フォレスト・ハンター
同時刻、森の深層域にて。
深緑生い茂げる空間に場違いにも建てられた、唯一の人工物である小屋。
その中で、少女は壁に掛けられた弓と銃を組み合わせたかのような武具―――クロスボウを手に取った。
「……何か、来るか」
少女とシグマらの距離は今なお遠く離れたまま。邂逅までにはまだ幾何かの時間を要するような位置関係。
それでも少女は、誰に教えられるまでもなく彼らの来訪を予見した。
「何にせよ、お引き取り願わねばならないな。此処は不用意に足を踏み入れていい場所じゃあない」
自身の事を棚に上げて、少女はそう呟いた。そして手に持ったクロスボウの具合や感覚を確かめる。
追い返すだけというのに、殺傷能力のある道具を持ち出す意味。
それが用いられるのは、互いの意思が平行線のまま決裂した時だ。
「もしもそんな簡単なことが理解できないのであれば、その時は自身の命を以って犯した過ちを知ることになるだろう」
張り詰められた弦が指で弾かれ、甲高い振動音が小屋の中で反響する。
それを確かめて、少女は小屋の出入り口である戸へ向かう。
その最中、衣服掛けに掛けられた、ボロ布のような黒の外套を身に纏って、狩人は出撃する。
戸は開け放たれ、人外染みた跳躍の気配。
されどその姿は、まるで影に溶けたかのごとく、見えなかった。
◇◆◇◆◇
そして、初の出撃命令を出して森に入り十分後。
ストレリチア部隊の面々は、それぞれ重々しい表情で森の中を進んでいた。
彼らの表情の原因など言わずもがな。シグマは頭上を仰ぎ嘆息する。
あちこちに林立する木々は、頭上で互いの枝葉を組み合わせるようにして、自然の天蓋を創り上げていた。森に入る前には確かに在った快晴の天気も、ここからでは枝葉の隙間から零れる日差しくらいしか確認できない。
さらに、森は奥に進めば進むほど木々の密度を増していき、それに比例して薄暗くなっていく。シグマとハウルが迷ったあの辺りでは、まだ日差しの恩恵を受けていたというのに。
こうした昼なのに薄暗いという時間的矛盾を持つ景色は、見る者すべてに心理的な不安を与えていく。
ましてや今は、敵か味方かも定かではない人物を探している最中。どこに何があるのか、誰がいるのか、そもそも未だその場に留まっているのか、何もわかってはいない。
ただわかるのは、アスマジアーニャンの軍勢が進軍したとされる痕跡だけ。その進行方向と逆走することで、おそらく彼らが襲撃を受けたとされるであろう場所へ向かっている。
とはいえ、このまま緊張を抱えて長時間歩き続けるとなれば、プレッシャーが精神を蝕み、万が一目的の人物と戦闘になった際に、致命的な隙を生み出しかねない。
そこでシグマは場の雰囲気を和らげるためにも、適当な話題を振ることにした。
「そういえばさ、二人とも虫とか大丈夫なの?」
それは、この森に入る前からシグマが気になっていたことでもある。
これだけ広大な自然環境であれば、当然ながらその中では虫というカテゴリの生物も繁栄しているだろう。実際、これまでの道中で何度か蜘蛛の巣らしきものに身を巻かれているシグマである。
とはいえ、彼はさほど虫というものに抵抗を抱くような人間ではなく、むしろ自身の知識とはかけ離れた姿形を持つ虫を見かけたときには、無意識ながら興味を抱いてしまうほどだ。
だが、あくまでもそれはシグマだけの話。後ろを付いてくる二人がどうであるかは知らないし、大抵の女子は虫嫌いというイメージもある。そのため、ここまで続いた沈黙は、そうした虫への嫌悪と警戒が由来しているものであると考えていたが、
「私は平気よ。時おり目障りな存在がいるのは確かだけど、火で炙れば瞬く間に死ぬし、あまり脅威を感じたことは無いわね」
「わ、私も、魔術の勉強の一環で、大型の虫を媒介にして行う術式とか扱ったことがあるから、大丈夫だと思う」
それぞれから意外な答えが返ってきたのだった。……あまり聞きたくなかった理由を添えて。
「……何というか、それを聞いて君たちの頼もしさが増したよ」
「あらそう。まだこの部隊で戦果も挙げていないのに評価だなんて、随分と隊長さんは気が早いのね」
「評価なんて、そんな上から目線の事をするつもりは無いよ。建前上、隊長って肩書は背負っているけど、実質的には対等な関係だと思っているし」
「……ふーん」
唐突なルカの意味ありげの相槌が聴こえ、思わず振り返ると、彼女は口に手を添えていたずらっぽく微笑んでいた。
そしてその視線は、隣を歩くハウルに向けられる。
「聞いたかしら? 今の言葉を、いつか貴女が恥ずかしげもなく嘯いてくれると嬉しいのだけれど」
