ミソ・ハプニング
きっかけは、何気ない発見によるものだった。
雲を従えて天で輝く太陽の下、シグマは城下の街並みを散策していた。
時刻は午後二時半。日中で最も気温が高くなるこの時間帯も、十月を目前とした秋の涼し気な気候では心地よく感じる。
しかし、季節の移り変わりというのはあっという間に行われる。油断していればこの心地いい気温も、やがて凍えそうになるような気温にまで下がっていくことだろう。
シグマが街を巡っているのは、もうすぐ来る冬の寒波に備えての衣装を揃えるためだ。
「ルカが言うには、毎年雪が降るらしいし」
一応、シグマがこちらの世界に来たときに身に着けていたジャケットがあるが、流石に一着だけというのは心もとない。
すでにルカとのスパルタ政務のノルマも終えて、夜までは何も予定が入っておらず暇となっている。お給金もそこそこ貰えて余裕があるので、複数の店を回ってみようとシグマは考えていた。
ちなみに、ハウルはいつもの事ながら蔵書室に籠って魔術研究に勤しんでおり、ルカはレオンと共に兵士たちの訓練の視察に赴くとのことで、残念ながら付き添いは居ない。
「ま、こんな日もあるよね」
さして残念がっていない素振りでシグマは呟き、周辺をぐるりと一望してみる。
そこはリューズビーリアの城下町の一角、様々な品物を扱うお店がずらりと並んだ商店街。あちこちで商人や客の声が飛び交っており、とても活気に満ちている。
「さて、服屋はどこかな?」
道行く人に尋ねるのも一手ではあるが、あえてシグマは自分で探すことにした。せっかくの休息、どうせなら街の活気を味わいながらゆっくりと物見がしたい。
店先に並ぶ食材や小物類を横目で眺めながら、にぎわう人混みの中を抜けていく。
やがて五分もしない内、ようやくシグマは服を取り揃えている店へ辿り着いた。
店の外からでも見えるガラス張りのショウウィンドウには四体の木彫りの人形が並んでおり、それぞれ冬用のコーディネートを設えている。これからの季節に備えての服を探していたシグマにとっては、まさにあつらえ向きと言えるだろう。
「よし、ここで―――」
ひとまず店中でコート類を物色してみようと、店の右端に合った入口の扉に手を掛けようとした。
その時だった。
「はいはいちゅうもーく! たった今、珍しい食材を入荷したよー!」
賑やかな商店街の中でひときわ強く響き渡る、はつらつした少女の声。思わず服屋へ向かう足を止めて声の方を振り返ると、そこには先ほどの呼び掛けにひかれて小さな人混みができていた。人混みの中央では、エプロン姿の少女が手を懸命に振って客の目を集めている。
「なんだろう?」
珍しい食材、という単語にシグマは首を傾げる。別にこの世界の食材は、彼にとって大抵が初めて見る物なので、希少価値がどうとかはわからないが、それでもやはり興味は涌いてしまうものだ。
そこでシグマは一旦服屋に入るのを止め、エプロン姿の少女が勤めているであろう店に足を運ぶ。
その最中、少女はある程度客が集まったことに満足し、高らかと小さな木箱を掲げてみせた。
「じゃーん! これこそは継承者さまの世界から伝わった幻の珍味! 〝ミソ〟と呼ばれる調味料でーす!」
瞬間、シグマの脳に電撃が走る!
