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奈津子17歳  作者: 泉 紫影
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−理論物理学者である親友の父との淡い恋−

奈津子17歳 前編

下村奈津子24歳。福井県の小さな大学で分子細胞生物学講座の実験助手をしている。仕事が終わった後、砂浜にたたずみ、水平線の向こうに沈む真っ赤な夕日を眺めに毎日ここにやってくる。時には打ち寄せる波が足下を濡らすが気にも留めない。

彼女には今年1歳になった息子がいる。息子と一緒に海を眺め、夕日が沈むのをじっと眺めていると心が落ち着く。今日も愛用の草色の軽乗用車でここまでやってきた。

大学での仕事は5時に終わる。時間通り仕事を切り上げ、息子を保育園に迎えに行く。保育園は大学の敷地内にある。保母さんから我が子を受け取る時、成長の速さを体で感じる。最近めっきりあの人に似てきたと思う。顔つきも仕草も。

あの事件以来、両親とは疎遠になっている。一度だけ母がこの子のことで訪ねてきた。その時、余りに衝撃的なこの子の出生の秘密に愕然とし、それ以来2度と訪ねてこない。

でもこの子の顔を見ていると、あの青春の甘酸っぱい思い出と余りに悲しい出来事が走馬燈のように脳裏に浮かんでくる。

自分のために悲惨な人生を送らせてしまったあの人。この子を立派な学者にしてあの人の跡を継がせることが今の彼女の夢。子供を抱いたとき、この子のぬくもりが過去の記憶を呼び覚ます。なるべく思い出さないようにしているが、あの人のことが自然に頭の中に浮かんでくる。できるならばもう一度会いたい。会いたい。


奈津子12歳 小学6年生。

下村奈津子と犬養弘子は小学校からの幼馴染み。仲がよくいつも一緒に遊んでいる。

弘子の父勇作は京都にある有名大学の新進気鋭の理論物理学の准教授である。

彼は比較的痩せ型、長身であるが、どちらかというと学者にありがちな身なりを気にしない田舎くさい風体で、よれよれのネクタイを着け、今時珍しい黒縁の円形レンズの眼鏡をかけている。最近頭髪が少し薄くなったのを気にして、よく頭髪をなでる。弘子は犬養家の一人娘で、両親の愛情をいっぱいに受け育っている。


妻からいつも

「あなたは机に座り勉強ばかりしていて、何がそんなに楽しいの。たまには家の仕事ぐらい手伝ってよ」と文句ばかり言われている。

彼はそんな非難も意に介さずいつも書斎に閉じこもっている。彼は学問をすることが人生最大の楽しみで、現在の境遇に満足している。


奈津子は小学生にもかかわらず、スタイルもよく、細面の顔にくっきりとした眉毛、鼻筋の通った理知的な顔をしている。

肩まで伸びた黒い長い髪が風になびくことがあり、そんな時、彼女は異性からの視線を鋭く感じる。時には背後からも。階段を上る時、後ろからの男性の視線が自分の足からスカートの辺りにあるのがいつも気になるので、常に長いスカートをはいている。しかしどこか陰があり、友達とも余りしゃべらない。でも弘子は何でもしゃべれる数少ない友達である。


普通の女の子であれば、異性からもてることは最大の願望のはずであるが、彼女の場合は父親譲りの美貌をむしろ嫌っていた。

奈津子の父は一流銀行に勤めており、その頃すでに支店長に昇格していた。

母は結婚前、中堅の商社に勤めており、融資の関係でその商社に訪れた父が一目惚れで彼女を口説き落とし、電撃結婚したと兄から聞いていた。でも父は多忙のため帰宅が遅く、いつも母が奈津子の話し相手になっている。こんな母を奈津子は慕っていた。兄は10歳も年が離れ、今は東京の大学で下宿生活をしているのでほとんど話すことはない。


ある夜、昼寝をしすぎたのか、寝付きが悪く、寝床で考え事をしていると、父と母が大声で喧嘩をしているのが耳に入ってきた。両親は彼女が眠ったと思っていたらしい。両親の大きな喧嘩の声が奈津子の神経を逆なでた。

どうやら父は同じ職場の部下の若い女性とまだつきあっているらしい。父は何かを彼女にプレゼントしてやったらしく、そのレシートが父の背広のポケットから出てきたのでそれを見て、母は父に問いただしている。父はそんなに大声を出すと娘が起きるから静かにしゃべれと母に言っている。母は我慢できないらしくそれでも大きな声をして怒るのをやめない。

父の浮気のせいか母は最近少しやつれてきた。小学生の奈津子には両親の不仲は精神的にかなり重くのしかかり、それでなくとも不安定な思春期の彼女の精神を一層不安定にした。


奈津子は以前に父がデパートでその女性に高級ブランドのバッグを買ってやっているのを偶然目撃したことがある。物陰に隠れたので、2人には気づかれずに済んだ。

「父に甘えて、いやな女」と思い、その場からそっと離れた。忘れようとしても脳裏にやきついて離れない。確かに父ほどハンサムで地位もあれば浮気もしょうがないと小学生の奈津子も少しは納得したが、母を苦しめる父が許せなかった。

「不潔な父。男の人ってみんなそうなのかしら」

その父に自分は似ている。小学生の奈津子にとり、そのことが許せなかった。


異性からもてることを避けるため、できるだけ地味な紺や黒の衣服を好んで着る。母はそんなとき

「もう少し女の子らしい格好にしなさい」と注意するが、その訳を母には言えない自分が辛かった。

このことから逃避するためか、ことさら本をよく読むようになった。


読書量が多くなるにつれて、次第に知的好奇心が高まり、身の回りの様々な事柄総てに強い興味を示すようになった。いつも物事に極端なまでに疑問を示し、

「なぜそうなるの。なぜ?なぜ?」を納得するまで繰り返す。

幼児が成長過程で身の回りの何にでも興味を示すが、彼女の場合、豊富な読書量に裏付けられた疑問が次から次へと湧き出てくる。とことんまで納得できないと気が済まない。不満を通り越して、精神的に不安定になる。

「お月様はなぜいつもこちらを向いているの。なぜ落ちてこないの」

母も最初のうちは娘が色々なことに興味を持つのはよいことだと考えていたが、最近の娘の余りにしつこい態度に少し不安を感じ、担任の先生にも相談した。先生も疑問を持つのは創造性を養う上でむしろ素晴らしいことなのでその素質を伸ばす方がよいとアドバイスをくれた。母も納得したが、最近では

「なぜ?なぜ?」をもてあまし、最後には諦めて学校の先生に聞いてと言う。奈津子は学校の先生に聞くが教科書に書いてあるような通り一遍の返事しかないため、欲求不満がつのる。十分に納得できない時はそれが偏頭痛に襲われるほど重症であった。


そんな時はいつも弘子に

「頭が痛いの」と不調を訴えていた。

そんなある日、弘子は

「うちのお父さんに聞いてみたら」と提案してくれた。奈津子も仲良しの弘子のお父さんのことだから大学教授である勇作に会うことに余り抵抗はなかった。ある休みの日に弘子の家に遊びに行き、勇作に初めて会った。

弘子は父に奈津子のことを事前に知らせており、彼女の疑問に答えてくれるように頼んでいた。勇作もかわいい弘子の仲良しの友達でもあり、そんな疑問を持つ子供に興味があったせいか、仕事を中断して応接間に出てきてくれた。

奈津子は初対面の勇作にこれまでたまっていた疑問を一気にあびせた。

「なぜ世の中は景気のいい時と不景気の時が交互に来るのですか。それと今、みんな仕事がなく困っていますが、予想できなかったのですか」

「なぜジャンボジェット機は船のように重いのに、空に浮かぶのですか」

勇作は子供にもわかりやすいように図を使って丁寧に教えてくれた。

こんな時、奈津子は納得し、さわやかな解放感に包まれた。


その後も弘子の家に遊びに行く度に勇作に質問をするようになった。

勇作も奈津子の質問に気楽に乗ってくれる。彼は普段は陽気な性格で、冗談ばかり口にする。

「吉本のお笑いタレントの誰かに似ている」と奈津子はふと思った。

しかし、机の前に座り、真剣に考える時の勇作の顔つきは、お笑いの顔から一変し、全く別人になる。哲学者のような形相。怖いぐらいの集中力。でも考えている時の、ふと、垣間見る幸福感。そんな横顔が奈津子には新鮮だった。


「自分のお父さんには決してない顔」と奈津子は思った。

面白いことに、彼は考える時はいつも大判のノートと鉛筆を横に置き、アイディアらしきイラストをすらすらと描き、時には数式らしきものを書き、最後に日付も入れる。鉛筆の芯も書いている間に丸くなってくると、わざわざカッターナイフで丁寧に削る。

