赤と黒の対談
時を同じくして、場所はシグマらが対峙している辺りから後方。
鬱蒼と生い茂る木々の景色の中で、そこだけくりぬかれたような直径五メートルほどの小さな芝生でできたスポットエリア。そこだけ陽の光が顕著に差し込んでいるからか、ステージのような目立ちぶりを見せている。
その中央で、ルカとハウルは対面するように座っていた。
地面には汚すことを躊躇うような純白のシートが敷かれており、二人の間にはルカが所有する携帯紅茶一式セットが広げられている。その脇には茶菓子としてクッキーが小皿に並べられていた。
外出先でこれだけの場を整えられるとあれば、多少場の雰囲気に合っていなくとも許されるというべき見本。ましてや二人が手にしているティーカップに注がれた紅茶は、ルカが手ずから淹れたものだ。その味は格別という他にないだろう。
だが、よりによってハウルは、その格別の味を一向に堪能できないままでいた。
「…………」
「…………」
理由は、先ほどからこの場を支配している沈黙。
ハウルは緊張が頂点に達して何を話していいのかわからず、そしてルカはこの状況においても表情一つ変えずに平然としている。
どうしてか、嫌に喉が渇く。今日の機構はさして熱いわけでもないのに、ハウルの喉は手にした紅茶を渇きを潤すためだけに求め、今や五杯目となる紅茶も空になろうとしていた。
「お代わり、いるかしら?」
「は、はい!」
ようやく流れた唯一の会話も、同じ内容で数回目。もうそろそろハウルのお腹も紅茶でタプタプとなる頃合いだが、どうしても断る勇気が出なかった。
琥珀の液体が注がれているのを眺めている目も、どこか虚ろである。
(し、シグマぁ……はやく戻ってきてー……!)
無駄とはわかりつつも、ハウルはこの場に居ない頼れる仲間に念を送り続ける。
実際のところ、彼と別れてからまだ二十分ほどしか経過していないが、彼女にとっては数時間に匹敵している。
こんな拷問のような時間を、あとどれくらい耐えればいいのだろうと、ハウルが未来に絶望していると、
「……ねえ、ハウル」
紅茶を注ぐのを止めると同時に、ルカがようやく口を開いた。
そしてハウルに渡しながら、こう訊ねる。
「私が怖い?」
受取ろうとした手が、止まった。
―――そんなの、怖いに決まってる。
質問の意図を考えるよりも先に、答えの方が先行した。
だって本来ならば、こんな状態はありえないのだ。ハウルとルカは互いに敵同士のはずで、出会った瞬間に殺し合いが始まってもおかしくない関係性。それを差し引いても、二人の間には領主と虜囚という明確な立場の差がある。昨日の会議でその件に関してひと悶着はあったものの、だからといってすぐに呑み込めるわけじゃない。
はっきり言ってしまえば、この二人きりの時間は、ハウルにとって苦痛だ。
目の前の紅茶を受け取ることにすら、精一杯の勇気が要る。
それだけ状況に追い詰められていることを、あの聡いルカが気づいていないはずがない。
ならばいったい、その質問が意味することは何なのだろう。
ハウルはおそるおそる視線を上げる―――瞳に映ったルカの目は、今まで見たことが無いほど穏やかだった。
「……まあ、怖いわよね。今までの仕打ちを考えればそう思うのは当然だもの」
ややあって、彼女は自嘲気味にそう言った。
「けれど、私もそれが間違っていたとは思わない。だから申し訳ないけど、これまでのことを謝罪する気はないわ。それだけは理解して頂戴」
「それは……いえ、私も弁えていますから。ですので、気にしないでください」
少しだけ苛立ちがあった。何に対する苛立ちかはわからなかった。
ただ、それのおかげで多少はまともに話せるようになった。
であるなら、機会は今しかない。この感情に任せて、先ほどから浮かぶ疑問を訊ねてみよう。
「だけどそれなら、どうして私と対等になろうとするんですか」
敵であるはずだった。一歩間違えれば殺し合いに発展するような事態だってあった。
それを間違いでなかったというのなら、やはり今でも敵であることに変わりないのだ。
ならば尚の事、ルカがやろうとしていることの意味がわからない。
「……それに関しては説明したはずよ。シグマを長とする集いである以上、その下に集う私たちに元々の立場は考慮されない。だから私たちはそれぞれ一隊員として、互いの背中を預け合う仲間にならなければならないのよ」