「味噌……だって……⁉」
かつてない衝撃に手足が震え、歯はカチカチと音を鳴らし始める。
それもそのはず。味噌とは大豆などの穀類に塩と麹を混ぜて作る発酵食品であり、古くから日本に伝わる、伝統的な食材の一つである。特に味噌は、歴史の推移と共に忘れ去られた他の伝統食品とは違い、新時代を迎えた今となっても日本人の食文化に深く深く根付いている、まさに日本を代表する食材と言えよう。出汁と合わせて味噌汁を作るのは言わずもがな、他の食材と合わせれば味を深め、味噌そのものを軽く焼けば酒に合うつまみにもなる、万能食品。さらに近年では味噌が健康食品としても注目され、日本人だけでなく外国でも名を上げ始めており――――
とまあ、日本人(と思われる)シグマには、それだけ馴染みのある食材なのだ。
ましてここは、彼の常識から離れた異世界。まさかここでMI☆SOに出会えるとは夢にも思わなかった。
「入荷数はなんとたったの十箱! なんせ貴重だからしかたないよね! さぁさ、早い者勝ちだよー!」
それを聞いた瞬間、身体は脳の制御を外れて駆けだした。
もはや冬用の服など眼中に無い。今やシグマの脳内は全て味噌色に染まっている。
しかし、その道のりは果てしなく険しいものだ。
「くっ、人が多すぎる……!」
すでに場は少女の呼び掛けに応じて多くの人が集まった後。悠長に後からやってきたシグマの前には、押し退けることも困難な人混みができている。
そして厄介なことに、最前列では我先にと購入の意思を叫ぶ者も多くいた。このままではただでさえ少ない味噌が、手に入ることなく消えてしまう。
「さあ、残りわずか! 我が国の継承者さまと同じ味覚を共有できる勝者は誰になるのか!」
シグマの焦燥を知らず、少女は客を煽りに煽る。そのせいで集った人混みのボルテージは徐々にヒートアップしていく。
一つ、また一つと消えていく味噌。
少女は『世にも珍しい食材』と称していた。もしかしたらこれを逃せば、次は本当に無いかもしれない。
「そんなの、ぜったいに―――!」
このままでは埒が明かないと判断したシグマは、上着の懐にある儀式剣へ手を伸ばす。
もはや彼の思考はおかしくなっていた。
「いやだ!」
そして、勢いよく儀式剣を引き抜いた。
『ハハハハハハハハハハハハハハハハ! また新たなる戦いの幕が開けたか我が主! さあさ、此度はどのようにして…………なんだこれは』
なにかこう、期待を膨らまして注文したのに出てきた料理が全然別ものだったとでもいうような意気消沈ぶり。目の前の乱痴気騒ぎにシャルベリアは肩透かしを食らう。
たまらず彼女は担い手に説明を求めた。
『……おい主、貴様何の為に我を呼び出した?』
「味噌汁! 味噌カツ! 味噌田楽ッ!」
『は?』
シャルベリアの本気の困惑の声と共に、シグマの身体から白の触腕が顕現する。
この後、市場が大騒ぎになったのは言うまでもない。
◇◇◇◇◇
「……それで、何か弁明はあるかしら?」
一連の出来事が書かれた報告書に目を通しながら、ルカは極めて低いトーンの声で訊ねた。
場所は彼女が政務を行う執務室。
執務を行うための机と執務室に入る扉を繋げるように伸びた赤いカーペットの上で、シグマは正座をさせられていた。
「それについては本当に申し訳なく思っている。だけど、後悔はしていないんだ」
逃げも隠れもしないと言わんばかりに、ルカを見返すシグマ。彼の前には小さな木箱が一つ置かれていた。
「これを手に入れるためにどんな手段も厭わないって決めた。それだけ価値があるものなんだ、この味噌は!」
「そういうこと聞いてるんじゃないわよこの阿呆!」
自信ありげに木箱を掲げてみせたシグマに対して、ルカは額に青筋を浮かべて立ち上がり机を思いっきり叩く。
「貴方、よりによって民衆の目の前で儀式剣の力を使ったそうじゃない! 馬鹿じゃないの⁉ そんなことをしたら瞬く間に騒ぎになるってわからなかったわけ⁉」
「いいや、わかってる。でも、そのリスクを犯してでも僕は味噌を手に入れたかったんだ!」
「なにを自信満々に開き直っているのよ⁉ こっちは貴方のせいで余計に仕事が増えて、見なくてもいい報告書に目を通さないといけなくなったんだから!」
「だからそれについては本当に申し訳ないと思っているよ。僕もその仕事は手伝うから、それで許してもらえないかな?」
