お料理教室
「……で」
あれから一時間が経過した。
場所は先ほど同じ執務室。ルカは椅子に腰かけたまま、にこやかな笑みを浮かべて戦慄いていた。その手にある紙の報告書が抑えきれない感情により握り潰されている。
「どうして料理を作ろうとしただけで、ボヤ騒ぎになるのかしら……!」
彼女の視線の先には、赤いカーペットの上で正座をし項垂れているシグマの姿。
デジャヴ。
「違うんだ……僕はただ純粋に味噌汁を作ろうとしただけなんだ……」
「だから何でそれで出火するわけ⁉ おかげで目を通さなきゃならない報告書がまた増えたじゃない! さては貴方、私を過労死させようと目論んでいるんじゃないでしょうね⁉」
そんなつもりは毛頭ない。毛頭ないのだが、結果としてはそうなってしまったのだから、シグマとしても弁解の余地はない。
事の発端は、極めて単純なものだ。
味噌汁を作るにあたって、まず初めに行うべきことは出汁を取ること。料理にからきしなシグマでもそれはわかっていたため、ひとまず水を張った鍋を火にかけて、お湯が沸く合間に出汁の材料を選ぼうとした。
基本的に、味噌汁の出汁の材料としては、煮干し、鰹節、昆布などが挙げられる。シンプルなものなら、どれか一つさえあれば十分な出来の出汁が取れるものだ。
しかしここは異世界。シグマが元いた世界とは何もかもが異なっている世界だ。当然、先に挙げた出汁の材料もそうそうあるわけではない。
城の食糧庫に保存されていた食材は、どれもこれもがシグマにとって初見ものばかり。いったいどれをどう使えばいいのか、本当にここの食材は使っていいのか、そもそもこれらの食材を知っておかないと料理どころではないのでは、などなどと頭を悩ませている内に。
食材を選ぶために離れていた鍋の方で、徐々に強くなっていく火加減に気づくことができず、最終的に調理に用いるために鍋の近くに置いておいた木べらに、大きくなった火が引火。
シグマが気づいた時には時すでに遅し。厨房内に煙が充満し、それをたまたま目撃したメイドが火事と騒ぎ立て衛兵たちに消火の助力を求めたことにより、結果として城中が大騒ぎになったのである。
「まったく! 今回は厨房が少し焦げた程度で済んだから良かったものの、一歩間違えれば大惨事だったんだから! そもそも火の下を離れるとか、料理に不慣れとか以前の問題よ!」
「……返す言葉もございません」
「火を甘く見てると、いつか痛い目を見ることになるわ。それを今回の件と併せて、心に刻んでおきなさい!」
痛い目に関しては貴女のせいで嫌というほど知ってます、という無意識に浮かんだ言葉は、全力で心の奥底に封印する。
そんなことを口にすれば、まさしく火に油を何とやら。おそらくこの執務室を中心として火柱が立つことだろう。
それに、誰が何と言おうが、今回の件で全面的に悪いのはシグマだ。それを彼自身理解している。今の彼に出来るのは反論や言い訳を考えることではなく、ちゃんとルカからの説教を身に刻んで忘れないようにすることである。
かくして、ルカによる説教はおよそ三十分にわたって続けられた。
「ホントにもう……」
言いたいことを一通り言い終えて、ルカは疲労感満載で椅子の背もたれにもたれかかる。
「今後しばらくは人目のないところでの調理行動を禁止するわ。もし仮にするのであれば、必ず傍に誰かを置きなさい」
「肝に銘じるよ……」
「ならばいいわ。……あとはこの報告書の山に目を通さないといけないけれど……」
ルカが死んだような目で見つめる先には、先ほど彼女が握り潰していた紙を筆頭として執務机に置かれた、辞典並みの厚さを誇る報告書の山々。
「……止めた。さすがに疲れた状態で仕事をしても雑なものになりかねない」
ひとまず一旦の気分転換が必要であると判断し、ルカは目の前の仕事を夜へと後回し、おもむろに椅子から立ちあがった。
「シグマ、ついてきなさい。無知な貴方に料理というものを見せてあげる」
「え、ルカって料理できるの?」
「人並みのものだけれど。少なくとも貴方よりはマシだと断言してあげるわ」
十五分後。
「こんなものかしら」
赤を基調としたドレスの上にピンクのエプロンを重ねた姿のルカは、手に持ったフライ返しをくるくると弄ぶ。
そして、一連の作業を横で視ていたシグマは、目の前に置かれた料理に目を丸くしていた。
柔らかな桃色をした魚肉を薄い小麦粉を纏わせカリカリになるまで焼いた、いわゆるムニエルである。香ばしそうな香りが漂い、シグマの胃を刺激する。
「おいしそう……」
「今日の昼は肉料理だったから、夜は魚にしようと思って。……この後の政務を考えたら時間をかけるわけにもいかなかったから、簡単なものにさせてもらったわ」
言いながら、ルカはエプロンを脱ぎ終え、厨房入口付近のハンガーにかけておく。
「さあ、冷めない内に食べてしまいましょう。焼き魚は熱がある内が華よ」