「それは……表向きの理由、ですよね?」
「……どうしてそう思うのかしら?」
「だってシグマの下に集うからって、元々の立場を考慮しない必要はないじゃないですか。シグマが隊長なのだとして、貴方はその次の立場で、私は一番下の立場であっても問題ないはずなのに、貴方はなぜか対等になろうとしている。私がわからないのはそこなんです。どうして対等であることを重要視しているんですか?」
ハウルはそこまで言って、ようやく自分が何に苛ついているのかを理解した。
対等を、平等を謳っておきながら、その実、重要な内容は開示しようとせず物事を進めようとする、その矛盾したやり口が気に入らなかったのだ。
勿論、情報を隠すこと、小出しにすることは、ルカにとっての考えがあるのだろう。
だけど、それより先に気づかれてしまっては、意味が無い。
「…………」
答えは返ってこず、再び場を沈黙が支配する。
―――あれ、なんか私、勢いに任せてとんでもなく失礼なこと口走らなかった……⁉
やがて湧いた熱も冷めていき、ハウルが自分のやったことを振り返っていい感じに冷や汗をかき始めた頃。
ルカがハウルに差し出していた紅茶をそっと地面において。
ようやく、口を開く。
「……その、……この理由を話す前に、ちゃんと約束して。今から言うことは、他の誰にも口外しないって」
彼女にしては珍しく、どこか言い淀んだ声。
その反応に首を傾げながらも、ハウルは「わかりました」と頷く。
「よろしい。ならば最初に確認するけれど、この部隊を造った理由の一つとして、『シグマが自由に行動することができる』ということがあるとは言ったわよね?」
「はい。シグマを無所属のまま動かすのは、様々な制約に引っかかるおそれがあるからって」
「そう。それは言い換えてみれば、この部隊は常にシグマを十全に近い状態で動かすために必要な機構でもあるの。そのために、構成される部隊員も限られた者に限定された。本来なら部隊員そのものがいない方が良かったのかもしれないけれど、たった一人しかいないものを部隊と呼ぶわけにはいかなかったから」
その結果として、現段階のストレリチア部隊には、シグマの動きについていけるであろうルカとハウルだけが編成されている。
「けれど、人数が増えるということは、即ちシグマにとって背負うもの、守るものも増えるということ。下手をすれば、私たちの失敗が連鎖して部隊の壊滅にも繋がるおそれがある。それを防ぐためには―――それぞれ部隊各員が緻密な連携を取らなければならないのよ」
「あ……」
そこまで言われて、ようやくハウルはルカが言わんとすることに気がついた。
「今の私と貴女との関係では、とても円滑な連携なんて無理でしょう」
彼女の言う緻密な連携とは、互いに高水準の信頼があってこそ成り立つものだ。
それを欠いた連携は、もはや目も当てられない、ともすれば初めから連携など取らず単独行動であった方がマシと思えるような、悲惨な末路を導いてしまう。
その問題を、ルカはストレリチア部隊の設立を決定した時から危惧していた。
「ええ、白状するわ。貴女と対等であろうとするのは、決して親睦を深めたいからという理由だけじゃない。これは……シグマの為を想ってのことでもあるのよ」
つまりは、それが全て。
物事が本格的に始まる前から浮き彫りとなる問題を全て把握して。
それの解決に繋げるためなら、絶対的アドバンテージであるはずの立場を失くしてでも、敵国の者と対等であろうとする。
そうしてルカは、彼女の観点から、ひたすらにシグマへの最善を尽くせるように模索していたのだ。
だが、それがわかったところで、ハウルの疑問は不完全燃焼のままだった。
「でも、それならどうして、そうやって言わないんですか?」
「……それは、その……」
またしても歯切れが悪くなるルカ。
やや逡巡した後、自身の紅茶を一気に煽る。そして飲み干したティーカップを下ろして、どこか悔しそうな面持ちで口を開く。
「このストレリチア部隊について、事前にレオンに相談したのだけれど……その時に言われたのよ」
「レオンさんに? 何をですか?」
