無意識のうちの悪意
もう何度、『吹き荒ぶ嵐の咆哮』を発動させただろう。
もう何度、それで生み出された暴風に吹き飛ばされただろう。
回数なんて覚えていない。正確に数えてみればさほど多くはないだろうが、そもそも今のハウルにそれを数えている余裕なんてまるでなかった。
それもそのはず。
「ハハハ! なるほど、貴女は私との一対一を望んでいるんですね! いいでしょう、それでは今日は実戦の交えた講義としましょう!」
鼓膜に響く、かつて敬愛していた恩師のひどく愉しそうな笑い声。敵であるハウルに眼前にまで接近されているにも関わらず、その声音には一切の焦りが含まれていない。
それは当然だ。なぜならヅィーヴェンにとって、ハウルの実力は脅威足りえない。
魔術における知識も、経験も、実力も、全て彼の方が勝っている。
そもそも、ヅィーヴェンはもともとハウルの魔術講師だった。自身の持っている知識を授け、彼女の持ち得る才能を最大限に開花させる―――それこそが彼の役割のはずだった。
だが、彼は裏切った。仕えていた王を裏切り、与えられた使命も放棄し、教え子の期待さえも裏切った。
そのため、長い時間をかけてハウルに教えていくはずだった魔術は未完成のままで、彼女は基礎中の基礎魔術しか使えない。
それは逆に言えば、ヅィーヴェンは彼女の使えない魔術をいくつも使うことができるということ。
その実力差は絶望的なほど圧倒的。どんな奇跡が起こっても、ハウルは彼に勝てはしない。
「それでも稼ぐ! 一秒でも長くッ!」
ハウルが求めたのは時間稼ぎ。ヅィーヴェンを少しでもシグマから遠ざけ、少しでも長く秒数を稼ぐ。
自分では勝てないのなら、勝てる可能性を持つ彼の素質に全てを懸けた。もしも彼が儀式剣の担い手となり、継承差の持つ特異な力を操れるようになれば、あるいはヅィーヴェンを踏破できるかもしれない。
そのためには時間が必要だ。彼が儀式剣を御せるようになるまでの時間が必要だ。
故に、彼女はしゃにむに距離を稼ぎ続ける。たとえ心を莫大な恐怖が覆い尽くしていようとも、窮地に立たされた生存本能は、ここまでミスの一つもなく魔術の起動を成功させ続けた。
(でもまだ足りない、安心できない! もっと遠く、もっと向こうの彼方まで―――!)
だが思い上がることなかれ。たしかに彼女はここまで一つのミスも無く成功させてきたが、その要因は彼女の手腕とは言い難い。
ハウルがここまで来れたのは、単にヅィーヴェンが自身の優位によって慢心し、一切の妨害を行わなかったためだ。
なぜなら彼は嗤っている。身を挺して突撃してきたハウルの必死さが、ひどく愉快でたまらないというように。
「いや、愉しませてもらいました。教え子の無様でありながらも健気な姿は、講師としてとても感慨深いものです。……ですが、児戯はここまでとしましょう、ハウル。これからはいつものように講義を始めます」
そして遂に、ヅィーヴェンが動く。
彼は張られた防壁越しに、ハウルの頬へ添えるように手を翳すと、
「術式限定起動―――『陽は求めず、闇夜を讃えよ』」
突如、彼の掌から影が溢れたかと思えば、炸裂音を奏でて爆散した。
「きゃあッ⁉」
爆発の規模とは裏腹にその衝撃は凄まじく、至近距離で喰らったハウルの脳を容赦なく揺さぶった。
防壁のおかげで頭蓋が四肢を残して消失するという事態は避けられたが、それでも衝撃までは消すことはできない。衝撃によって軽い脳震盪を引き起こしたハウルは、一瞬だけ意識が朦朧となり、その際に手足の感覚が消失して掴んでいたヅィーヴェンの服を放してしまった。