ものには無頓着な勇作だが、ノートと鉛筆にはかなり凝っている。

「先生はいつも鉛筆を使うのですか」奈津子はある日尋ねてみた。

「そう。三菱ユニのBと決まっているのだよ。これ以外は何か落ち着かない」

「なぜ鉛筆削りを使わないのですか。時間の節約にもなるのに」

「円錐型に削られるのがいやなんだ。ナイフで削ると木彫をしているようで。ちょうどよい握り具合に削るんだ。削った筋が少なすぎると指が痛いし、多すぎると円錐に近くなる。ちょうど最適な削り具合があるんだ」

彼は気忙しそうに鉛筆を削りながら彼女の疑問に答えている。

「少しでも考える時間を増やしたいのかな」とふと彼女は思った。

「ノートはいつもこれを使うのですか」

「罫線間隔7mmの真っ白い紙だよ」

「パソコンで書くことはないのですか」

「色々なアイディアをあれこれと考える時にはパソコンは使わない。鉛筆の木の柔らかい感触が気持ちを落ち着かせるんだ。黒鉛の芯と紙との滑りが想像力をかき立てる。この一枚の紙の上が私の宇宙なんだ。すべてのものが詰まっている。ある時はノートがアイデアを自分に教えてくれる。生きているようだ。」

勇作はほほえみながらしゃべっていたが、急に険しい顔になり、

「最近の学生はパソコンに頼りすぎて、余り考えない。最近はかなり複雑な式の変形もパソコンでできる。でも自分で苦労して計算している途中でよいアイディアも出るし、苦労する分、研究に愛着も湧く。最近の学生は学問への感動もない」勇作は常日頃の不満を奈津子にぶつけた。

「でも学校の先生はパソコンは必要だからと言って、使い慣れるように教えてくれるし、授業でもしょっちゅう使うわ」奈津子は少し勇作に反抗してみた。

少しずつ勇作との距離が近くなってきたせいかも知れない。またこれまで学校で教えられ、自分もそう信じてきたことと、勇作が全く逆のことを言うので、少し不安を覚えたせいもある。

「そう。奈津子ちゃんの言うように現代生活には欠かせない。社会人になれば会社でも必要だから。早く覚えて活用しなければだめなんだけど」

そこへ弘子が戻ってきた。

「何の勉強をしていたの」弘子は父親のいつもと少し違う雰囲気が気になった。

「勉強の方法を習っていたの」奈津子は詳しくは答えなかったが、勇作の言葉に不思議な響きを感じた。もっと聞きたかったが、弘子が算数の問題を勇作に聞いているのでその機会を逸してしまった。

「紙と鉛筆だけで満足感が得られるなんて。弘子のお父さんはパソコンも携帯もいらないのかしら」自分の父の生活からあまりにもかけ離れた世界が不思議だった。でも今まで別世界に居た学者に興味が湧き、自分もそうなってみたいという気持ちが小学生の奈津子に芽生えてきた。


一年が過ぎ、2人は同じ地区の公立中学校に進学した。

中学校でも2人は仲のよい同級生徒であり、いつも勉強を一緒にしていた。

相変わらず奈津子は地味なファッションを選び、余り目立たないことを心がけている。

しかし、色白の美貌はむしろ地味な色とコントラストが激しくつくせいか、その美貌をますます高めていることに本人は余り気づかなかった。

弘子もそれなりにかわいい女の子であり、奈津子とは逆によく目立つファッションを好んだ。

性格は一見大人しそうな奈津子の方が気性が激しく、一方、弘子はおっとりとしているが、いつも笑顔を絶やさない。そのため同級生の男子生徒からは弘子の方に人気があり、弘子もいつも奈津子に対する優越感があった。奈津子は競争する気持ちは全くないので、むしろそのことが2人をいつも結びつけた。

同級生の男子学生の間でも2人は人気があり、奈津弘という愛称で呼ばれていた。


中学生になってから、奈津子の疑問の気持ちはますます強くなる一方であった。休みの日には弘子の家に必ず行き、勇作に質問をした。勇作は奈津子の疑問に忙しい時間を割いて丁寧に答えることが楽しそうにすら見えた。奈津子も弘子も勉強はよくできたので、中学校の授業は内容では物足りないぐらいであった。

ある時、先生が理科の授業で太陽歴のことを教えてくれた。太陽歴は月によって日数が違い、2月だけがなぜ28日でそれも4で割り切れる年は29日になり、さらに100で割り切れる年は4で割り切れても28日になるかがわからない。

授業中、先生に聞くと、高等学校の地学で習うので、今はそのように覚えなさいと言う。何度も何度も聞くので先生が怒り出した。

また

「虹はなぜ7色に分かれるの?なぜ連続ではないの?虹の形はなぜ丸いの?なぜ雨の後だけに現れるの?なぜ消えるの」学校の先生も両親も答えてくれない。インターネットで解説は見つかるが、納得できない。

水滴がプリズムの働きをして色が分かれるのはわかるけど、なぜ連続に変化しないの。それに虹が弧を描くのも分からない。奈津子は疑問が解決しない場合、それが積み重なると、頭痛に加えて吐き気やめまいがするほどひどい状況になるときがある。考えなければいいと友人は言うが、父の浮気を忘れたいという潜在的な気持が、疑問を次から次への彼女の心に投げかけてくる。

そんな苦しいとき勇作は紙に書いて丁寧に教えてくれる。

暦は太陽の周りの地球の公転と自転の関係から、虹は丸い円の中で波長の違いによる光の屈折率の違いから起こることを図を書いて丁寧に教えてくれる。

奈津子はそんなとき脅迫観念から解放され、精神的な安堵を覚えた。


「弘子のお父さんって何でも分かるのね」

「それが商売だから」弘子は素っ気ない。


奈津子は勇作に対し次第にある種の畏敬の念を抱くようになった。中学生の奈津子にとり、近寄りがたい神様のような存在になった。近寄りがたい雰囲気とこんな何でも知っているやさしい父がいればいいなという願望とが入り混じった複雑な感情に、自分でもとまどった。


勇作は考えることがいつも楽しそうに見えた。ある時勇作に聞いてみた。

「先生は解けないぐらい難しい問題に当たったとき、楽しいのですか」

「物理の研究でも新しい問題を考える時は恐怖で足がすくむよ」意外な返事が返ってきた。

「まず山のような数の論文を読破しなければならない。簡単な問題はたいてい誰かがしている。残っているのは解決するのに何年もかかるような気の遠くなるような問題ばかりだ。目の前にそそり立つ垂直な絶壁だ。とっても登れそうもないと諦めるか、思い切って登るかだ。途中でだめになりそうだという恐怖に襲われる。奈津子ちゃんと似ているかもしれない」勇作の奈津子に対する呼びかけも親しみが自然に込められてきた。

「先生でも恐怖を覚えるのですか」奈津子は安堵のため息をついた。こんな苦しい思いをするのは自分だけではないと思ったから。

「そこに山があるから登るのですか」

「登らざるを得ないんだ。登らなければ競争に負ける。学者として生きる価値さえなくなる。ものすごいプレッシャーだよ。プレッシャーに負けて精神的におかしくなる人もいる」

「なぜそこまでして、研究に打ち込むのですか」

「成功したときのほんの一瞬の絶頂感を得たくて」

その後、勇作は少し気まずそうな顔をした。絶頂感という言葉を中学生の奈津子に使ったのを少し恥じた。奈津子にはまだ知るには早い言葉だった。

そんな言葉の問題よりも、苦しむのは自分だけではないんだという共感を覚えた。考えることが楽しそうに見える先生でもそうなのかと妙に納得した。この日から先生は雲の上から自分と同じレベルに降りてきた。少なくともそんな気持ちが奈津子の心に芽生えた。

雲の上の人が自分に近づいてくる。奈津子の心は躍った。


奈津子は周りの女子学生と少し違い、英語や文化系の科目は余り興味がわかなかった。

しかし教育熱心な両親から、英語だけは国際化に対応するために是非必要だと、常日頃からいわれていたので、週に3回、英語塾に通っていた。外人講師が多くいる京都でも有数の塾である。しかし英語の決まり切った文章やテストに必ず出る問題の反復練習を繰り返すだけだ。特に最近はスピーキングが重視される。なぜ英語を勉強する必要があるのかそれも分からず、ますます英語嫌いになってゆく自分が悲しかった。

ある時勇作に聞いてみた。

「英語の勉強方法はどうすればよいのですか。そもそも英語が必要ですか」

「英語は日本が世界の人とつきあうために共通語として必要だけれど、無理して喋らなくともいいんじゃないかな。英語は馴れだ。外国に住めば誰でも喋れるようになる。今は喋ろうとしても話題がない。話題がないから、喋ることができない。悪循環に陥ってしまう。今の英語教育はそんなことを教えない。もちろん基礎は大事だけど。そう、旅行をして旅先で色々な感動できれば一番いいな。外国人は旅行が好きだから話題には事欠かない」学校での先生の授業の方針と全く違う勇作の意見に奈津子は少しとまどった。