「碌に仕事も覚えてない奴が手を付けたところでいい結果にならないのは目に見えているし、そもそもそういう問題じゃないでしょうがあああああああああああああ‼」
夕暮れの日差しを浴びて茜色に染まるリューズビーリア城に、なんとも元気な主の声が反響する。
一通り怒鳴り散らしたルカは、これ以上は無駄だと悟り、肩で大きく息をしながら再び席に着いた。
正直、要らない仕事を負ったせいで疲労はそこそこに溜まっているのだ。これ以上さらに余計な深追いをして疲労を溜めたら、最悪明日以降にまで響きかねない。
「……それで、そうまでして貴方はそのミソとやらが食べたかったわけ?」
ルカは改めてシグマが後生大事に抱える木箱に目を向ける。
「確か貴方の世界の食べ物よね? 私も口にしたことは無いけれど」
「うん、厳密には調味料だけどね。日本では……その、僕の世界にある国の一つでは、これは五大調味料の一つとしてなくてはならないものだったんだ」
「そこまでの代物なのね。少し拝見させてもらってもいいかしら」
シグマは立ち上がり、ルカの下へ木箱を運ぶ。そしてそれを机の上に置き、まるで宝石を取り出すかのように慎重に蓋を開ける。
途端、姿を見せる赤茶色の粘土質の物体。いわゆる赤味噌というやつだ。
「うっ……!」
蓋を開けたことにより広がる味噌の香りに、ルカは顔を顰めて鼻を手で覆った。その様子にシグマは首を傾げる。
「どうしたの?」
「何よ、この臭い……」
「ああ、いい香りだよね」
するとルカはぶんぶんと首を横に振った。
「私にはとてもそう思えないわ。悪いけれど臭いがキツイものは苦手なの。早くその蓋を閉めて」
どうやら本気で味噌の香りがお気に召さなかったらしい。シグマは「これがいいのに……」と残念そうにしながらも蓋を閉めた。
「ふぅ……。それにしても、それが調味料なのね。どうやって使うのかしら?」
「一番オーソドックスなのは出汁に溶かして作る味噌汁だよ。あとは魚や肉に塗ったり、味噌自体を焼いて食べることもあるかな」
「それだけ臭いがキツイと、他の食材の風味を阻害してしまいそうだけれど」
「案外そうでもないよ。そりゃあ量を間違えれば全部味噌味になっちゃうけど、適量で扱えばむしろ食材の風味を引き立ててくれる」
「塩と同じ扱いということね。少し興味が出てきたかもしれないわ」
すると、ルカは期待を籠めた眼でシグマを見た。
「ねえ、試しにそのミソシルとやらを作ってくれないかしら?」
「え?」
「貴方がそこまで躍起になるほどの食べ物なんだもの。是非とも私も食べてみたいわ」
「……えーと……」
「そうね、その出来栄え次第では、今回の不祥事に関しても不問に処してあげる」
「いや、その、ルカ。僕は……」
「お願いね」
有無を言わせぬルカの期待に満ちた眼差しに、シグマは何も言えなくなる。
「料理をするのなら厨房を借りるといいわ。今の時間なら、まだメイドたちも使っていないだろうし」
着々と味噌汁を創るための手立てが整えられているが、シグマは内心焦りを隠せないでいた。
そもそも、大前提として。
彼は料理をしたことが無いのである。
思い返せば、この世界で初めて口にした食事は森で見つけた木の実をまるかじりという、料理のりの字も見当たらないお粗末なもので。次いでこのリューズビーリアに訪れてようやく出逢えた料理の数々も、どれもがメイドや店主が作ってくれたものばかり、と。
要するに、料理を作る必要が無かった。
そういうわけなので、シグマは料理ができるのかできないのか、上手いのか下手なのか、彼自身すら知るところではない。
しかしその事実を告げる間もなく、去れるがままにシグマは執務室の外へ追いやられてしまった。彼はドアの前で味噌の木箱を抱えたまま、呆然と立ち尽くす。
「い、いや、やる前から諦めちゃダメだ。何事も挑戦するなら、前向きにいかないと」
頭を振って不安を払い、及び腰になっている身体に喝を入れる。
「そもそも料理をやったことが無いんだから、結果もどうなるかわからないんだ。もしかしたら僕の中に天才的な料理の才能が潜んでいて、今からそれが開花するのかもしれないし!」
どうも今日のシグマの思考能力は著しく低下しているらしい。
しかし本人はそれで気合と自信がついたのか、意気揚々とした足取りへ厨房へと向かっていく。
「ルカの舌を唸らせるために頑張るぞ!」
そんな、無謀極まりない目標を掲げながら。