隊長として
「もし狩られた者たちの後を追う気が無いのなら、今すぐ去れ。それでもなお奥へ踏み入ろうとするならば、私は全霊を籠めて牙を剥く」
そう言い残すと、声の主は後方へ飛び退いていった。木の枝葉を跳び渡っているのか、葉が激しく揺れる音が徐々に遠ざかって聞こえてくる。
「……交渉は失敗。あちらとしても、最悪の印象を持っているみたいね」
ひとまず襲われることはないと判断したか、戦意の解けた声でルカはそう言った。
「なら、あの人を味方に引き入れるのは……」
「けれど、完全に敵意を抱いているわけでもない」
「え?」
すると、ルカはシグマの横に立ち、足元に突き立てられた矢を指さした。
「おそらくあれが本気で殺そうとしているのならば、無意味に地面なんかを射抜いて、なおかつ見逃したりはしないわよ」
それはその通りだと、シグマも思う。
姿形もあやふやな距離で相対していながら感じた、あの背筋を走り抜けた冷ややかな慄き。
あの人物が相当の手練れであることは、明確と言っていいだろう。
では、それほどの実力を有していながら、なぜ彼女はシグマたちを見逃したりなどしたのか。
「……あくまでも中立の立場だって示しているのかな……?」
「あるいは、どの陣営にも所属できない事情があるのか」
「何にせよ、もはやあの人を味方に引き入れるのは無理だろう。少なくともこちらに危害を加えるつもりも無さそうだし、ここは手を引くべきなんじゃないか」
それが友好的な態度であれば、仲間として共に戦ってくれたかもしれなかった。
それが敵意を抱いているのであれば、敵としてここで戦っていたかもしれなかった。
けれど結果は、そのどちらでもなく。あるいはこれが一番平和的な結末だったのかもしれない。
であれば、この先、無意味に戦って血を流すのは愚の骨頂だ。そう思ってシグマは撤退を提案したのだが、
「いいえ、そういうわけにもいかないわ」
ルカはその案を否定した。
「あれは既にアスマジアーニャンの―――他国の軍勢に手を出してしまっている。その時点で、私たちはあの者を放置するわけにはいかないのよ」
「どうして? 見た感じ、あの人は無差別に殺害を行うような人じゃない。おそらく先日のアスマジアーニャンが被害を受けたのも、あの人の縄張りを無理やり通ろうとしたからじゃないのか」
「それが問題なのよ。そもそもにおいて、この森の中に縄張りを持ってしまっていること自体がおかしいんだから」
「……どういうこと?」
すると、その答えは横にいるハウルが口にした。
「大前提として、この森はどの国にも位置していない、本当の意味での中立地帯なんだよ。だから如何なる国の統治も反映されなくて、同時にどのような国の者でも立ち入ることを許されているの」
「そういうことよ。では、もし仮に、某国の行軍が他国への遠征の為にこの森を通ろうとして、その道中にあの者に襲われたりでもしたら、どうなると思う?」
「どうって……」
すでにその人物は、アスマジアーニャンの軍隊を独りで相手取り、甚大な損害を与えている実例を持っている。
であれば、普通の軍勢など成すすべなく、あっという間に壊滅へ追いやられることだろう。その果てに待っている結末など、撤退か全滅かの二択でしかない。
ならば、そうなったときに起こりうる展開とは何か。
「少なくとも私なら、他国の人間に襲撃されたと判断するでしょうね」
「他国の人間? ……あ、もしかして」
そこまで言われて、シグマはようやくルカの言わんとすることに気がついた。
その答えとは、地理的な観点から鑑みれば明白である。
地図上における森からして、最も距離が近しい位置にある国は、リューズビーリア、次いでシレーニェである。他の国々は、少なからず距離があるのだ。
ならば自然に考えて、襲われた者はどの国に敵意を向けることになるだろうか。
「最悪、あの者が他国の者を襲うことによって、リューズビーリアやシレーニェ、或いはその双方に、余計な矛先が向けられることになりうる。そしてそれを悟った敵国に共同戦線を張られてしまったら、戦局は一気に厳しくなるわ」
ましてやリューズビーリアとシレーニェは、この王位継承戦においても珍しいとされる同盟国同士だ。ならば必然、襲われた者は双国の結託により計略に嵌められたと、双国を憎悪することだろう。それはやがて、リューズビーリアとシレーニェの四面楚歌を引き起こすかもしれない。
つまり、森の奥底へ戻っていったあの人物は、たった一人で二つの国を窮地に陥れる可能性を秘めているのだ。
「……それは、マズいな」
ただでさえ予測の付かない王位継承戦。そこにあらぬ方向からの流れ矢が飛んでくるともなれば、もはや勝利には一縷の希望も見出せないだろう。
「ええ、だからこそ放置はできない。生け捕るか、それも叶わなければ殺してでも、あの者の行いを止める必要がある」
「ともかく、話はしないといけないな」
「でも、そのためには……」
三人そろって、森の奥を見る。
どこもかしもも薄暗く翳っており、その上四方八方に木々が林立して視界の条件としては最悪に近い。闇討ちを仕掛けるのであれば、最適な環境と言えるだろう。
「ここで決めあぐねていてもしょうがないわ。このまま時間が経過して陽が沈んでしまえば、帰ることさえも難しくなってしまう。暗中模索なんて状況に陥らないためにも、早々に決着をつけないとね」
そういうルカは、いつでも抜刀できるように、自らの剣の柄に手を置いていた。
そしてハウルも、彼女の魔術兵装である『摂理を統べる魔導の書』を展開して、自身の周囲に浮遊させている。
「さあ、行くわよシグマ」
「わ、私も、頑張りま……頑張る、から」
そして、二人の視線がシグマに向けられた。
双方ともに、臨戦態勢は整っている状態。おそらくこの二人を侍らせておけば、大抵の状況は難なく突破できることだろう。