「特に欧米人は旅行が好きだから、そんな話題があれば乗ってくるよ。余り堅苦しく考えない方がいい。しゃべるための話題が一番さ」

奈津子は勇作のこの説明にほっとした。

同時に自分の心を傷つけないでおこうという彼の思いやりが無性にうれしかった。学校では最近英語はヒアリング、スピーキングの技能向上がやかましく言われる。そのため友達は一生懸命CDを聞いたりして勉強しているけれど、奈津子にとって興味のないことに時間を割くのが苦痛だった。そんな時間があれば数学や理科の勉強に集中したかった。


奈津子はよく勉強したが、中学生になり、小学校の時よりも更にわからないことをとことんまで回答を求め、追い込み苦しむ姿を母が心配し、遂にある日いやがる彼女を無理にメンタルクリニックに連れて行き診察を受けさせた。最初に簡単な受け答の心理テストを行い、診察結果をカウンセラーから聞かされた。

「少し冷たい感じのする余り愛想のよくない先生だな」と奈津子は思った。質問も機械的だし。

カウンセラーは思春期特有の非定形鬱病ではないかと診断をし、母に伝えた。

鬱病と聞き母も最初は驚いたが、薬物治療が必要ないわゆるメランコリー型鬱病ではなく、単にストレスが原因の精神不安であり、人生を真剣に考えるまじめな若い女性ほどこの病気にはかかりやすいそうである。やりたいことがあるときはむしろ積極的にやらせて、優しい言葉で励ました方がよい。重度になれば薬物治療もあるが、今は必要ないとの診断結果に母は安堵した。ただ、その原因は娘さんが何かから無理に逃避したがっているせいではではないかとカウンセラーは付け加えた。

母は奈津子に

「なにか隠していることはないの」と何度も問いただしたが、奈津子は思い当たる節はないと答えざるを得なかった。

「お父さんのせいなのに。お母さんがかわいそう」奈津子は自分のことを心底心配してくれる母にそのことを言えなかった。カウンセラーは高校に入ると自然に治るはずだから心配しなくともよいと母にアドバイスをした。母は安心したのか、帰りはいつもになく上機嫌であった。


弘子は学校の勉強はよくできた。京都の中学校でも模擬試験では常にトップクラスであった。英語も数学も理科も国語も音楽までオールマイティで、京都で一番の進学校にでも簡単に進めますよと担任の先生は太鼓判を押した。

担任の先生の評価に弘子の母は有頂天になり、勇作に報告した。母や将来自分の娘を医者にすることが夢だった。その夢が一歩一歩近づいてくる。

勇作は自分の娘の成績に満足しているものの、それほどのうれしさはなかった。

確かに数学も理科も英語もよくできる。家でもよく勉強するし、問題集に出される問題は手際よく解く。

しかし学校で教えられたこと以上に考えようとはしない。

受験に必要な範囲以外は無駄だと考えているようだ。勇作は寂しかったが、女の子なので、まあいいかと自分に納得させるように心がけていた。


一方奈津子はあまり受験勉強が好きではない。数学でも教科書に書いてある内容だけでは満足できない。


ある日の日曜日奈津子は弘子と一緒に勉強していたが、小学校から持っていた疑問を弘子に投げかけた。円周率のπはなぜ一定の3.14・・・・・になるの。

弘子はまた奈津子の

「なぜ?なぜ?」の悪い癖が始まったと思った。

「小学校で3と覚えるように習ったわ。中学校の先生は3.14と覚えるように習ったわ。それよりも三日月の面積計算のような問題をすぐに解ける方が大切なのよ」弘子は少し、めんどうくさそうに答えた。

「お父さんに聞いてみてもいい?」奈津子は最初からそのつもりであった。どんな答えをしてくれるかを聞きたくて、奈津子の胸は躍った。

勇作は喜んで書斎から出てきた。弘子から質問の内容を聞いていたようだ。

彼は丁寧にいつもの鉛筆を使いながらノートの上に大きな円と内接多角形を描きながら説明をした。奈津子はπが一定になるのは理解できたが、それが無限小数になるのがまだ分からない。

「なぜ小数が無限に続いて、おまけに少数の繰り返しが規則的な循環をしないのですか?」説明を聞きながら奈津子の不満はますます高まった。

勇作は思い切って少し高度な数学の公式から説明を始めた。普通は大学生に教える解法である。この説明だけで約2時間かかり、最初は隣で聞いていた弘子はあきれて別の問題を解いていた。

奈津子の理解力はすばらしいと、勇作は舌を巻いた。自分の娘がそばにいるので、あまりほめることができないが、彼女は本質に迫る洞察力を持っていることに感心し、抱きしめてやりたい位の衝動に駆られた。

πの説明に疲れたと思い、勇作は別の角度から少し説明を加えた。

いわゆるオイラーの公式である。

天才数学者オイラーが最も美しいと自賛した三角関数と虚数と自然数と角度がわずか一行にも満たない式で関係づけられる。角度にπを代入すれば、自然数との関係も説明される。多分中学生の女の子には難しすぎて関心は示さないと思ったが、彼はこの式をノートに書き、その意味を説明し始めた。虚数も自然数も中学校では習わない。

「虚数の意味は知っています。2次方程式の解が無いときに仮に出てくるあのiで表わされる数ですか」

「ほおー、よく知っているね」勇作は少し驚いたが、そのまま続けた。

「自然数は知っている?」

「いえ、知りません」

「πと同じように面白い数でやはり無限小数になるんだよ。普通はeで表される」彼女は目を輝かせた。勇作も中学生に説明するのは初めてだった。

「二次方程式の解とどう関係するのですか」彼女は勇作の説明にのめり込んだ。

周りのことが全く目に入らない。

勇作がノートの上の次々と書く式に目を凝らしている。いくつかの証明も必要であったが、彼女は苦しみながらも理解した。彼女の質問内容から、それが分かった。勇作は驚いた。大学生でも理解は難しいのに、中学生がこの問題にのめり込んでいる。昔から天才的数学者は早熟と言われるが、その部類なのかと思った。

一通り説明を終えたとき、彼女の目から一筋の涙が筋になって流れた。

「こんなに美しい式を今までみたことがないのです。生きていて幸せです」

「何が美しいの?」

「混沌としたものが、実はそうではなく、その中に理屈があり、最初はそれがボーとして見えなかったのですが、次第に輪郭が見えてくる感動です」


外は暗くなっていた。

数時間煮も及ぶ説明に彼女は全く疲れさえ見せない。

何かを知り得た満足感に満ちあふれている。勇作はそんな彼女にいとおしさを覚えた。幼い顔がたまらなく輝き、成熟した女性の美しさを一瞬感じた。自分の娘は別の部屋で受験勉強をしている。それはそれで親としては喜ばしいことなのだが。勇作は自分の娘に対しては少し砂をかむような無機質な感覚を覚えた。


夏が過ぎ、秋が過ぎ、二人で一生懸命勉強した効果が出たのか、弘子は予想通り、京都でも一番の私立の名門進学校である同命大学付属高校に進み、奈津子は公立ではトップの洛陽北高校に進んだ。

互いに別々の高校に進学したが、二人は相変わらず仲がよかった。京都府では私立の方がレベルが高いという弘子の自負心に、受験競争にはそれほど真剣ではない奈津子の気持ちは対立することもなかった。

奈津子は勇作に常日頃の疑問を相談に来た。自分の苦しみを和らげてくれる、牧師のような、また何でも知っている神様のような存在から、次第にこれまでとは違った感情が心の奥底からわき上がってくる自分が少し恐ろしかった。

弘子の家に訪問するのが楽しく、勇作が居る時には、心臓が高鳴る。勇作が家に居ないときにはがっかりする。できるだけ長い間話していたい。そのため質問の内容も難しくなり、時々勇作は困ったような仕草をする。そして問題に対し必死に答えようというそんな態度が奈津子にはたまらなかった。

勇作はこの頃教授に昇格し、頭にも白髪が混じるようになってきた。でも考えている時の横顔が奈津子には魅力であった。目も少し老眼がかかってきたのか、近くの細かい文字が見えにくい。真剣に考えるときは紙との距離が近くなるために眼鏡を外す。そんなとき彼の素顔が見える。30歳以上も離れている人になぜ、ほのかな気持ちを持つのか自分でもわからない。


