしたら、私達、ずっと一緒に、隣で幸せな夢を見ていられるのね?」
――そうやって、お部屋の脳缶が一つ増えたの。
私の横に、てん、と一つ。
大人の脳って大きいのね。
その頃には外部デバイスと接続して、ある程度自分の状況もモニターできるようになっていた私は、薄暗い部屋に二つ仲良く並べられた臓器を見てそんな風に思ったのでした。
なのに、どうして? 目覚めて状況を理解した彼女は、こんなはずじゃなかった、と私にとっても怒りました。
「何よコレ、私の身体を返してよぉ!」
「無理ですよ。だって火葬されましたから。――生まれ変わりたかったんでしょう? よかったじゃないですか、願いが叶って」
セラがにこやかに言うと、あの人はぶくぶくぶくと泡を浮かべて、それっきり。
「ああ、コレは駄目ですね」
「死んでしまったの?」
「はい。仕方ないですね。処分してきます」
私はとても残念に思ったけど、親切で何でもできて優しいセラがそう言うのなら、きっとそうなのだ。
これは仕方ない。
……でも。
「私、余計なことをしたのかしら?」
「お嬢様が? とんでもない! 肉の苦しみから解かれる、これほど素晴らしいことはありません、この人はただ、資格がなかったのですよ。あなたの隣に立つ、資格が」
お部屋に私一つを残して、彼は円筒を優しく撫でました。
「大丈夫です。友達を、また作りましょう?」
そうね。
私は納得した。
いなくなったら、別の人を連れてくればいいのだわ。
ただ、それだけのこと。たったそれだけのこと。
だから私はお友達を作っては、招き続けたのです。
セラは何度も私に紹介をしてくれました。
私は何人もの人と仲良くなって、その誰もが「生まれ変わりたい」と言うから、お願いを叶えてあげました。
いきなり現状をお知らせしたらショッキングだということもわかったので、最初は夢を見ているような感覚で仕掛けて、やがて彼らが違和感を抱いたり、真相を知りたがったら、お部屋の中に並ぶ脳みその様子を見せてあげる……そういう風に、やり方を変えていきました。
大体、どの人も一緒。
夢を見ている間は幸せそうだけど、脳の事を知ると、そのままショックでいなくなってしまうか、納得したように見せてだんだん消耗していくか、もうその人ではなくなってしまうか。
「コウジ君は、壊れちゃうタイプでしたね」
ブツブツと変な音を立て始めた隣の脳缶を見て、私はそっとため息を吐き出しました。
「ウソダ。ユメダ。コンナノ。チガウ。シアワセ。ボクハシアワセ。チガウ。ソウ。チガウ……」
こうなってしまったらもう駄目だ、何度か見たことがある光景だもの。
この子は久しぶりに私と年の近い子で、誰よりも転生システムに順応して楽しんでいたから、大丈夫かなと思ったのに。
何がいけないんだろう? 皆どうして、自分の肉体にああも拘るんだろう?
一からやり方を試行錯誤しないといけなかった私と違って、システム化して楽しい部分だけ味わえるようにしているはずなのに、どうしてそれだけのことがわからないんだろう?
身体なんて厄介なだけで、一つもいい思い出なんてあんなものにはないのに、世の中変な人ばかりで、頭がおかしくなってしまいそう。
「おや、残念。どうしますか?」
メンテナンスに来たセラが、赤く光ってエラーを表示するコウジ君の脳維持装置を見つめて首をすくめた。
「捨ててきて。お話しのできない子なんて、お友達じゃないもの。また新しい子を、探さなくちゃ」
「はい、お嬢様。お嬢様のなさることは、正しいことですからね」
セラが笑って、脳を抱えてお部屋を出て行きます。
そうよ。私のしていることは正しいの。だって、身体の中で生きるのって、苦しくて辛いだけでしょう? なのにどうして、誰もわかってくれないの? 最初はわかってくれても、そのうち「違う、こんなものはリアルではない」なんて言い出して、壊れていくの?
私は正しい。セラが言うんだから。私は絶対に間違ってない。
近頃は慣れてきて、セラがずっとお部屋にいてくれなくても大丈夫。
今みたいに、あの人は絶対に私のいてほしい時には来てくれるから。
だから、平気。
それに、寂しくなったらいつでも、彼の腕時計に滑り込んでしまえばいい。
彼はすぐに気がついてくれる。
そうして、私が指差したお友達を連れてきてくれる。
ああ、早く、次の愛す人を見つけなくちゃ。
この部屋から、どこにでも、何にでもなれるのよ?
今はまだ、こうして誰もわかってくれないけど、いつかは本当のお友達ができるって、知っているの。
セラがそう言ってるんだから。
「お待たせしました、お嬢様。次の友達はどなたですか?」
セラが戻ってきた。処分は終わったのかしら。促されて、何人か当たりをつけているアカウントがよぎったけれど、すぐには名前を出しませんでした。
「あのね、セラ。少し疲れちゃった。昔みたいに、撫でてくれる?」
セラはすぐ、私の側に寄ってきて、円筒の蓋を、側面を、指で、掌で、愛撫してくれる。
ああ、そういえば、私はそれを認識できるけど、直接もう触れないことだけは、少し残念かもしれない。
だけど、それならあの暗い部屋に、何もできない身体に戻る?
まっぴらごめん。
私は幸せになりたいの。自由に生きたいの。愛して、愛されていたいの。
それを実現するには、こうするしか、ないのでしょう?
「セラ、ずっと一緒にいてくれる?」
「ええ、お嬢様。俺はどこにも行けませんから」
甘く低い、彼の声。
透明な壁越しに口づけを贈られて、私はしばし、目を閉じる――つもりになって、ゆらゆらと宙を漂っていたのでした。