その頼もしさを理解した上で、シグマは、
「いや、ここから先は僕一人で行く。二人はここで待機していてくれ」
―――この任務を、一人で背負い込むことに決めた。
「……聞き違いかしら。私には待機しろと聴こえたのだけれど」
途端、ルカの目が細くなる。心なしか、その声色も苛ついているかのようだ。
けれどシグマは自身の発言を撤回することなく、肯定した。
「そうだよ。二人にはここで残ってもらってほしい。……一応、これは隊長命令ということで」
「理由を訊いてもいいかしら?」
「えっと、待機の理由はそれぞれ違うんだけど、まずハウルは、闇討ちを受けてしまった時の影響がとてつもなく大きいから」
「影響って……その、私が死んだら、シグマも死んでしまうからってこと? でも、私は常に防壁を張っているから、大丈夫だと思うけど」
「でも、その防壁は絶対じゃないだろう」
言った後で、少し言葉がきつかったと、シグマは後悔する。
だけどここで言葉を濁しても意味はない。これはハウルとシグマ、両方の安否に関わることなのだから。
「加えて、この視界の悪さで分断でもされたら、すぐには合流できないかもしれない。その時に襲われたりでもしたら、僕もすぐには助けに行けないだろう。だからそうなってしまうくらいなら、最初から戦いの場に近づかない方がいいと思うんだ」
「………………そっ、か。そうだよね……」
少しだけ震えていた声。表情は俯いていて伺い知れない。けれど、彼女が傷ついているのはよくわかった。
「……ごめん、別にハウルを悪く言うつもりはないんだ。ただ今だけは、これが本当に最善の策であるはずだから……」
どうしてこうも自分は上手い言い回しができないのだろうと、シグマは自分の言葉選びの無さを恨む。
ハウルを傷つけないように提案したはずなのに、それはハウルを傷つけてしまっては本末転倒だ。
そうならない方法など、いくらでもあったはずなのに。
「なら、私の理由は? まさか私も危ないからの一言で、置いて行こうという魂胆じゃないでしょうね?」
すると、先ほどよりも不機嫌さを増した声で、ルカが訊ねてきた。しかし、シグマは首を横に振って否定する。
「いや、正直ルカには何も心配していない」
「それはそれで癪だけれど……だったら尚更、置いて行こうとする理由がわからないわ」
「だって君の力は、この場所と相性が最悪だろう」
「は?」
思わぬ返答に目を丸くするルカ。それをよそに、シグマは改めて周囲を見渡してみた。
あるのは、木に、葉に、草。
なるほど、よく燃えそうなものばかりだ。
「下手にルカが本気を出したら、かつてない山火事が起こりかねないからさ。そうなってしまったらいろいろ大問題になると思うし、待機させておいた方が安心じゃないかなって」
別の案としては、ルカが魔術を使わずに、自身の剣技や身体能力を用いて戦うことであるが、シグマはこれも口には出さずに却下した。
おそらく、制約のかかった戦い方では、あの者には勝てない。
一度も剣を交えなくとも、そう察することができるだけの可能性を、あの者は秘めている。
そして、ルカも本能的にわかってはいるのだろう。しばらくシグマの目を見つめていた後、やがて諦めたようにため息を吐いた。
「……まあ、隊長命令であれば逆らうわけにもいかないわね。ならば待っている間、私は別の問題を片づけておくわ」
「別の問題?」
現段階で、そのような案件があっただろうかと、シグマが疑問に思っていると、
「ハウルとの親睦の件よ。とりあえず貴方が帰ってくるまでには、その敬語を止めさせておくわ」
「えっ⁉」
まさかの展開に驚きの声を上げるハウル。しかしそんな彼女の反応など、ルカは意に介さない。
「少し前に開けた場所があったわね。そこまで後退するわよ、ハウル。そこで私と紅茶を交えながら談笑しましょう」
「……そ、それって、辞退することは……」
「却下よ。申し訳ないけれど、この命令に関しては私も階級特権を使わせてもらうから」
「そんなぁ……」
王女としての立場からの命令など、リューズビーリアにおいてはあらゆる命令系統の最上位とされるものだ。そんなものを使われては、少なくともこの場の誰にも拒むことはできないだろう。
絶望するハウルの手をとって引きずっていくルカ。その途中で、彼女は首だけを動かしてシグマの方を向いた。
「一応、貴方にも命令しておくわ」
「僕にも?」
「ええ。何があっても、必ず戻ってくること。いいわね?」
思いがけない言葉に一瞬目を丸くするシグマだったが、やがてすぐに頬を綻ばせた。
「約束するよ。……ちなみに、それは特権階級の命令?」
「さぁね。その解釈は貴方に任せるわ」
言いたいことは言ったとばかりに、ルカは再び前を向いて進んで行く。
「シ、シグマ! その……頑張って!」
そして、引きずられるように連れていかれるハウルからの応援に、頷いて応える。
「さて、と……」
振り返り、森の奥深くを見据えるシグマ。
先に進めば、戦うことは避けられない。一歩でも足を踏み出した瞬間、それは確約された未来となる。
そしてそれは、きっと想像を超えて激しいものとなることだろう。
「―――それでも、征く」
こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
王位継承者として、隊長として、シグマとして。多くの荷物を背負ったのだから。
「今さら戦うことを恐れたりはしないって、決めたんだ」
そしてシグマの足が、突き立てられた矢の、先の大地を強く踏む。
これより双方の停戦勧告は無に帰した。
先に待ち受けるのは、互いの命を消費して繰り広げる死闘だけ。
その予感を身に受けながら、シグマは懐の儀式剣を強く握った―――
次回から一週間ごとの更新とします。