「先生は考えている時は素敵ですね」

「考えている時だけかい?」

勇作のおどけた返事が奈津子の心を和ませた。

「先生は考えることが好きですか」

「集中できるときが一番楽しいんだ。別の世界に迷い込んでさまよえるから。何もかも忘れられるから」二人は会話を楽しみながら互いにほほえみあうことが多くなった。


奈津子には恋人がいた。中学校からの同級生の茂雄である。テニスの選手で、学級委員、勉強もできるし、浅黒く、ハンサムな彼は同級の女子学生から羨望の的であった。人とは余り話さない奈津子に茂雄の方から接近してきた。

奈津子も彼とは気楽に話し合える。

でも彼に色々と質問しても、満足のゆく答えはない。奈津子はこのことに満足できなかった。人生経験がないというか、まるで弟のようにしか感じない。異性としての感情が湧かない。しかし、茂雄は奈津子に夢中であった。


実は弘子は密かに茂雄のことを慕っていた。中学では同じクラスだったので彼とは親しかった。弘子には沢山のボーイフレンドはいる。冗談を言ったり、一緒にスキーをしたりするが、心をときめかす男性は居ない。しかし茂雄にだけは特別の感情があった。

彼を一目見たときから、心がときめいた。しかし、彼は自分の親友の奈津子の恋人だ。

一生懸命勉強し、京都で一番の進学校に進んだのも、茂雄に認めてほしいという気持ちが強かったからだ。

しかし、高校生になっても奈津子が彼とつきあっているのが、彼女にとっては我慢できなかった。それが次第に奈津子に対する嫉妬心に変わってきたことに奈津子は気づかなかった。


弘子は以前に自分の方から映画に茂雄を誘ったことがある。

女性の方から男性を誘うというのは勇気がいった。

しかし、自分の方が奈津子より男性に人気があるという自負心もあり、他の男子生徒からはよく誘われるので、こころよく誘いに乗ってくれると期待した。しかし彼は弘子の誘いを簡単に断った。弘子の自尊心はその時かなり傷ついたが、それでも茂雄に対するあこがれは強くなる一方であった。しかし茂雄は弘子には女性としての興味が湧かなかった。


ある時茂雄も数学の確率の問題が解けず、悩んでいたので、奈津子に相談した。

奈津子は丁度勇作に会える口実ができたので、弘子に相談した。弘子は余り気乗りがしないようだったが、渋々オーケーをしたので、ある日、奈津子と連れだって勇作のもとを訪れた。彼はいつものように紙に書いて、丁寧に教えてくれたが、何か寂しそうな雰囲気がいつもの勇作と違うことに、奈津子は感じ取った。

「いつもは鉛筆を気忙しく削るのに」と奈津子は思った。あまり教えるのに気乗りがしない雰囲気が伝わってくる。茂雄は勇作の教えることに付いて行くだけで精一杯であり、雰囲気など感じる余裕はない。側にいた弘子も、最初、茂雄と奈津子のことばかりに目が行き、父の態度の微妙な変化に気づかなかった。


「もしかすると勇作は自分のことに興味があるかもしれない」奈津子の心は踊った。

「態度から推察すると気持ちはかなり私の方を向いているのかな?」彼女の想像はどんどん膨らんだ。

でも相手は親友弘子の父であり、有名大学の教授である。このかなえられない思いが奈津子を次第に苦しめるようになった。誰にも相談できない苦しみを奈津子は自分の胸に無理矢理押し込んだ。


弘子は弘子で、父の態度の変化におかしいと勘付き、それまでの奈津子に対する嫉妬心が、次第に憎しみに変わってきた。

「奈津子は茂雄さんも手に入れ、今度は父の心まで盗もうとしている。許せないわ」彼女はそうつぶやいていたが、そのことを奈津子は気づかなかった。

「何とかして父から遠ざけなければ」弘子はそのことが奈津子に対する最大の報復だと考えるようになった。


高校に入ってから、奈津子は思春期特有の感情の変化が少し収まり、精神的に安定してきた。自分の父は相変わらず若い女性とつきあっているらしく、父と母は喧嘩が絶えない。でも自分には行くところがある。奈津子には大きな救いがあった。


ある日の日曜日のこと、この日弘子は予備校に行って家にはいなかった。

奈津子は勇作を独占できる喜びに溢れていた。しかし、極力態度には出さないように振る舞った。時々勇作の奥さんがお茶を運んできてくれる。

「まさか私がこんな気持ちだとは奥さんも気づかないだろうな」でも二人は仲がよさそうなので、こんな家庭を壊したら、私は罪深いかなと少し偽りの正義感で自分を納得させた。


「先生は何を研究しているのですか」奈津子は以前から聞きたかったことをこの日初めて聞いた。

「奈っちゃんがそんな私自身に関す質問をするなんて初めてじゃないのかな」彼はうれしそうに答えた。呼びかけもいつもの

「奈津子さん」ではなく

「奈っちゃん」と自然に親しみを込めて呼ぶようになった。

「統計熱力学という学問だよ」

「熱力学という言葉は学校でも習いますが、それに統計がつくのですか」

「そう。原子や分子の挙動からマクロ的な現象を説明する学問なんだ」

「今はやりの素粒子論とは違うのですか」

「素粒子論は一個の粒子に注目するが、統計熱力学は粒子の集団が表すマクロな姿を研究するんだ」

「何を対象にするのですか」

「随分詳しい内容まで興味があるんだね。私は興味の対象はじつは生命現象なんだよ」

「物理学で生命が分かるのですか」

「生命現象は複雑系だと思う。複雑系は今発展しつつある、数学的思考方法だけれど、これに統計熱力学が使えないかと考えているんだ。例えばウイルスは時には無生物になり時には生物になる。ちゃんと遺伝子も持っていて、ある時は人間を病気にし、ある時はダイヤのように結晶になる。その変化の過程を何とか説明できればと思っている。そうすれば生命の謎がはっきりするんじゃないかな−。かなり漠然とした説明で、奈っちゃんには分からないと思うけど、イメージはつかめたかな」

「難しくてよく分からないのですが、なんだか面白そうですね。授業で習うように例えば顕微鏡でウイルスを観察したりするのですか」

「いい質問だね。生物を実際に扱ってはこなかったので、自分の研究も壁に突き当たっているんだ。若いときに今はやりのバイオテクノロジーを勉強しておけばよかったと後悔している。奈っちゃんがもしも将来研究するのであれば生命の研究がいいな」

「先生も後悔することがあるのですか」

「あるさ。しょっちゅうだよ」

弘子のいない間にできるだけ勇作のことについて知りたかったので、奈津子はもっと聞きたかったが、余りこの問題に深入りしないことにした。しかし、勇作が言った生と死の問題はこのとき彼女の脳裏に深く焼き付いた。


彼女にはもう一つ質問があった。

「先生の尊敬する人は誰ですか」奈津子は多分アインシュタインや湯川秀樹とかいう有名な物理学者の名を予想した。

「なぜそんな質問を突然するんだい」

「その人の人なりを手っ取り早く調べるには尊敬する人を尋ねるのが一番いいと学校で習ったからです」

「奈っちゃんから、私の人なりを調査されるとは思ってもいなかったな−。真剣に答えなければならないね。私が昔から尊敬する人はメンデルだよ」

「メンデルってあのエンドウ豆の?周期律のメンデルではないですよね」

「そのエンドウ豆さ。周期律表はメンデレーフだよ」奈津子は意外な返事に驚いた。中学の生物の授業で

「メンデルの遺伝の法則」を習ったことは覚えている。優勢遺伝や劣勢遺伝のことも知っている。

「なぜですか」勇作は笑みを浮かべて話し出した。

「彼は今では誰でも知っている人だけれど、大学に勤めている訳ではなく、一人の牧師だった。」

「先生は牧師さんにあこがれるのですか」

「そうではなく、彼の自然の原理に対する愛着だよ。当時親から子へと形質が遺伝することは知られていたのだけれど、それを精密科学としてデータで示したのは彼が最初なんだよ。彼は普段は牧師なのに一人で畑に豆を栽培し、遺伝の原理を探求した。ある意味ではキリスト教に対する反逆でもある。でも誰も知らない遺伝の原理を何年もかけてひたすら研究したのはすばらしい。牧師であるが故に静かな環境で学問に没頭出きたんだろうな。誰にもじゃまされず。彼の業績が認められたのは死後30年もしてからだから、彼は賞賛も受けず、なくなった訳だけど、彼は幸せだったと思う。人生に満足していたと思うし、本当にうらやましい」

「でも先生も幸せだわ。地位も名誉もあるし。鉛筆もあるし」奈津子は少しジョークも入れてみた。

彼は笑いながら、

「最近集中できないんだ。雑用にじゃまをされて。教授になると大学の管理運営に時間をとられて、だめなんだ」意外な答えに奈津子は驚いた。特に先生が高校生の私に愚痴をこぼすなんて今までなかった。奈津子はほのかな幸せを感じた。自分を一人前の大人と見なしてくれている。


