少し昔のお話しです
「あなたはお病気なのだから、お外に出てはいけませんよ」
お母様はずっと、そう言っていました。
実際、物心がついたばかりの頃、言いつけを破って、お部屋からちょっと廊下に出てみたことがありました。
私は窓から差し込む明るさに目が痛くなるのを感じて、でも光に近づくまでもなく、次に全身をちくちくと刺されるような感覚に襲われたのです。
あっという間にできあがった水ぶくれは、数日間治らず、私はとても苦しい思いをしました。
「外に出てはいけないと、あれほど言ったでしょう!」
お母様はすごく怒って、私のお気に入りの人形をバラバラにしてしまいました。
テディベアのテル。
私は悲しくて、それにいつもは優しく笑うだけのお母様が見せた顔も声も恐ろしくて、大声で泣きました。
おかげで発作が悪化して、本当に死にそうな思いをしました。
「なんで毎度、生きようとするのかしら」
そう、忌ま忌ましげに見下ろす目を、見たような気がします。
でも、きっと幻だったと思います。
だってお母様は私のことが大事なのだから。
本人がずっと、そう言っていたのだから。
私のことは、娘で大事だからぶてない。
それで、彼女はその後も怒ることがあると、私に与えた人形をバラバラにするようになりました。
目をくりぬいて、手足を引きちぎって、首をもぎ取って、中の綿をばらまいて。
そうして何度も踏みつけるのです。
何度も、何度も、何度も、何度も。
「お前さえ、お前さえ、お前さえ、いなければ!」
どの子も可愛かったけれど、そんなお母様を定期的に見なければいけなかったから、あまり大切にしすぎない癖がつきました。
お母様はいつも泣いていました。
私を産んでしまって、悲しかったのでしょう。
お父様は義務感で私のためにお金は惜しみませんが、もう他の所に家庭があるんだそうです。
「ユキ。お母様だけはあなたを愛しているの。わかる? だからあなたも私を、とっても愛さなければいけないの。わかる?」
白い手で、頭を撫でながらお母様は言いました。
はい、と答えて私は目を閉じました。
「愛しているわ」
「ええ、お母様」
愛? アイ。よくわからない。
でも、お外にはもう出ない。
どうせ、お日様の下で生きていられない肉体なのだし。
ある日、調子のいい夜。五歳ぐらいだったと思います。
知らない人がやってきて、私に服を着せて連れ出しました。
私はとても心配したのだけど、今は夜だし、どうしても、と。
紫外線に極端に弱い肌を守るために、厳重に真っ黒づくめにして、ちゃんとお鼻にお出かけ用のアクセサリーもつけて、私はすっかりご機嫌でした。
車で連れて行かれた先には、知らない人がたくさんいました。
皆黒づくめで、私を見るとはっとした顔になって、ひそひそひそ。
――気持ち悪い。白子じゃない!
――鼻のアレは何? ずっとああしていないと駄目なの?
――せめて男の子なら。待望の長男だったのに……。
――とんだ出来損ないを生んでくれたものだわ。
――おまけに最後は病んで首くくって。
――本当に一族の恥さらし。
不思議なのは、内緒話みたいだけど、明らかに私に聞こえるように喋っていること。
なんだろう? と思ったら、ぎゅっと男の人が強く私の手を握って。
そうして私は、お花の中に埋もれるようにして眠るお母様に会いました。
どうしたのかしら、と見つめてみると、私の手を握っている男の人が言ったのです。
「お嬢様。お母様は、疲れてしまって、だからずっと眠ることにしたのですよ」
「まあ。でも、わたしにはおかあさましかいないのに。もうずっと、おめざめにはならないの?」
「代わりに、この世羅が。お嬢様をお世話し、お守りします」
「あなたが? セラって、おんなのこみたいななまえね」
私が言うと、彼はきょとんと目を見張ってから、柔らかく微笑みました。
それは私が最初に見た、優しくて、親切で、思いやりに溢れた笑顔でした。
「世羅は名字ですよ」
「なまえじゃないの?」
「名前でもありますから。お嬢様が覚えやすいなら、俺はセラのままでいいでしょう」
「わたしはユキよ」
「存じております、唯希様。俺にできて、あなたの望むことなら、なんでも叶えてさしあげましょう」
私はよくわからなくてうまく言葉を返せなかったけれど、握った手の力強さはいつまでも覚えていました。
そうして、私はお母様と別れ、セラと出会ったのでした。
私はすぐ、いなくなったお母様よりセラの方が好きになりました。
だって、セラの方が、ずっと一緒にいてくれるから。
発作を起こしても、彼は心配そうに側についていてくれるのです。
お母様と違って、人形に八つ当たりもしない。
「セラは、くるしいことはないの?」
微熱の中で、そんな風に聞いてみたことがありました。
「苦しいこと、ですか」
「おかあさまはね、ほんとうはわたしが、きらいだったとおもうの。おにんぎょうのかわりに、わたしをばらばらにしたかったんじゃないかしら」
コホンコホンと咳を立てる私を宥めるように、大きな硬い手で撫でてから、セラはいつもの微笑みを浮かべました。
「セラはわたしといっしょにいて、くるしくない?」
「あなたの方がずっと、いつも苦しそうですし。それに……」
どうせ他に行く宛てもない。
俺はもう、いないことになっている人間だから。
そう言ってまた笑ったから、ああこの人も私と同じなのかしら、と思いながら目を閉じました。
それは寂しかったけど、嬉しくもあったのです。
私、誰かと一緒ということが、本当に少なかったから。
毎日薄暗い部屋で、与えられた端末やゲーム機がお友達。
動けない子供のための暇つぶし。
「お嬢様はお強いですねえ」
時々セラとも遊んだけれど、いつも私がコテンパンにしてしまって、彼はでも気持ち良さそうに負けるのです。
私の思うようにならない身体は、それでも九年間はしぶとく頑張り続けました。
だけど、九年目を超えた頃からいよいよ限界が来たらしく、眠ったまま一日以上起きないことも増えてきて、もう自分のお口で食事をしたのは何日前のことだったかしら、という頃になってきて。
ああ、いよいよ、終わるのかしら。
「わたしもお母さまみたく、ねむって目ざめないのね。そうしたら、セラはどこに行くのかしら。それだけが、心ぱいかも」
自分がそうなるだろうことは、もう何年も前からわかっていたけれど。
私に甲斐甲斐しくしてくれるセラは、私がいなくなったらどうするのだろう。
お外で、太陽の下で生きていくのだろうか。
それとも一人、私のいなくなったこの部屋にとどまり続けるのだろうか。
ふと心に一点浮かんだ染みのような不安をうわごとのように呟けば、あの人は私を撫でて、一言。
「どこにも行きませんよ。だって、」
続きの言葉は、覚えていない。
ピーッと一度、長く音がして。
あの時確かに、私の世界は一度終わったのだ、きっと。