「あ……っ!」
そのまま、あれだけ密着していた二人の距離が遠ざかる。そしてハウルは満足に受け身も取れぬまま地面を転がった。
「う、ぐ……」
視界が回っている。地面がプリンのように波打っている。とても立ち上がれそうにない。
それでもハウルは懸命にうつぶせの状態から起き上がり、未だ目眩の残る視界でヅィーヴェンを捉える。
悠長に回復を待つことは許されない。ただでさえ能力実力その他諸々が劣っているのに、隙なんて見せようものなら瞬く間に狩られてしまうだろう。
幸いにもハウルが彼を捉えている間に、気持ちの悪い症状も和らいできた。
だが、依然として脅威は去っていない。むしろ状況が変わった分、その脅威も増している。
「いい目をしますね。それでこそです」
フードの奥で、ヅィーヴェンは薄く嗤う。ハウルが戦闘態勢を取っていることが心底愉しいらしい。
しかし、ハウルの戦闘態勢は格好だけを取り繕った見掛け倒しだ。まだ完全に目眩が回復していない以上、彼女は万全の力を振るうことはできない。あと少しだけ、回復のための時間が必要である。
そこでハウルは、クーデター時からヅィーヴェンに対して抱いていた疑問を訊ねることにした。
「……なんで、先生はお父様を裏切ったんですか? 先生は頭がいいから、きっとあのゴブリンみたいに〝楽しいから〟なんて簡単な理由で裏切るはずがない。でも、だからこそ先生が裏切った理由がわからない。……先生は誰よりも国の為に尽くしていると思ったのに……!」
知らず、ハウルの目じりに涙が溢れる。その声音は悲痛で震え、今にも泣きだしてしまいそう。
脳裏に浮かぶのは、まだ彼女が信頼を寄せていた頃のヅィーヴェンの姿。彼は誰よりも国に尽くすことを誉と誇り、いつだって王の前では揺るぎのない忠義を誓っていた。
だが、今のヅィーヴェンは変わってしまった。別人と言っても過言ではない。
すると彼は顎に手を当て、思考の素振りを見せる。そして一秒後、
「裏切った理由、ですか。そうですね……敢えて言うならば〝国の為〟ですよ」
その答え、ハウルにはどうしても戯言にしか聞こえなかった。
「ふざけないでくださいッ‼ クーデターをしでかしておいてッ、いったい何が国の為なんですか⁉」
「何が? 決まっているでしょう。新しき我が王が、です。
私はねハウル、何時如何なる時もあの国の為に生きている。あの国がさらに発展するための方法を日々思考し続けている。そして今回の叛逆は、考察と自問を繰り返した結果なんですよ」
答えるヅィーヴェンの言葉は、聞いているのが苦痛なほどに嘘が無い。
彼は本気で、叛逆したことを最善と信じているのだ。
「私はあの方こそが王に相応しいと確信した。ですが、今の環境では王になる前に朽ちてしまう。それだけは何としてでも阻止しなければならなかった」
「だから、先生は独断で軍を動かした。そんな不当な方法で、新しい王様を作り出すために……!」
「一つだけ訂正させてもらいますがね、軍を決起させたのは紛れもなくあの方の手腕によるものですよ。ハウル、貴女には知り得ないことでしょうが、あの方は王として計り知れない素質を秘めている。あの方が王になりさえすれば、必ずや我が国を更なる発展へ導いてくれるでしょう」
「私はそうは思いません」
「もとより言ってわかってもらえるとは思っていませんよ」
ヅィーヴェンは初めから、説得によってハウルに改心してもらおうとは考えていない。もし少しでもそんな考えが残っているのなら、昨日の時点でゴブリンたちを派遣することはせずに、自ら赴いて新王の素晴らしさを語っている。