勇作は最近理学科副長に抜擢され、学内の運営に関する様々な雑用に時間をとられることが多くなった。その分管理職手当が支給され、給料は少し上がったので、彼の妻は喜んだが、彼自身は苦痛であった。なんとか機会を見つけて、この立場から降りたいと希望していたが、上司の科長が彼のことを強く信頼していて、離してくれず、実直な彼は断る機会を逸していた。

特に最近発生した、学部内の准教授による女子学生へのセクハラ問題には科内倫理委員会の委員長を務めており、毎日が多忙であった。

この事件は准教授が指導する大学院生が研究室でその女子学生に性的関係を迫ったというもので、女子学生は性的行為も強要されたと、訴訟を起こした。

マスコミにも取り上げられ、裁判にもなりそうなので、理学研究科では真相解明の委員会を設置し、教授会で彼を懲戒免職にするかどうか、短期間の間に何度か審議を重ねていた。

この問題をめぐっては科内が賛成派と反対派で2派に分裂をし、問題を複雑にしていた。

科長はスキャンダルを避けたいため、直ちに懲戒免職を主張したが、科長に反対する派は准教授の言い分も十分聞いた上で判断することを主張し、議論は平行線になってしまい、収集がつかない。

彼は科長の考えに従ったが、内心は懲戒免職までは厳し過ぎるという思いがあった。できればもう少し軽い処分でもよいという気持ちが強かったが、渋々、懲戒免職に賛成せざるをえなかった。教授会の決定を勇作自らが本人に伝えなければならない。彼は気が滅入った。部屋で決定を待っていた彼はそれを聞き大声で泣き出した。

「こんな汚名を着せられて私はもうどの大学へも行けない。その女子学生だって私に近づいてきた。なぜ私だけがこんなに厳しい処置を受けなければならないのですか」勇作には痛いほどこの気持ちが分かった。研究者に取り懲戒免職は死刑に匹敵する。研究業績もあり、学会への貢献も高い彼が、二度と日の目を見ることはない。

勇作はその日一日憂鬱だった。

帰宅後妻に相談した。

「女子学生の弱い立場を利用して、肉体関係を迫るなんて卑怯だわ。あなたのしていることは何にも間違っていないわ。彼もまだ若いし、きっと次の就職口は見つかるわ」妻はこともなげにそう言った。

そうであれいいがと彼も次第に自分を納得させた。

後に同じ運命が自分を待ち受けているとは勇作はそのとき想像さえしなかった。


京都の冬は雪が深い。最近でこそ大雪がすくないが、時折、50cm以上の深い雪になることもある。雪に覆われた京都は静寂に包まれる。

勇作は以前奈津子から京都からはなぜノーベル賞受賞者がたくさん出るのですかと聞かれたことがある。

勇作はこの四季折々の自然と古い寺院仏閣のわびやさびとの調和が生み出したと答えた。暑い夏がある分、秋の京都の紅葉は美しい。色とりどりの紅葉は古い木造建築が建つ日本庭園に良く映える。

冬は冬で雪の積もった京都は風情がある。この落ち着きが人間に物事を深く考える余裕を与えると勇作は思っている。

京都の駅前の近代建築や最近の河原町は余り好きではない。特に京都タワーや駅ビルは京都の町にあわないとこぼしていた。地下鉄も便利だけれど、昔は市電が走っており、市電の窓からのんびりと雪の京都の寺院を眺められたのが懐かしいとも言っていた。

深雪の日は、雪が音を吸収してくれるので周りが静寂に包まれる。

勇作は結婚前に雪の銀閣寺でよくデートをしたそうだ。奥さんはその頃大学で秘書をしていた。時間を見つけては研究室を抜けだし、教授に見つからないように戻ってきた。特に深い雪の日には周りに人もいないし、自分達の雪道を踏みしめる音しか聞こえない。雪に埋もれた銀閣寺は彼に青春そのものだ。


奈津子と弘子の仲はこの頃から急激に冷え出した。やはり弘子には奈津子と勇作の気持ちが態度から分かって来た。自分の父の関心が自分の友達に次第に移ってゆく。弘子は焦った。


ある秋の日、奈津子は弘子から東福寺に紅葉を見に行こうと誘われた。唐突の誘いに奈津子は何か私に言いたいことがあるのだと思った。

「勇作とのことだろうな」奈津子は大方察しがついていた。


京都駅からJRに乗り、東福寺前で下車し、東福寺正門の日下門に通じる細い道をしばらく二人で歩いた。弘子は勇作のことには触れず、大学受験のことばかり話した。センター試験の成績や最近導入された英語のヒアリングの機械操作のこと。二次試験のこと。彼女は医学部を目指し、目下猛勉強中であること。

奈津子はもしかすれば今日呼び出したのは、勇作との件ではなく、単に彼女の受験勉強の心配を話したかったのではないかと思うようになった。

境内はすっかり色づいており、深紅や黄色の紅葉であふれていた。この時期観光客も多く、境内はかなり込んでいた。本堂までは長い回廊で結ばれている。はだしで歩くと木の床の感触が心地よい。吹き抜ける風がさわやかで、風に揺られて紅と黄色の紅葉が混じりあう。

日の光が葉の間を眩しく突き抜ける。鳥が楽しそうにさえずっている。

「小さい時、両親に連れられてここによく来たわ。ここの紅葉を父が特に好きなの」

弘子はそう言いながら、

「少し疲れたわね。休まない」と奈津子を誘い、回廊の端に腰を下ろした。

弘子は遠くを眺めながら、奈津子に

「もう私の家に来ないで」とつれなく言った。

一瞬の沈黙が流れたが、

「なぜなの」

「わかっているはずよ」

「分からない」本当は奈津子は理由が分かっていた。ただ茂雄のことも弘子は嫉妬しているとは分からなかった。

「お父さんまでとらないで」

「までって」

「分からなければいいわ。あなたは欲しいものをすべて手に入れていくのよ」

「わたしが?」奈津子はとまどった。佑子の言う

「すべて」の意味がよく分からなかった。弘子と決別するのは怖くないが、勇作に会えなくなる絶望感が彼女を襲った。弘子は言いたいことをすべて言うと足早に一人で立ち去った。

彼女はしばらく境内にとどまった。風が吹き、落ち葉がひらひらと舞い落ちた。

「私たちの仲もこんな風に散ってしまったのかしら。でも勇作との関係だけは散らせたくない」彼女は神に祈った。


弘子の家にはもう行けない。しかし、勇作には何とか会いたいという気持ちが奈津子を駆り立てた。


ある日、新聞を読んでいると、以前に聞いてきた

「統計力学と複雑系」の国際シンポジウムの案内が偶然目に飛び込んできた。プログラムを眺めているとなんとそこに勇作の名前があった。

その会議場は大学のシンボルである時計台の一階にある。奈津子は気持ちが高揚した。

「会場に行けば先生に会える。でも受付で何というの。娘ですとでも言うの。でも弘子のことを知っている人がいたらどうしよう」しばらく悩んでやはり行かないことに決めた。決めた途端に

「それでいいの?」とささやきかけるもう一人の自分が居る。

「近くに行くだけでもいいじゃない」誘惑の方が勝った。まるで外から制御されたロボットのように彼女はバスに乗り込んだ。正門前まで来ても、まだためらった。でもバスを降りた。バス停からしばらく歩いた。正門が近づいてくる。

「どうしよう」彼女には罪悪感があった。父とつきあっている若い女を自分は憎んでいるのに自分もそれと同じことをしている。

なんとかして押しとどめようとする自分がいて、大声で叫んだ。

「このエロじじい。私はまだ17歳よ。わたしを誘惑すると青少年保護育成条例にひっかかるのよ。そのことを知っているの。ロリコンじゃないの」彼女はできるだけ心の中で汚い言葉でののしった。

「馬鹿ね−。誘惑しているのはあなたの方でしょ」もう一人の自分がすぐに打ち消す。

一人でぶつぶつしゃべっているため、周りの人が制服姿の彼女のほうを不審そうに眺めながら通り過ぎてゆく。そんな周りの様子など、彼女には目に入らなかった。正門に近づくにつれ彼女の心臓は鼓動が高まってゆく。自分の理性とは裏腹に足が勝手に大学の正門のから時計台に向かってゆく。

「人目会うだけならば何も悪いことはしていないわ」そう自分に言い聞かせると、気持ちが楽になった。

大学構内の時計台の前で奈津子は勇作を待った。プログラム通りだと、3時には彼の講演は終わるので、その後出てくるはずだ。何度か中に入ろうと思ったが、その勇気はなかった。1時間待ち2時間待った。それほど寒い日ではなかったが、長時間外で待つのはさすがに若い奈津子にもこたえた。