「へぇ⁉ わ、わわわっわわわたしがですか⁉」
予期せぬ方向から飛んできた要求に、ただでさえ緊張で動きの悪かったハウルの手足が完全に硬直する。
そんな彼女の様子に、ルカは眉をひそめた。
「ダメね。全体的に緊張してガタガタだし、この期に及んでまだ敬語を使っている……これはもう、荒療治しかないかしら」
「ひぃっ⁉」
ルカの不穏な物言いに、目に見えて怯えるハウル。
……二人の仲が進展するのはシグマとしても望ましいところであるが、こうも一方的だと本当に大丈夫なのだろうかと思ってしまう。
というか、二人の親睦の妨げの要因として、ルカの物騒な言い回しも原因になっているのではないだろうか。
「ちなみに、荒療治というと?」
再び目の前に現れた蜘蛛の巣を払いながら、シグマはルカの言わんとすることを訊ねる。
「そうねぇ、やはり一番手っ取り早いのは、二人っきりで紅茶を交えながらお喋りをすることだと思うの」
意外にも出てきた提案は至極平和的なもの。しかし、ハウルの心情からすれば、それは死刑宣告にも等しい地獄であることだろう。
まあ、彼女の精神状態からすれば、ルカの大抵の発言が死刑宣告になるだろうが。
「物は試し。一度機会があれば試してみましょう。いいわねハウル?」
ハウルは返事をしない。ただ陸に打ち上げられた魚のように、パクパクと口を開閉するだけだ。
それを無言の肯定と受け取って、ルカは再び前へ向き直る。
「そういうことだから、この任務が完了したら、一日だけ休暇を頂き願うわ。隊長は了承してくれるかしら?」
「それくらいなら別に構わないけど……その、お手柔らかにね?」
「こういうのは、やり過ぎるくらいがちょうどいいのよ」
シグマなりに助け舟を出したつもりだったが、どうやら取り付く島は無いらしい。
ちらりと後方のハウルを見てみれば、彼女は必死めいた目でこちらに救援を求めていた。
(まあ、ルカも悪意を持って言ってるわけじゃないし)
仮に二人きりの談話になったとして、よほどのことが無い限りは物騒なことにはならないだろう。ならないと信じたい。
というわけで、残念ながらハウルの救援を受けることはできそうにない。そういったニュアンスで肩をすくめると、ハウルはがくりと肩を落とした。
その様子に苦笑しながら、彼は再び前を向いた。
その時だった。
「―――ッ、シグマ!」
突如、森に響いたルカの怒声。
次の瞬間、シグマの足下目掛けて矢が突き立てられた。
「ッ⁉」
慌てて後方へ飛び退くシグマ。
すぐさま矢が飛来してきた方角を見やる。すると、視線の先にある木の枝に立つ人影が見えた。
「―――それは警告だ」
人影は極めて厳かな声色―――凛とした女性の声だった―――でそう言った。
「命が惜しければ、今すぐ来た道を引き返せ。そうすれば追うような真似はしない。だが……」
一息の間。瞬間、声は格段に底冷えを増す。
「もしもその矢を踏み越えて先へ進むのであれば、命の保証はない」
明確なる殺意。理由は不明であるが、どうもシグマたちは知らない間に琴線に触れるような真似をしてしまったらしい。
「待ってくれ! 僕たちは争いに来たわけじゃない!」
どうにか場を収めようと、シグマは必死に自分たちの無害さを語る。
だが、
「私が信じるのは、私の直感だけだ」
「……何だって?」
「少なくとも魔族の気配を宿すお前よりは信用できると、そう言っている」
「ッ⁉」
その言葉を受けて、シグマの背筋をうすら寒いものが走り抜ける。
だって、彼女の言うことは事実だ。シグマの持つ力―――儀式剣『破滅を謳う永劫不落の白装束』は、本来魔物たちが統べるアスマジアーニャン由来のもの。おそらく彼女の言った〝魔族の気配〟とは、この事を示しているに違いない。
だからこそ解せないのが、その事実を如何にして入手ないし察知したかということだ。
シグマはこの森に入ってから、一度として儀式剣の力を解放していない。儀式剣を鞘から抜かなければ、彼はそこいらの平凡な人間と大差が無いのだ。
だというのに、彼女はシグマの力を見抜いた。それも直感というあまりにもあやふやなもので。
「お前たちがここまでやってきたことには見当がつく。大方、先日の魔物たちを襲ったことへの報復だろう」
それを聞いて、ずっと森の彼方を睨んでいたルカがスッと目を細めた。
「ならば、やはり」
「ああ、そうだ。私がやった」
それが虚言ではないことは、素人のシグマにでも感じ取れた。
つまりは、森の奥にいるあの者こそが、当初より『宛て』として探していた人物。
「もし狩られた者たちの後を追う気が無いのなら、今すぐ去れ。それでもなお奥へ踏み入ろうとするならば、私は全霊を籠めて牙を剥く」