そうしなかったのは、説得が無意味だということを理解していたというからだ。
ならば、相反する思想の相手に、自分の理想を押し付けるにはどうするべきか。
調教、洗脳、催眠、暗示……意にそぐわない人間を屈服させる方法など数多と存在する。
たとえその手段がどれほど非人道的なものであっても、彼らは意に介さないだろう。
「ハウル、貴女を城へ送還します。そしてあの方の威光を目の当たりにし、あの方の下で尽くしなさい。この決定に、貴女に拒否権はありません」
ヅィーヴェンの眼に、獰猛な色が宿る。その威圧に、たまらずハウルは一歩後ずさった。
「ですが、このままいけば呆気なく終わるのは明白ですし、それは面白くありません。そうですね、では余興がてら、当初より提示していた講義を行うとしましょう」
「……講義……?」
「ええ。科目は実戦、講師は私、講義の中身は私と貴女の一騎打ち。ですが実力に絶望的な差が存在しますので、私はこの防壁と掌までの魔術しか使用しないという縛りを課しましょう」
それは相手の力を侮蔑するレベルのハンデだった。
ヅィーヴェンはハウルを一切脅威と感じておらず、それ故にこんなバカげた条件を提示できるのだろう。
だが、それはハウルにとってはチャンスでもある。
今の彼は完全に強者の愉悦に酔っている。その油断こそが、彼女が回天を得るための足掛かりになりうるかもしれない。
それに、もとより逃げることは叶わない。ここから逃げ出してもすぐに追いつかれてしまうだろうし、何より彼女には時間を稼ぐという役目がある。
逃げ出すよりは、立ち向かう方がいい。ハウルはそう結論付け、ヅィーヴェンの提案に同意した答えとして、『摂理を統べる魔導の書』を展開し、臨戦態勢へと移行した。
目眩も完全に回復している。四肢も問題なく動き、戦闘するには何も不足はない。
ヅィーヴェンはハウルが戦闘態勢を取ったのを確認すると、感服したような息を吐いた。
「それでこそです。―――それでは、実戦の講義を始めましょう!」
かくして教師と生徒は、戦闘を開始した。
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初手をヅィーヴェンは放棄した。相変わらずハウルの実力を侮っているからだ。
だが、彼女にその侮辱を糾弾する余裕などない。彼が見せているこの油断こそが、彼女にとっての唯一の好機。それを逃せば瞬く間に倒されてしまうのは明白である。
故に、ハウルはこの戦いにおいて、余分な思考の一切を切り捨てることにした。
実力を侮辱された怒りも、恩師を手に掛ける躊躇も、シグマの無事を祈る心配すらも、自身の行動を縛りうるものは全て切り捨て、精錬していく。
「『摂理を統べる魔導の書』頁切り替え、『闇夜を穿つ眩き閃光』展開と同時に収束!」
ハウルの背後で無数の光弾が積み上がったと思えば、それらが他の光球と融合し始める。数にして五から八の光球が一つとなり、通常時よりもさらに膨れ上がった光球が出来上がる。
これで全体数は減少したが、代わりに個々の威力は格段に増した。
数を重視した攻撃は意味が無いのは、先刻の時点で判明している。どれだけ小石をぶつけたところで、ヅィーヴェンの持つ防壁は破れなかった。
であれば、数を減らして一つ一つの威力を底上げた方が賢明だ。
さらに、全神経を使ってたった一点に狙いを絞る。乱雑で精密な狙撃が難しい『闇夜を穿つ眩き閃光』だが、余分な思考を削ぎ落とし極限の集中に至ったハウルには、それが可能となる。
