外の理
世羅は歴史に残るような凶悪事件を起こした組織だ。
当然、怪しげな物品などは全て押収されている。
主要幹部が逮捕されたことで輝きは失ったが、今も名前を変えてひっそり活動している信者も存在していると聞く。
……というより、そういう者達から童師は度々接触をはかられていた。よくまあ毎回場所も名前も変えているのに頑張って追いかけてくる、と呆れた記憶はまださほど古くはない。
おそらく少年を監督官する名目を得ていた大人達の誰かが内通者なのだろうな、と目星はついていたが、放っておいた。
金欠の未成年に一体何ができると言うのだ?
生まれが忌まわしすぎて、親戚に引き取られるという選択肢すらなかった少年に。
あの家の記憶には碌なものがなく、出てくる時は晴れ晴れした気持ちにすらなったほど。
様子を見に戻る義理もない。
死刑囚となった父母には義務的な手紙を年に一度書く。
戻ってきた便せんは全部読まずに裂いて燃やしているが、こういまいちがんとはねつける拒絶感がないから、ぐるぐると絡みついた縁がなかなか解かれなかった、その自覚すら少年には在り続けた。
なぜ強く反抗しなかったのか、と問われれば、彼は薄く口元を緩め、目尻をほんのり下げて答えるだろう。
「そこまで興味が持てなかったから」
憎しみも、嫌悪も、反応の一つ。
どうでもいいと思っている相手には、抵抗するなんて選択肢、そもそも出てこないのだ。
忠信は徹底的に生家の――というより自分をとりまくあれこれに無関心で、無感情で、無感動だった。
それがなぜ、死に損ないの女にこんな強い興味を抱いているのか。
自分でも甚だ不可解だ。
いや、ある程度理屈はできている。
つまりは、求められることが承認欲求を満たしているのだ。
忠信は己を外側から眺めて感想を抱く。
では、信徒達と一体何が違うのか?
それは本当に紙一重、ともすれば区別なんてつかないほんの些細な差だ。
ご主人様には、打算がなかった。
たとえば童師を崇める者の目に浮かぶ、見返りを求める卑しい光が一切存在しなかった。
ただ、ただ、あるがまま、彼女には忠信しかおらず、忠信が手を離せばそれで終わる。
そして忠信が手を離しても、太っ腹な雇い主は咎めまい。快哉すら上げるかもしれない。
忠信のみを必要とする、忠信からしか必要とされていない存在。
いかなる言葉をもってしても、この者を表すことはできない。
強いて言えば、それは愛おしさに似ている。
ただ、愛と呼ぶには醜悪すぎた。
憎悪と呼ぶには不快感が足りない。
だから忠信は、自分は彼女を愛していると言葉にするしかない。
全くこの感情と関係について本質的ではないと思うが、それぐらいしか近い言葉がありえないのだから。
さて、ほの暗い己の内省のきっかけとなった過去の記憶は、忠信に一つの可能性を提示したことにこそ意義があった。
――オカルト。
それは現代、科学によって駆逐されたかに見えて、未だ強く人にはびこる信仰の祝福である。
そも、もとより人間は主観的な生き物だ。
どれほど事実に基づこうとしたところで、脳で切り取る世界に真の意味での客観性などありはしない。
人が生来理知的な生き物と言うのなら、とうの昔に似非医療の類いなど滅びておかしくはあるまい?
現実はどうだ。
科学的に、輸血やワクチン、専門家の指導による投薬を勧めたところで、一体何人の人間が素直に従っている?
