背教者の教示
無菌室で育てられた人間は綺麗と言えるのか?
整っている、それもまた異形の一種である。
整い方が過ぎているなら、なおのこと。
世羅は少女にあらゆる感情が湧き上がるのを知った。
その多くは、自分より劣る彼女に対する憐憫に起因していた。
「セラ」
無知は世羅を認識しない。
彼女にとって、男の名前はたとえば飼い犬につけるお洒落な横文字と大差なかった。
例えばそれは発音に現れる。
世羅は一音目より二音目が上がる発音。飴と同じ。
ところが少女は、セラと呼ぶ。一音目の方が高い、雨の言い方で男の名を口にするのだ。
「セラ」
「はい、お嬢様」
なるほどこれが犬の気持ちか。
無条件で向けられる思慕は心地よかった。
くすぐったさに最初は耳の裏を掻くのがやめられなかったほど。
セラは彼女の専属係に任命された。
雇い主から端末を渡され、それで業務連絡をする。
それ以外のあらゆることが、セラに丸投げされていた。
いつ発作を起こし、喉を詰まらせるかもわからない女児と二人きりの空間。
嫌でも、苦でもなかった。
泣きわめくことすら命がけだった赤ん坊は、大人しく、穏やかで、わがままで大人を困らせるには圧倒的に体力不足だった。
「セラは、ゲームは、すき?」
「はあ、ゲームですか」
彼女がつながれているあらゆる管の点検を行い、食事を与え、会話をする。
無菌室の住人は、病魔を警戒する概念を持たなかった。
少女は男にコントローラを手渡し、「たいせんができるわ」と笑って大きなモニターの前に座る。
いわゆる落ち物ゲームという奴だった。
読書は好きだったが、ゲームにさほど縁のないセラは、まず操作方法がわからずにコテンパンにされた。
「セラはゲーム、しないの?」
「はあ……まあ」
「わたしのほうが、ひとつとくいなのね」
くすくす笑う少女に、曖昧な返答をする。
作業をするなら読書の方が暇つぶしとしてコストパフォーマンスがよいし、彼はあのゲーム特有の、やり直しが利くだとか、選択肢が存在するだとか、そういうものがどうにもしっくり来ないのだ。
虚構を虚構として楽しむ、それは小説にも通じる。
ただ、所詮は制作者が敷いた所しか歩けないだけの道を、さも己で築いたかのように錯覚させる。
あのこざかしい仕組みが、どうにも生家の馬鹿馬鹿しさを想起させて、没頭を阻んだ。
他にキャラクターを育てるゲーム、格闘ゲーム、レーシングゲーム等々。
少女が楽しそうに語る。それに無粋な横やりを入れるほど、セラは幼稚でもなく、また業務内容に不適切な態度であるとも心得ていた。
頭を掻き、柔らかな苦笑を満足げな少女に向け、青年は唇を薄く開く。
「お嬢様。文字は読めますか?」
彼が気にしたのは、少女が遊ぶのが児童向け――文字がなくても、なんとなくわかるものが多かったためだ。
テキストが読めれば、幅が広がる。
その方がいいのではないかと、なんとなく考えた。
「どりるがあるの。おかあさまがね、せめてそのぐらいは、って」
彼女は室内のキャビネットを示した。
言われて探れば、確かに教材と筆記用具の類いがまとめられている。
「きちんとお片付けされていますね」
「そうしないと、おかあさまがひどくおこったから……」
もじもじ手をすりあわせる少女に、男は嘲る笑みを浮かべた。
少女にではない。この出来損ないを、できる限り人並み以上にしようとして首をくくった、馬鹿な女に対してだ。
「セラは、お嬢様をぶちませんよ」
「ほんとう? おにんぎょうも、こわさない?」
「はい。ただ、お片付けができるのは、素晴らしいことですから。続けられたら、何かご褒美をあげましょう」
「ぬいぐるみをもうひとついただいても、いいの?」
「はい……今日のお勉強が終わって、お部屋が綺麗にできたなら」
資料から察するに、母親は定期的に癇癪を起こしたようだ。
セラが同じ事をすることはない。何しろ少女に期待をしていないから怒りようがない。