その集中は、普段では絶対に到達することのない、窮地に陥った者が起死回生を得るために全神経を捧げて至れる極致だ。
この集中は長くは保たないし、そう何度も連続して至れるものでもない。
だからこそハウルは、この一撃に己の全てを賭す。
求めるのは一撃必殺。もはや敵の安否など考慮するに能わず、故にその威力は容赦なく生物を殺しうるものとなっている。
ヅィーヴェンは余裕の表情のまま動かない。おそらく彼はその慢心のために、避けるということはしないだろう。
その油断を突く。既に照準はヅィーヴェンの防壁のたった一点を狙っており、光球も全て射出準備を整えた。
あとはハウルの意志で、光球の猛攻がヅィーヴェンへ襲いかかる。
躊躇も後悔も呑み込んだ。彼女を縛るものは何もない。
そして、
「―――『闇夜を穿つ眩き閃光』一斉総射‼」
森に響いたその言霊が、引き金を引いた。
途端、宙に浮いていた光球の群れが、全て同時に発射される。音速で空を駆け抜けた光球は、そのまま防壁のたった一か所目掛けて同時に着弾した。
衝突の衝撃が周囲の木々を盛大に震わせ、木の葉の雨が降り注ぐ。
ハウルは聞き逃さなかった。衝突の瞬間、轟音の隙間に何かが砕ける音が響いたことを。
それは彼女自身も何度か講義の中で経験したことのある、身を守る防壁が砕ける音と同じだった。
ハウルは光球を防壁の一点に同時に着弾させることで、その威力を最大限まで引き上げたのだ。
たしかにヅィーヴェンの防壁は堅牢であったが、さすがに彼女が生み出した瞬間最大威力には耐えきれなかったらしい。であれば、当然防壁の中にいた彼も無事では済まず、もしかしなくとも絶命の可能性が高い。
そう、おもっていたのに。
「―――なるほど、これはいい攻撃だ。どうやら貴女は、私が考えている以上に優秀のようですね」
聞こえるはずのない、声が聴こえた。
「っ……どうして……⁉」
その光景にハウルは絶句する。
なぜならヅィーヴェンの防壁は、確かに砕けているのだ。青く薄い膜の中央には、いくつもの亀裂周囲に走らせた大孔が開いている。
だけど、攻撃そのものは本人へ届いていない。その寸前で、彼が翳した掌から溢れる影に押し止められている。
「覚えておきなさい。この世界に『防壁は一枚だけ』なんてルールは存在しません。私でなくとも、盾を超えた先ではさらに堅牢な鎧が守護している、なんてことも多々あるんです」
そしてヅィーヴェンは、押し止めていた光球を影で包み、勢いよく圧縮した。バツン! と、まるで悲鳴のような音を上げて光球は消滅する。
「だからこそ一撃に全てを賭せば、防がれた後に対処できなくなる。今の貴女のようにね」
諭すようなヅィーヴェンの言葉が、今はひどく恐ろしく感じた。
だってそれは事実だ。ハウルは今の一撃に全てを賭して防がれた。もう彼女にはヅィーヴェンを打倒する手立てがない。もう二度とない最高の一撃を防がれたのだから、その他の魔術を駆使したところで届くはずがない。
もうハウルは、ヅィーヴェンに勝利することは叶わない。その現実は、容赦なく彼女の心を圧し折る……と、ヅィーヴェンはそう思っていた。
だが、
「なら、今度は―――!」
ハウルの眼はまだ死んでいない。絶望に屈することなく、諦めることなく、無意味な術式を再び練り上げる。
一瞬だけ、ヅィーヴェンは怪訝な表情を見せる。彼女の絶望に打ちひしがれた顔を見れなかったことが不満であり、それと同時に腑に落ちない部分も浮かんだのだ。
(なぜ、彼女は未だ絶望していない?)