「『姫様は最近、シグマさんに対してご執心ですね』って……。……おかしな話だけど、そう言われてしまったら、何だかとても恥ずかしくなって……」
言葉がどんどん小さくなっていく。
気のせいか、彼女の顔はひどく赤くなっているように見えた。
「えーと……」
ハウル、今さらながらこの話題について尋ねたことを後悔する。
どうにか言葉を探そうと必死になっていたが、それよりも速くルカが立ち直り「何も言わなくていいわ」と圧を、もとい制止をかけてきた。
「というわけだから。貴女にも腑に落ちないことの一つや二つはあるでしょうけれど、そこは『シグマの事を想って』呑み込んでもらえると助かるわ」
「シグマの事を、ですか……」
「ええ、それなら容易いでしょう? 貴女自身、彼のことを気に入っているみたいだし」
「なっ⁉」
思わぬ返り討ちに、頬を紅く染めて面食らうハウル。一方で、ルカはその様相を見てしてやったりとにやけていた。
「図星の様ね」
「い、いや、それは……」
「無理に弁明しようとしなくても大丈夫よ。そこまで取り乱すほど脈があるのなら、相応の関心を寄せていることに他ならないもの。少なくとも無反応でいられるよりはずっと安心できるわ」
もはやこうなってしまっては、ハウルに挽回の機はやってこないだろう。彼女の緊張と羞恥で上手く回らない口でルカを言い負かすことは不可能に近い。
そうしてひとしきりハウルをからかい終えて、ルカは浮かべた微笑みはそのままに、けれど口調は少しだけ真剣さを取り戻して、こう言った。
「さて、とりあえずこれで、貴女の求めた理由も全て開示したわ。だから次は、貴女の番よハウル」
そうだ、彼女はハウルの要求に応じて、その真意を隠すことなく告げた。もはや明かされた理由の中に、不透明な部分は何もない。
であれば、ハウルは応えなくてはならない。
「貴女は、今度こそ私の紅茶を受け取ってくれるかしら?」
床に置かれた紅茶を再び手に取り、ルカはそれを差し出してくる。ハウルはその紅茶を少しだけ見つめていた。
受取ることに、若干の迷いはあった。頭の中はいろんな考えがごちゃついて、当の本人にすら何が正しいのかわからない。
でも、だけど。
―――〝シグマの為を想って〟
その言葉が脳裏を過ぎった突端、目の前の王女を信じたいという気持ちが強まった。
かつて、シグマの力になりたいと願った。その願いは今でも色褪せずに残っている。
そしてその願いは、二人でならもっと鮮やかに叶えられると思ったのだ。
だから、
「……はい、ありがとうございます。その、ルカ……さん」
差し出された紅茶を受け取り、勇気を振り絞ってそう言った。
一瞬だけ、ルカと呼ばれた彼女の目が丸くなる。どうやら驚いてはくれたらしい。
「その、やっぱり出過ぎた真似だったでしょうか……?」
踏み込み過ぎたか、と後悔が走るハウルだったが、やがてルカは口を綻ばせて首を横に振った。
「いいえ、貴女にそう言ってもらえたことに少し面食らってしまっただけよ。同じ対等な立場の仲間なのだもの、むしろそう呼んでもらえた方が嬉しいわ」
「じゃ、じゃあ……!」
「けれど、点数としては六十点ね」
「えぇ⁉ 何でですか⁉」
「だって相も変わらず敬語を使っているし、緊張の姿勢も崩れていないもの。……正直ついさっきまで諦めかけてはいたのだけれど、貴女が私を愛称で呼んでくれたことで兆しが見えたわ。このまま談笑を盛り上げて、より互いの間を埋めていきましょう☆」
なんということだ。ハウルが死に物狂いで取った行動が、よりによって茨の道へ連れ戻されることになってしまった。
ぱくぱくと口を開閉させるハウルに対し、ルカは心底愉しそうな微笑みを向けた。
「そうね、最初の談笑のテーマとしては、貴女の反応が良かったシグマの話題にしましょうか。時間はまだまだありそうだもの。是非とも面白い話を聞かせて頂戴」
「か、勘弁してくださあああああああああああい!」
ハウルの悲痛な悲鳴が森の中に木霊する。
けれどルカの言う通り、シグマが戻ってくるのはかなり後になることだろう。つまり、それまでの間、ハウルは沈黙の方がマシであったと思うほどの話の追及を受けることになるのだ。
果たして全ての結果が出るときに平常を保てているか、甚だ疑問である。
まあ、何はともあれ。
少なくとも当初に合った深い溝は、気持ち程度には埋まったらしい。