ただ、何もしなくていい、という甘やかしはしなかった。
できることが一つでも多いのはいいことだ。
それはきっと、少女にわずかな生きる意味をもたらすだろう。
青白い頬に喜色を浮かべ、おぼつかない手つきで準備をする。
この愚鈍さは、たぶん愛しい、と呼称するものだ。
セラはそう理解し、少女のささやかな努力を穏やかに見守り続けた。
机はベッドの上に出す。食事も勉強もそこで行う。
義務教育の年齢になっても、日光の下を歩くことができない少女に、まともな就学が望めるわけもない。
勉強の面倒も、おそらくは自分に一任されるのだろう。
大人しく、部屋の片隅で自ら広げた課題をこなすか、さもなくば一人で可能な遊戯に没頭するか。
自分の映し鏡を見ているような気分でもあった。
けれど、忠信ならば気が向いたときに、ひっそり信者達の目をかいくぐって外に遊びに出て、誰にも悟られぬうちに戻ってくることも可能だった。
少女には外がない。
部屋には少女のためだけにあつらえられたのだろう、小型の自転車を模したトレーニング機械や、ウォーキングマシンがあった。
時折彼女は、バーチャルで表示されるスクリーンの森を心地よさそうに眺めながら、散歩をする。
「セラ、おててをつないで。きょうはね、イーストグリーンにいくのよ」
息が上がらない程度。チューブが外れることのないように、気をつけながら。
セラの背は人並み以上に高かった。
未熟な女児と合わせるには、身体をかがめる必要がある。
同じ姿勢でいれば時折腰が痛んだ。
ただ、少女が痛みとすら感じられていないだろうあらゆる刺激を思えば、全く苦とは思わなかった。
「セラ、セラ……いきが、」
「お嬢様、大丈夫です。さ、ゆっくり吸って……」
病弱な身体は度々発作を起こした。
大抵は、酸素が充分取れる状況を整えてやって、隣にいてやれば落ち着く。
セラは動じなかったから、少女の信頼は深まった。
医者は定期的に、あるいはセラが呼べばやってくる。
大抵は、少女が寝ている間。
生前の母親は、自分の不徳の塊が人目に触れることを大層嫌がった。
それに、何度も自分の身体にあらゆるものを刺す人間を、あまり少女は歓迎していなかった。
よくなるとわかっていれば、やりがいもあろう。
だが、少女になされている措置とはほぼターミナルケアだった。
弱すぎる身体は、既になんどかつぎはぎを試みている。
それでも成人はできない――まあ十歳が限界だろうというのが、彼女の現実らしかった。
たった数年。それだけの間の仲。
セラは少女が起きている間は彼女の側に影のように控えて手足にも遊び相手にも教師にもなり、彼女が寝入れば自分の勉強に時を費やした。
制限のない読書は女児を看取る報酬の一つである。
いつの間にか、あるいは最初から。
セラに与えられた部屋と、彼の端末には、いつの間にか身体を治す種類の本が積み上がっている。
「わたしのからだが、あとちょっとでもじょうぶだったら……」
「だったら、どうします?」
「セラとおさんぽにいくの。ほんとうのもりに」
夜更けに、端末のページをめくりながら、彼は口元を歪める。
知識を積み上げるほど、現代の医学では彼女を幸福に延命する方法が存在しないことが突きつけられる。
ふと、目が止まる。
たまたま毒物の話題で、コラムにはかの有名な事件で使われた毒の成分の詳細が記載されている。
一心不乱に拝み倒す信者の群れ。
その真ん中にいた父。
――なるほど、これほどに呪詛が甘美な蜜ならば、愚衆の真ん中で自分もろとも地獄送りにするなど、造作もないことだ。
彼らの高揚を、快楽を理解した。
セラはそう、酔っていた。
自分に懐き、甘え、必要とするしかない、主の可愛いおねだりに。
そして、世間の忌避の目を失って紐解かれゆく世羅の記憶は、彼に色々と忘れていた過去を思い出させた。
たとえば、そう、世羅の家の蔵。
そこにあった、おびただしい数の、怪しげな呪い道具の数々を。




