異界への出立
結局この色黒のフード男が何者だったのか。
忠信の豊富な知識と教養はいくつかのヒントから当たりをつけるまでの道を敷いていたが、特定には拘らなかった。
悪魔だろうが、妖怪だろうが、都市伝説だろうが、神だったとしてさえどうでもいい。
ただ重要だったのは、神が忠信に人ならざる道と力を与えたことだった。
男は忠信に囁いた。
「きみの望みを叶える方法がある。その技術を持っている種族と仲介してあげよう」
忠信は二つ返事で了承した。
すると瞬きの間に見慣れた部屋が消え、彼は闇の中に連れてこられた。
停電ではない。場が変わったのだ、と彼は察する。
暗すぎて、ここが屋外か、建物の中なのかもわからない。
ただ、むやみに騒がず、変化をじっと待ち続けていれば、やがて薄暗い光が灯り、そこに吐き気をもよおす醜悪な姿が浮かんだ。
薄い赤色の甲殻類に似ていて、かぎ爪を持つ手を何本も生やしている。渦巻き状の楕円形の頭には突起物がいくつか生えているが、どこが顔に当たる場所なのかは常識的な人間には到底理解しがたい。膜でできた翼らしきものが見えるが、彼の知っている地球上のどの生き物の飛ぶ腕とも違う形状をしている。
一目でわかる。これは地球にいていい生物ではない。
忠信はピクリと眉を動かした。生理的な嫌悪に思わず。それから最も脅威となりそうな無数のかぎ爪に目を滑らせてから、頭部とおぼしき楕円に戻ってくる。
「目や口がなくとも意思疎通は可能なのですか? そうでないと非常に困るのですが」
一瞬の間の後、哄笑が響き渡る。
異星人はブーンと羽音を鳴らすような、耳障りな声で喋った。
「問題ない。とは言え、あえて人のために喋ろうなど珍しいことだから、聞き苦しいかもしれないが」
不快な音ではあるが、言葉は通じる。なので忠信も大丈夫だと応じた。
非常識的な見た目と現れ方をしていたにも関わらず、異星人は話のできる相手だった。
ユゴスという星を拠点とする彼らは、人の発生するより前からこの惑星で採掘作業を行い続けてきたらしい。
忠信も彼らの存在は聞いたことがあった。
とは言え、完全なフィクション、おとぎ話や都市伝説の類いとして伝わっている。
実際目にしても、その実在はどこかおぼろげで捉えがたい印象だった。
「人間の前に出てこないのは? 不必要で非効率的だから?」
「その通り」
脅威だからか、などという馬鹿げた問いを忠信はしなかった。
物語で語られていた事と、現実の印象。
彼らは人間より上位の存在だった。その気になれば駆逐も可能だろう。ただ、地球は基本的に彼らにとって出張先だ。ここに永住するならともかく、採掘のためだけに人類に手を出すのは、コストとリターンが見合わないのではないか――そう、忠信は推測する。
仲介のおかげか、それとも個人の興味嗜好なのか、この異星人は忠信に友好的なようだった。
フードの男の存在に対する疑問を、あえて口には出さない。
答えがあってもなくても、碌な事にならない予感がしていた。
それより忠信は、異星人達とビジネスの話をする必要があったのだし。
忠信は彼らの採掘作業を手伝う。
彼らは忠信に地球外の技術を教える。
契約は驚くほど容易に成立した。
ただ、忠信が終始冷静でいられたのは、これがあまりに彼が今までいた世界と乖離していた現象だったためなのかもしれない。
あるいは、どうせ夢なのだ、そして夢だとわかった瞬間に自分も永遠の眠りに就こう、と割り切っていたからこそ、異星人との交流を円滑に進められた、そんな面もあったのだろう。
正直に言えば、半信半疑。
面会の終わりを告げる言葉と共に視界が闇に沈んだときも、このまま二度と目覚めずともいいとすら思っていた。
無気力状態から気が変わったのは、意識を取り戻してからだ。
忠信が瞼をゆっくり上げてみれば、見慣れた薄暗い部屋にうつ伏せで倒れていた。
彼は身体を起こし、何気なくベッドを見やる。
事切れた主の白い手が、だらりと端からはみ出てた。
なんとなくその先を追って、彼は大きく目を見開く。
見慣れた空間に、見慣れないものが一つ。
それは円筒形の器だった。
上下には銀色の蓋がされていて、どこからか伸びている無数の電極が突き刺さっている。
透明な側面から見える中には液体が満たされ、ぷかぷかと小さな脳が、漂っている。
恐る恐る、這うようにして歩み寄り、器に触れた瞬間、ささやかな脈動を感じることができた。
忠信は咆哮した。
負の感情ではない。
歓喜だ。驚喜だ。身体の快感が弾ける感覚は、自慰で絶頂した時にも似ていた。
円筒に触れると同時、頭の中に情報がなだれ込む。
基本的な使い方。
維持方法。
注意事項。
作り方。
コンタクトを取る方法――。
セラ?
触れた手から、寝言のような囁き声が這い上って来た。
唇から溢れた涎を拭ってから、彼は囁く。
「お嬢様。聞こえますか?」
直後湧いた不安も、すぐさま喜びに塗り替えられる。
少女は変化に肯定的だった。
何しろ徹底的に無知なのだから、照らし合わせる一般を知らない。
不自由なだけの身体を脱ぎ捨てた主は、初めて心の底から幸福を味わっていた。
彼はその残滓を舐め取り、むしゃぶり、それで満たされる。
珍しく高揚感は余計なことも口走らせたが、無知な少女は異星人との取引など理解できようもない。
脳は管につながり、管は世界中の配線に繋がっている。
自由であることは、幸せだ。
大はしゃぎするご主人様の最初の門出を見守ってから、忠実な下僕はそっと仕事に出かける。
異星人は約束を守った。
今度は忠信が彼らを満足させる方だ。
スマートフォンを取り出して、電話をかける。
「お嬢様が亡くなりました。葬儀の手配を」
あ、それと。
彼は直接やりとりを交わす相手に何気なく付け加える。
「最期ですから、旦那様に看取っていただくことは可能ですか?」
――別に。
式場に来なくても、いい。手間が多少増えるだけ。
必要なのは脳みそだけだ。
膨大な資産――その中には、異星人の欲する採掘現場も混ざっている。
その情報がほしい。ただ、それだけ。
ああ、いや。どうせだから一筆書いてもらおうかな、と青年は考える。
だって元々、親が死んだら遺産は子供に行くのが当然なのだ。
内縁の妻ではなく、正式に婚姻関係を結んだ妻の子供のところに。
そう、ついでだから、この際邪魔なものを整理しよう。
電話の相手が保留を解除するのを待ちながら、忠信は手元の書類を片手で漁る。
身辺調査の報告書には、彼が崇拝する相手の血縁関係者がまとめられている。
さすがに全員は無理だ。数が多すぎる。残念な事に日本の警察はそこそこ有能でもあるし。
じゃあ、誰を間引こうか。
――もちろん、異母兄弟の血は一滴も残さず葬り去るとして。
思案する表情は、あくまで穏やかで、朗らかであった。