彼らしき人影が入り口から出てくるのが見えた。少しずつ近づいてくる。

「ああ、彼だわ」彼は背の高い白人の大学の研究者らしき人としゃべるのに夢中になっている。

「ああ、一人じゃないのか」彼女は失望したが、思い切って声を掛けてみようかと思った。

「先生と」声をかけたが、多分心の中で叫んだだけだった。大声で声を掛けるだけの勇気はなかった。勇作が話している声が自分にも聞こえたが英語なので内容は分からない。彼女の側を通り過ぎた。彼はどんどん遠ざかってゆく。

「追いかけて声を掛けたい」もしかすると、彼女のことに気づいていたような気もする。

「外国人が私の方を見て知り合いか」と勇作に尋ねたようなそぶりがあったので。

「彼も私の方を一瞥したようだ」と彼女は思った。でもそのまま行ってしまった。

「もう薄暗かったから私とは思わなかったのよ」彼女は目から少し涙が溢れた。

「会えただけでも幸せじゃない」もう一人の自分が慰めた。


勇作は彼女のことをそのとき気づいていた。しかし奈津子に声を掛けることに躊躇した。

彼も迷いながら後ろ髪を引かれていたのを奈津子は知らない。

実は弘子が母親に奈津子の悪口を吹聴した。彼女は年齢に関係なく男性とみたら自分の方から誘うので気をつける必要があると、あることないことを母親に告げ口をした。

心配した母親が、勇作に奈津子に近寄らないようにと注意をしていた。

結局この日奈津子は勇作と会うことを諦めざると得なかった。


奈津子が勇作に会いたいという願望はますます強くなる一方であった。

何とか会える方法はないかと考えているうちに、以前に勇作は週末に洛北にある継抄院で座禅を組んでいると弘子が話していたことを思い出した。寺に電話をしてみると、住職がでてきて、確かに勇作が座禅を組みに週末にくると教えてくれた。午後の4時頃には終わるので、参道で彼に会えるのでは。いてもたってもいられなかった。


奈津子は紺のコートの下に普段よりも丈の短いスカートをはいた。

眼鏡もコンタクトにした。

17歳の奈津子に初めて女心が芽生えた。こんなことで先生の気を引こうというのは少し空しい気がしたが、今はそんなことを言ってはおられない。でも見てもらって素敵だと褒めて欲しいという気持ちもあった。姿見で何度も自分の姿を写した。マフラーも以前自分がデパートで一番気に入っているピンクのウールのマフラーを選んだ。

「先生、私って素敵でしょ。セクシーよね」

「今日の奈っちゃんは本当にセクシーだよ」

そんな風に先生から褒めてほしかった。

「でもあの人ははにかみ屋だからそんなことは絶対言ってくれないわ」別の自分が否定した。


地下鉄とバスを乗り継ぎ、ようやく継抄院の入り口までたどりついた。

ここから山門まで急な石段がある。

少しでも早く会いたい気持ちで急いたため、一気に登ったらさすがに息が切れた。室町時代に建立されたという、古びた大きな山門を抜けると、そこから先は本堂まで細い石畳の道が続いている。両側は土塀で挟まれており、人通りもない。ここならば間違いなく彼と会えると奈津子は思った。さらに進むと本堂が遠くに見えた。

「先生もここできっと座禅しているに違いないわ。もっと近くの方がいいかしら。でも細い道の方が話しかけやすいし、山門辺りの方がよいかしら」彼女は迷いながら参道を行ったり来たりした。

師走の参道の木々は葉も落ち、冬支度をしている。こんなところを行ったり来たりすると怪しまれるのではと思いつつ、結局山門の辺りで彼が帰るのを待った。京都の冬の北風は身にしみる。まわりはすでに薄暗かった。


1時間近く待っただろうか、遠くから彼らしき人影が次第に近づいてきた。近づくにつれ、暗い中でもそれは彼とはっきり分かった。

「勇作先生ではないでしょうか。お久しぶりです」奈津子はようやく会えた勇作に、待っていたことを悟られないように挨拶をした。

「奈津子さんではないですか。なぜこんなところにいるのですか」勇作はいつもと違う服装の彼女のことが最初は分からなかったが、すぐに分かった。

突然の奈津子との再会にとまどったせいか、丁寧な言葉遣いで少しどぎまぎしながら話しかけた。大人に近い女性を感じたせいかもしれない。いつもは余り感情を表さない彼の顔に、会えた喜びが溢れていた。

勇作にとっても、こんなに若く、美しく、魅力にあふれた奈津子を見るのは初めてだった。

周りには誰もいない。

「先生抱いて下さい」奈津子は何も考える余裕のないままに勇作に唐突に自分の願いを伝えた。それは願いと言うより、羞恥心や理性の外から反射的に出てきた言葉だった。余計なことを考えるのが怖かった。

彼は一瞬躊躇したが、彼女のけなげな要求にすぐに無言で応じた。柔らかい彼女の体をきつく抱きしめた。彼女の腰に回した手がかすかに震えていたのが奈津子にも分かった。彼の唇がそっと彼女の唇に触れた。歯と歯が少しぶつかったことも彼女は覚えている。舌同士の先端が少しもつれあった。奈津子の体は溶けていた。誰かがそばを通りゆくのも気がつかなかった。

「こんなことをしてはいけない」勇作はつぶやいた。

 奈津子の心臓は高鳴り、口の中がからからだった。

「好きな人に嫌われたくない。何一つ嫌われたくない。こんなにつばが粘ついて口の臭いは大丈夫かしら。嫌われたらどうしよう」

周りはもう暗かった。そのため、ますます大胆になった。

奈津子は自分の行動が理性では動いていないことがよくわかった。勇作はかなり興奮したようで、体はかちかちであった。

分からない位の時間がすでに過ぎていた。

「ああ、もう帰らなければ。母が心配するから」奈津子は時計を見て勇作に言った。

「まだまだ一緒に居たいのだけれど、いつまでもこんなところに立っているわけにはゆかないものね」勇作も同意した。

「先生一緒に歩いてもいい?」

「もちろんだよ。今夜の奈津子ちゃんは特別だな」

「何がですか?」

「すべてだよ」

今日の彼女はいつもの眼鏡をかけ、うつむき加減な地味な女子高生ではなかった。

つやのある長い黒い髪を無造作にバンドで束ねているために、白い首筋が街灯の弱い光に映し出された。その上に流れるうなじが、日本女性特有の色気を醸し出す。

勇作は思わず彼女のうなじにそっと唇を触れた。

奈津子は身を任せた。立っていられないほどの快感が襲ってきた。

奈津子は幸せだった。


人目につかない裏道を勇作に腕組みしながら歩いてゆくと、途中にラブホテルの派手な赤と白色のネオンが点滅しているのが目に入ってきた。

「先生、ほんの少し休みませんか」誘ったのは奈津子の方であった。決してセックスを求めている訳ではなく、一緒に過ごす時間がただほしかった。

そのためには人目につかないこの場所しかなかった。

裏通りの、古い薄汚れた小さなビルだったが、余り利用客は多くはなさそうもないので、むしろ人目につかない安心感があった。

それでも2人別々に門をくぐった。この狭い京都では知り合いも多い。

たとえ裏道といえども、どこで人目につくか分からず、奈津子も勇作も警戒した。

門をくぐると、小さな玄関があり、すぐ受付になっていた。受付は相手の顔が見えないようにカーテンが下から5cmぐらいのところまで降ろしてあった。

帰るときに時間で料金か変わることと鍵を必ず返すようにとの年配の女性の太い声がした。

奈津子も勇作も誰から見られていないこの仕組みに安堵しながらも、きっとどこかたぶん背後から隠しカメラで撮影をしているのだろうと思い、後ろを振り向くのはためらった。

部屋は3階の301号室。鍵を開けると中央に回転ベッドが見えた。ああ−これがラブホテルか。勇作はこれまでこのような場所を利用したことはなかった。奈津子ももちろん初めてである。ただ雑誌で読んで知っていたのでそれほどの驚きはなかった。

奈津子は長い間、寒空で待っていたので、少し恥ずかしかったが、真っ先にトイレに駆け込んだ。我慢に我慢を重ねていたので、それは音を立てて便器に吸い込まれていった。

その音がかき消されるように何度も水を流した。


出てきた奈津子に勇作は声を掛けた。

「奈津子ちゃん、後悔はないの」

「先生こそどうですか」

勇作は妻のこと、娘のことを思うと、やはり奈津子の体に触れることに躊躇した。

「先生、シャワ−を浴びてきますがいいですか」彼女は少しでも清潔な自分の体を見せたかった。

「いいよ」勇作は笑顔で答えた。

彼女がシャワ−を浴びている間に勇作もトイレに入った。

何かに迷った時は彼は便器に座りながら考える癖がある。

「このまま突き進むと、破局が待っているのは確実だ。これまで築きあげた生活基盤は崩れ去る。奈津子はまだ17歳である。青少年保護条例に違反する。自分は一流大学の教授であり、こんなことが世間に知れると、マスコミも大々的に取り上げられる」