「そうだね。それじゃあ……」
ルカが向かい側の席に着いたのを確認し、二人揃って両手を合わせる。
「いただきます」
調理の気配を終えた厨房に、二人の挨拶が重なって聞こえる。
そして、シグマは手に取った銀製のフォークでムニエルの中心を一刺し。揚げられた衣が小気味の良い音を立て、ほろりと肉が崩れる感触がフォーク越しに手に伝う。
そのまま、突き立てた一欠けらを口に運んでみれば、湯気と共に立つ香ばしい香りと共に、衣に閉じ込められた魚の旨味が口いっぱいに広がった。
「うわ、美味しい」
「お口に合ったようで何より」
シグマの率直な感想に表情を綻ばせながら、ルカも自らの料理を口に運ぶ。
「うん、料理をするのは久しぶりだったけれど、腕は落ちていないわね」
「久しぶりって……ずっと君の料理を見てたけどそう思えないほどの手際の良さだったよ」
「昔、ニーアさんと一緒に来る日も来る日も練習に励んだもの。あの時に得た感覚は、今でも刻み込んであるわ」
ニーアと言えば、リューズビーリアの軍を率いる大隊長ことレオンの妻である。シグマも彼女とは面識があり、これまで何度か手料理を御馳走してもらったことがあるが、確かに彼女の腕前は本物であると言っていい。
「そういえば、前にレオンさんから、ルカがニーアさんを王室料理人としてスカウトしたいって言わせたとか……」
「ええ、真実よ。彼女の料理に魅入った私は、思わずこの城で調理人として従事しないかって持ちかけてみたのよ」
「たしかにあの人の料理は悪魔的って言っていいほど美味しいもんね。それで、その結果は?」
「残念だけれど。『娘と主人の世話で手一杯なので』ってやんわりと断られてしまったわ」
「なるほど、納得できる理由だね」
「そうでしょう。だから私も貴方みたいに同意したら、レオンは子どもみたく拗ねていたわ」
愉快な過去話に談笑が咲く、和やかな時間。
今だけは重ねた失敗や残った仕事からも意識を逸らすことができる。
そうして話に夢中になっていたら、いつの間にか皿の中身は空になっていた。
「ふう、ごちそうさま」
再び両手を合わせ、食材と、それを調理してくれた者に感謝を示す。
「皿はそのままにしておいて結構よ。あとでメイドたちが片づけてくれるわ」
「わかった」
とはいえ、一応メイドたちが片づけやすいようにと、シグマは皿を重ねておいた。
「……それにしても、ルカはやっぱりすごいな。強くて、仕事もできて、その上こうやって料理もできる」
この世界に来てそれなりの時間が経過して、それに伴って多くの人と出逢ってきた。そうした人たちは何かしら特技や才能を持っていて、凡人めいたシグマの感覚では驚愕することも多々あった。
けれど、その上で。
未だルカを超えるような人間には、出会ったことが無い。
シグマにとって、彼女は即ち目標の最果てでもある。いつか彼女が立っている場所に辿りつくことで、ようやく王として始まることができると信じている。
だが、その道は果てしなく険しい。ここのところ、それを再認識させる事が何度かあったが、今回の料理でもそれを思い知らされた。
「あと、どれだけ足掻いたら、君に届くんだろうね」
無意識のうちに漏れた、弱音にも似た呟き。
しかし、それを聞いたルカはつまらなそうにこう言った。
「何を勘違いしているのか知らないけれど、私の持っているものは、ほとんどが努力の積み重ねによって手に入れたものよ。いずれ貴方にもできるようになるわ」
求めるものに与えるような真似はしない。そうしてしまったら、それは価値が失くなってしまうと、他ならぬ彼女は知っている。そしてシグマもそれを理解しているから、深く追求することはしなかった。
「さて、私はそろそろ戻るわ。息抜きも終えたことだし、今度は貴方が産んだ仕事の山を終わらせないと」
それを聞いて、罰が悪そうな顔をするシグマ。
「……その、何か手伝えることは」
「これ以上何も問題を起こさないことね。そうしてくれれば、私も日付が変わる前に就寝できるわ」
そう言われてしまっては、シグマも何も言えない。実際、仕事のやり方を覚えきっていない未熟な状態では、ルカの足を引っ張ってしまうことは明確である。
せめてもう少し彼女の力になれるよう、早く実力を身に付けようと、静かに決意するのであった。
「ああ、そうだ」
厨房の出入り口を潜ろうとする寸前で、ルカは思い出したかのように声を上げた。
「シグマ、この後ハウルに会う機会はあるかしら?」
「とりあえず蔵書室に様子を見に行こうとは思っているけど。まあ部屋が一緒だから否応にでも会うことにはなるかな」
「ならばその時に伝えておいて」
シグマの方を振り返る深紅の瞳。そこには彼女としての在り方を謳う、厳格な色が灯っていた。
「明日の十時、執務室で今後の方針を決める会議を行うわ。シグマとハウル、この両者は如何なる理由があろうとも出席するように」