忠信が思い出した重要なことは二つだ。
所詮人間は自分の見たい現実しか見ない。
そして、科学以外にも救済と宗教は存在する。
正直な話をしよう。
主が一般的な意味で存命と呼称されるべき状態であった頃は、長時間離れる訳にもいかず、忠信は密室につききりでいる必要があった。
遠出をして、帰ってきたら冷たくなっていましたなんて事があったら耐えられない。
力及ばずとも、せめて必ず最期は看取ると決めている。
この子供が最期に目にするのは、忠実なしもべの微笑みでなければならぬ。
彼女は苦しげな呼吸の下で目と手をさまよわせ、「セラ」と安堵するように吐き出して息を引き取るのだ。
忠信にはその情景がはっきりと見えていた。
だからこれ以外の未来はない。
彼は移動を制限されたが、かつてないほど資金を与えられていた。
それが一つの助けになった。
金で色んなものが手に入った。
彼が最も欲したのは情報だ。
インターネットで何でも手に入る、問題はその質である。
伝手はなかったが、忠信には見る目はあった。
これ、と思うものを見定めて、注力する。
それを繰り返し、細い糸を手繰った。
白い部屋。
白いベッド。
白い服。
セラ、と少女が囀り、心音が止まる。
彼はその未来を知っていた。
そこに向かって突き進み続けた。
そうして、その時はやってきた。
忠信はいくつかの根拠ある科学と、いくつかの無価値なオカルトを頼りに懸命に戦ったが、ああいよいよその時だ、間に合わなかったのだと小さな手を握りながら思った。
「わたしもお母さまみたく、ねむって目ざめないのね。そうしたら、セラはどこに行くのかしら。それだけが、心ぱいかも」
賢しげに、愚かな少女が夢現、呻いている。
彼は苦笑した。あるいはそれは、聖母のごとき穏やかな微笑だった。
「どこにも行きませんよ。だって、」
あなた以外にセラを必要とする者はなく。
セラが必要とするのは、ただあなただけなのだから。
弱々しく刻まれていた電子音が、ピーッと一つ。
忠信は俯いた。
涙は出なかった。
ただ、セラ、と何度も嬉しそうに歌っていた、その唇がもう、動かないのだと。
――ところが感傷に浸ることはできなかった。
インターフォンが連打された。
舌打ちし、モニターを確認しにやってきたところでふと彼は違和感を覚える。
主人ことユキのいる部屋は、一切外界との接触を拒む構造をしている。
外の客人が彼女の存在に気がつく必要はなく、また内側の彼女が訪問者を知る意味もない。
だから、セラがよく待機するために侍っている続きの間だとか、セラ自身の部屋だとかなら、問題がない。
なぜ、ユキの部屋で音は聞こえたのか。
ふと目にした壁掛け時計は午前2時を少し過ぎた所を指している。
丑三つ時、なんて単語が脳裏をそっと横切った。
しかし、ここで物怖じしないのが忠信だ。
ふ、と鋭くした目をモニターに止める。
玄関前には黒づくめの、いかにも不審者でしかない男が立っていた。
目深に被ったフードからのぞく肌は浅黒く、真っ黒な羊のぬいぐるみと小さな小箱を小脇に抱えているらしい。
「きみ、きみ。お困りだろう?」
口が孤月に描かれる、その動きが奇妙に瞼にこびりつく。
「きみのおうちはとんだ大馬鹿ものだったが、一周回って大騒ぎを起こしてくれたから、多少の無聊にはなったかもしれない。聞けばその縁ある子どもが、助けを求めて古今東西四方八方、神に縋る勢いで奇跡を探し求めているとか」
瞬きすれば、モニタは真っ黒になっていた。
訪問者がいた形跡など、忘れ去ったかのように。
そして、麗しくも人の心を逆立たせるような声は、いつの間にか忠信の背後――部屋の真ん中の辺りから、聞こえてきているようだ。
「私に奉仕してみるかい? うんと言ったら、助けてあげよう。暇つぶしの一つに、弄んであげよう」
彼はあえて振り返らなかった。
女の誘惑よりずっと柔らかく触れられてから、黒いモニタを見つめたまま青年は息を吸う。
「俺が奉仕するのは、一人だけ。二人の主はいらない」
身体に震えが走る。
それは男から伝わる、笑いの余波であり――同時にセラが、この世ならざる者に魅入られた瞬間であった。