しかし理性とは裏腹にほとんど我慢できないぐらいの強い性的衝動が勇作を誘惑する。

それほど今日の奈津子は魅力的だった。

勇作は自分の欲望と必死になって戦っていた。


トイレから出てくる勇作とシャワーを浴び終わった奈津子はちょうど部屋の真ん中で出くわした。それほど広い部屋ではないので、ぶつかるような距離だった。

勇作は気持ちの整理がついたのか、

「こんなことはだめだ」とつぶやいた。


奈津子も友達から最初は痛いわよと聞いていたので、かなり不安な気持ちもあった。そのため次の機会でもよいと思い直した。ほっとする気持ちがある一方、彼が強引に求めなかったことに、少し女心が傷ついたことも事実であった。

「私って魅力がないのかしら」


部屋を出る前に奈津子は再度トイレに入った。彼が自分を求めなかったことの気持ちの整理をしたかった。しばらく時間をおいて彼女は出てきた。彼女は目に涙を浮かべていた。

「奈っちゃん。その気にさせたのに悪いね」勇作は自分の行動が奈津子を悲しませていると勘違いした。

「違うの。うれしくて」彼は彼女の言った意味までは遂にわからなかった。


「ラブホテルにトイレだけ借りに来るカップルも珍しいね」勇作は家族に対して何とか貞節を守ったので罪悪感から解放されたらしく、ほっとしているようで、ため息混じりにそう奈津子に言った。


うれしさから、彼女は彼の腕を組んだ。逆に何も性的な行為をしなかった安心感からか、不用心にも彼はそれをほどきもせずそのまま外へ出た。


そのとき運悪く婦人警官が見回りをしており、ホテルの前で丁度鉢合わせをしてしまった。

その警官は急いで離れようとする二人に

「ちょっと待って。聞きたいことがあるわ」と大声で叫んだ。20歳台前半と思われるその若い婦人警官は、最初から援助交際と決めつけており、尋問を受ける羽目になった。


奈津子は見た目も若く、18歳未満というのは誰の目からも明らかだ。婦人警官は身分証の提出を求めた。最初は拒んでいた奈津子も婦人警官のしつこい要求についに出さざるを得ない羽目になった。

「あなたは洛陽北高校の学生さんなの。まじめな学校なのに。こちらのおじさんはいい年をして未成年と遊ぶなんて」その婦人警官は慣れない口調で2人に説教をした。


勇作は全身から血の気が引いてゆくのがはっきりわかった。

「近くの派出所まで来てください」婦人警官の声は優しかったが、彼にとっては戦慄の響きがあった。

とにかく従うしかなかった。下手に逃げたりすると逮捕される。彼は腹を決めた。何となく頼りなさそうな警官なので、調書だけで済むかも知れない。しかし彼の見通しは甘かった。


さらに運が悪いことに派出所では地方新聞の記者がたまたま別の万引き事件で取材にきていた。

人相が悪く、目が鋭いずる賢そうなタイプで、ネタのためには何でもする男だ。

朝から万引き事件を取材するためにずっと待っていたが、万引き犯は連行されてこなかった。ネタに飢えていたこの記者はこの件に早速飛びついた。彼にとっては思ってもいない大魚が偶然飛び込んできた。捜査内容は秘密であるが、彼はその婦人警官と懇意にしていたので、内容を聞き出し、それに尾ひれをつけた。尾ひれは大きければ大きいほどこの手の新聞はよく売れる。


この件は次の日の新聞の一面に大々的に載ってしまった。他に大きなニュースでもあれば片隅に掲載される程度のニュースであるが、取り立てて大きな事件も事故もなかったため、新聞には大きな見出しで

「大学教授未成年に淫行」とあった。おまけに彼女にお金を渡し無理矢理ホテルに連れ込み、猥褻な行為に及んだとの作り話まで付け加わっていた。


さらに、その下には、ある有識者が青少年のことを守るべき一流大学の教授がそれも学内ではそれなりの責任の重い地位についていながら、若い女性の性をもてあそんだ。とても社会的に許されるべきことではないとの批判まで載せてあった。


一方奈津子の方は未成年で初犯ということもあり、新聞に名前が出ることもなく注意だけで済んだ。そのため彼女はこの事件が勇作に取りそれほど重大な影響を及ぼしているとは思ってもいなかった。


弘子はこの件を母から聞かされた。

「やはりあの子に誘惑された。あなたのお父さんは何も悪いことはしていないのに」母は泣きながら弘子に伝えた。

「奈津子は未成年でおとがめなしなんておかしい。私は彼女の学校に連絡して、ことの真相を暴露する。そして彼女をきっと退学にしてみせる」

弘子は早速校長宛に匿名の手紙を出した。


「拝啓 洛陽北高校長殿

突然このようなお手紙をお出しすることをお許し下さい。

私は下村奈津子の数多くの被害者の一人です。

彼女は若い女性の持つ武器を利用し、主に中年男性をラブホテルに誘い込み、金銭を巻き上げるひどい女です。

私は彼女に数十万円の被害に遭いました。

新聞にまた被害の記事が出ていましたので、これ以上私や昨日新聞に掲載された方のような被害者をこれ以上出さないために先生にご連絡した次第です。このままでは被害者が増える一方です。私は公務員ですのでこのことが世間に知れると困りますので匿名にしたことをお許し下さい。 下村奈津子の一被害者より」


手紙を見て校長は驚き、教頭と相談した。

匿名の手紙なので、奈津子を陥れる手紙ではないかとまず疑った。

確認のため勇作に連絡を取り、実際に奈津子とラブホテルに行ったのかその事実を確認するため、勇作に電話を掛け、手紙もファックスで送った。校長からの電話を受け勇作は焦った。校長に会うと嘘は言えない。そうなると奈津子は退学だ。おまけに文面から匿名の手紙の差出人もおおよそ見当がついた。妻はいつもこれと同じような内容の警告を私にしてきた。しかもそれを娘から聞いたと言っているのを思い出した。


大学の理学研究科では緊急の教授会が開かれた。

勇作と対立する派のタカ派のある教授が立ち上がり、強い口調で発言した。

「新聞記事によると犬養勇作教授は淫行をした。即刻懲戒免職にすべきである。我が伝統のある大学からこのような破廉恥な行動をする人物が教職をとっていると生徒に動揺が広がる。特に彼は科内倫理委員会の委員長であり、つい最近セクハラをした准教授の懲戒免職を行った本人である。本来そのような他人に手本を見せるべき教員がこのようなことをするなんて、本当に嘆かわしい。」

別の教授からは

「まず、真実かどうかを確かめる必要がある」との意見が出された。

しかそのような意見は少数であった。議論は朝から深夜まで及んだ。

翌日も引き続き臨時の教授会が開催されたが、意見がまとまらなかったため、夕方投票で決することになった。その結果、彼の懲戒免職が僅差で決まった。


勇作は教授会の決定を自室で待っていた。部屋の電気もつけずに暗い部屋でじっと座禅を続けていた。

教授会に呼び出され、委員長から結果を知らされた。


彼は覚悟をしていた。いくら肉体関係がないといっても、ラブホテルから未成年の高校生と2人で腕をくんで出て来たことは事実であり、重い処置はまぬがれまい。

頭には家族のことが浮かんだ。

私は淫行はしていない。しかし世間でそれがまかり通る訳ではない。

ただこの決定が下された以上、私の研究生命は絶たれた。もう大好きな研究もできない。そして何よりも奈津子が退学させられる危険性もある。自分がいなくなればそれ以上校長も追求しまい。

彼はその日の夜に以前家族と訪れたことのある、東尋坊に向かい一人で車を走らせた。


奈津子は朝いつものように朝刊に目を通し、日本人の学者が昨年に引き続きノ−ベル物理学賞を半導体レ−ザの研究で取ったとの記事に感心していると、ふと新聞の下段の記事が目に飛び込んできた。

「大学教授 東尋坊で投身自殺。淫行を苦にしてか」

“作”という一文字が見えた。思わず新聞から目をそらした。勇気を出して再度記事を読んだ。

昨夜10時頃・・・・・・・大学教授 犬養勇作氏が・・・・・。彼女は血の気が全身から引くのが分かった。

「嘘よ。何かの間違いだわ。」信じられなかったし、信じたくはなかった。


午前中はどうしてよいのか分からず、部屋でじっとしていたが、思い直し、午後に勇作の家を訪ねた。家の玄関には黒い幕が張られ、提灯がすでに明かりをともしており、手伝いの人が数名出たり入ったりしていた。


勇作の遺書は鉛筆書きで、家族宛てにこの件の謝罪と自分は決して淫行をしていないことが書かれてあったと近しい人から聞いた。奈津子への遺書はなかった。


お通夜には奈津子も訪れたが、制服姿ですぐにばれてしまい、親戚から家に入るのを拒否された。


奈津子は荼毘に付される前に勇作の遺体に別れを告げたかった。まだ死んだとはどうしても信じられない。どうしても会いたかった。

一度家に帰り、母のウイッグを借り、サングラスをかけて変装した。変装するのはもちろん初めてであるが、そのときすでに勇作の後を追うことを決心していた。すぐばれることは承知だったが、死を決心すると何も怖いものはなく、何でも抵抗なくできるの自分が不思議に思えた。


受付で偽名を使ったが、案の定、周りから

「あの子じゃないの」と噂する声が聞こえた。しかしこのような場でサングラスまで外させて確認ができる雰囲気はなかった。常にうつむき加減で、数珠をいじりながら心を静めた。長い列の後に順番に並び、お焼香をした。いよいよ彼女の番になった。棺が近づいてきた。暗くてサングラスではよく見えないので思い切って外した。

棺の中に勇作は優しい安らかな顔で眠っていた。

「先生、眠っているのなら目をさまして」彼女は本当にそう思ったが、顔をそっとなでると氷のように冷たく、すでにこの世にいないことがそのとき分かった。

「冷たい海に身を投げるなんて。だからこんなに冷たいの。全部私のせいよ。あのときホテルに誘わなければ」

その時奈津子には勇作が優しい笑顔で、

「よかったね」と奈津子に語り掛けた気がした。それも頭の中で鮮明に聞こえた。

「先生、何がよかったの。私を一人おいて、何がよかったの」

奈津子は棺に抱きつき、嗚咽が止まらなくなった。次第に鳴き声が大きくなり、何度も

「あのときホテルに誘わなければ」と繰り返すので、周りの人が奈津子だと気づいた。

勇作の講座の若い学生が棺から離れるように諭したが、彼女が棺に抱きつき離れないため、

親戚の人が来て、数人掛かりで彼女を無理矢理棺から引き離した。

そこへ弘子が飛んできて、

「私のお父さんを返して」と大声で叫びながらほおを何度か平手打ちをした。

弘子も半狂乱になっていた。勇作の妻は呆然として、立ちすくんでいた。

家の中は一時騒然となり、奈津子は無理やり外のタクシ−に押し込まれた。誰かがタクシ−の運転手にお金を渡し、自宅の住所を告げていた。


奈津子はしばらく学校を休んだ。自分の部屋に引きこもり、インタ−ネットで東尋坊にどのように行けばよいのか、地図を調べていた。

母は勇作が亡くなったことは知っていたが、まさかその相手が自分の娘だとは夢にも思わなかった。

そのとき一通の電子メ−ルが届いた。

「誰からだろう今頃」

差出人の名前を見ると yusaku_inugaiと書かれてあるではないか。それは紛れもなく勇作からのメ−ルであった。

「先生、生きているの!」奈津子は狐に包まれた。

そこにはこう書かれていた

「このメ−ルが奈津子さんのもとに届く頃、私はこの世に居ないだろう。今から48時間後に君に届くようにプログラムした。私は君に会えて本当に幸せだった。短い間だったけれど幸せだった。好きだった。若い君がこんな年の人間を相手にしてくれて。君のことを思い浮かべると仕事がスム−スに進んだ。今度ネイチャ−に論文を投稿した。できるだけ君に読みやすいように平易な英語表現にした。私の遺志を継いでこの研究を完成させてほしい。高校を無事卒業して欲しい」


「先生、私をなぜ一緒に連れて行ってくれないの。先生の意地悪」

奈津子はパソコンをたたきながら大声で泣いた。大粒の涙がキ−ボ−ドを濡らした。

諦めきれずに返信のメ−ルを何通も打った。

「メ−ルを受け取りました。私の方が先生のことを好きでした。至急返事を下さい。会いたいのです」

彼女もそんなことをしても空しいことは知っていた。分かっていても、何かしなければいたたまれなかった。一晩泣き明かした。朝まで何度も何度もメールを読み直した。


「なぜもっと色々なことを書いてくれなかったのですか。文面から急いで書いたようですが、なぜそんなに急いでいたのですか」奈津子は心の中で勇作に聞いてみた。

それに最後の

「高校を無事卒業して欲しい」という一文だけが妙に気になった。

「先生は私が卒業できないと思っていたのかしら」その時の奈津子にはまさか弘子がそんな画策していたことは想像もしていなかった。


そして数年後。

彼女は高校を出て、福井の小さな大学を卒業し、勇作の意志を継ぎ、実験助手をしていた。一人の男児を育てていた。名前は勇気。勇作の名前から一文字をとり、自分に勇気を与えてくれることを願ってつけた。

ある時母親が彼女の元を訪ねてきて、子供のことを尋ねた。

「その子の父親はもしかして茂雄さん? 茂雄さんは今はあなたのかつての親友の弘子さんのご主人になっているわ。あなたそのことを知っていたの」

母は少し心配そうに彼女に言った。奈津子はそのことには何の関心もなかった。

「ああそうなの」と面倒くさそうに答えた。


「勇作先生はとっくに亡くなっているし、勇気の年齢とは合わないし」母は奈津子が勇作を慕っていることを知っていたので、そのときは冗談のつもりで質問した。


「それならお母さんにだけ言うわ」

彼女は真実を母にだけは話そうと勇気の出生の秘密を話し始めた。

葬式の後、彼女は受験勉強に集中をしていた。瞬く間に約1年が過ぎた。そんなある日弘子から東福寺で逢わないかという誘いの電話があった。

何度か断ったが、話したいことがあるというので、しぶしぶ了承した。

勇作に関することを何か伝えたいのだろうと思い、約束の時間に境内で彼女を待った。

時間通りやってきた彼女と、回廊を歩きながら、その後の生活などを話した。以前に彼女と決別した同じ場所に座った。

目の前の日本庭園の苔の緑に紅葉がまぶしく映った。


弘子は

「以前あなたと決別したときと同じね」と話しだした。

「父はこの場所が好きだったの。物理学のどうしても解決しない問題があると、ここに来たわ。」遠くに視線を移しながら静かにしゃべり出した。

「私お父さんに悪いことをしたの。後悔している。お父さんが自殺した原因のひとつは私の行動なの」奈津子は生唾と飲み込んだ。

思ってもいない彼女の告白だった。

「私、あなたを高校から退学させるために、あなたの高校の校長先生宛てにあなたが私の父と淫行したと告げ口したの。あなたは知らないでしょうけど。その次の日に校長先生とお父さんが逢うことになっていたそうだわ。でもお父さんは校長先生に逢わなかった。会えばあなたの実名を出さざるを得ないもの。それを避けるために・・・」弘子も涙ぐんだ。

奈津子はその告白からすべて理解できた。

「メ−ルにあった ”高校を無事卒業して欲しい”というのは先生が自分の命と引き換えに私に望んだことだったのね。そしてメ−ルをあんなに急いだ訳も。それにお通夜の夜になぜ先生が私に ”よかったね” とささやいたのも今みんな分かったわ」

心のどこかに引っかかっていたすべての疑問が一瞬のうちに氷解した。

奈津子も涙が止まらなくなった。何も喋れない。しばらく2人の嗚咽の声だけが回廊に響いた。


しばらくして弘子は気を取り直し奈津子に言った。

「でもこんなことをさせたのはあなたよ。あなたが原因なのよ。私の好意を利用して、私からすべてを奪い、私の人生まで台無しにしたわ」

「ごめんなさい」奈津子は謝った。

しかし謝罪の相手は弘子ではなく、勇作だった。勇作の最後の思いやりを理解できなかったことを彼に詫びた。


「茂雄さんは私のものにするわ。あなたから奪い取ってみせる」弘子はそう叫んだが、奈津子はその時ある決心をしていたので、ほとんど上の空で弘子の言葉を聞いていた。弘子は拍子抜けをしたのか、それ以上は何も喋らず、以前と同じようにその場を立ち去った。茂雄の件では奈津子が少しは反応するかと思ったが、無反応な彼女に復讐の甲斐がないことに失望した。


ここまで一気に母に話した。

しかし母の関心は勇気の出生の秘密であり、奈津子の話にはそれほど関心を示さず

「それで?」と話の続きを催促した。

そのため奈津子はラブホテルでの一件も母に話し出した。


奈津子17歳 後編はR15です。

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