そう。ハウルにとってこの局面は、詰みといって差し支えないものであることは明白だ。
だというのに、彼女はまだ抵抗している。
様々な術式を紡いで、光球や嵐の卵などを生み出し、立て続けにヅィーヴェンに向けてぶつけてくる。その威力は、先ほどの渾身の一撃と比べればそよ風のようで、とてもヅィーヴェンの防壁を破れるものではない。
そんなことはハウル本人も百の承知のはずだ。なのに、彼女がそこまで抵抗するのに執着するのはなぜか。
「ああ、なるほど。あの継承者に期待しているのですか」
すぐにヅィーヴェンは気がついた。
「っ……⁉」
一瞬ではあったが、彼女の身体が大きく震えたのを彼は見逃さない。
どれだけ口を噤んでいても、その動揺はどこまでも彼の考察を肯定していた。
「図星の様ですね。しかし、それは前提からして成り立たないでしょう。なにせあの儀式剣を抜いた者は……ああ、そういうことですか」
ハウルの作戦の甘さを指摘しようとしたヅィーヴェンだったが、その途中で何かに気づいたか再び思案に耽る。
やがて、その口元が残酷に吊り上がっていく。
「いやはや驚いた。王を裏切った私は、自身を外道と自覚していますが……ハウル、貴女も中々に非道い人ですねぇ」
「え?」
ハウルはその言葉の意味が解らずに、たまらず呆けたような声を漏らす。
だが、ヅィーヴェンはそんな様子の彼女を咎めるように、その目を眇めて睨みつけた。
「よもや気づいていないと来ましたか……。いえ、無自覚の行動だからこそ、その悪性を感知できなかったのですね。まあどちらにせよ、貴女が非道を行った事実は変わりませんが」
「何を言って―――」
「ここまで言ってもわかりませんか。ならば教えて差し上げましょう。
―――貴女は、あの王位継承候補者を救う気などさらさら無かった」
今度こそ、ハウルは硬直した。
「なにを、いって……」
繰り返される同じ言葉。だが、その声は前回と比べて明らかに震えている。
それは予想していなかった回答に戸惑ったためか、あるいは……それを正しいと思っている節が、己のどこかにあるからか。
「言った通りですよ。もっとも貴女は勘違いをしているようだから、事実を受け入れるのに抵抗はあるかもしれませんが。
いいですか、貴女は王位継承候補者を救ったと錯覚していますが、それは間違いです。事実はその真逆―――貴女は、あの王位継承候補者を殺したんですよ」
「そ、そんなことない! 私は、シグマを救うためにできる限りの最善を尽くした! それが、殺したことになるなんて―――!」
「それでも貴女は儀式剣を渡してしまったでしょう」
「え……?」
「ハウル、貴女は曲がりなりにも王族なんですから、あの儀式剣についての詳細を知っているはずだ。たしかにあの儀式剣には強大な力が秘められています。おそらく貴女は、その力を制御できれば生き残れるとでも候補者に吹聴したのでしょう。ですがその『仮定』は成り立たない。
なぜならあの儀式剣は、抜いた時点で担い手を遍く殺すんですから」
その答えに、ハウルの頭の中は真っ白になった。
「本当に貴女が救う気でいたのなら、始めから儀式剣を託すという選択肢は無かったはずだ。ですが、貴女は儀式剣を渡してしまった。それを抜けば死に至ることを知っていながら、それでも構わずに。
先王から守り抜けと託された、あの儀式剣を簡単に他者へ譲渡できたのは、〝どうせ死んでしまうから〟と無自覚に理解していたからでしょうね。おそらく貴女の本心は、ここで私を打倒、もしくは逃走し、その途中で担い手のいなくなった儀式剣を回収する、といった魂胆だったのでしょう」
「ち、ちが……」
「いいえ、それが全てですよハウル。貴女は初めから王位継承者を救う気など無く、それどころか彼が死ぬことを前提に行動していた。
―――これを非道いと言わずに、何と言うんですか」
核心に触れたその言葉。
その重さに、たまらずハウルは後ずさる。
『それでも私はシグマを助けたい! ここでシグマを見棄てて逃げるくらいなら、大罪の一つくらい犯してみせる! だからシグマ、私と契約して! 生きるために、この儀式剣を受け取って‼』
脳裏で再生される、自身の言葉。
彼を救うために嘯いた、救済方法の提示。
本心から生まれた思いだった。……そう思っていたはずだった。
けど、それなら。
『抜けば絶対に死に至る』という曰く付きの剣を、なぜ渡した?
それは嘯いた言葉の意味から最も相反する選択肢であったというのに。
「あ……ぁ……」
心が壊れる。心が壊れる。心が壊れる。心が怖れる。心がこ割れる。こコろがコワれてココろガこわレてこコろわレテ―――――崩壊。
嗚呼、なんてことだろう。
ヅィーヴェンの告げた呪詞は、完膚なきまでにハウルの心を粉砕した。
「あ、うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」
絶望の悲鳴が森隅々にまで響き渡る。膝を付き頭を抱え絶叫するその様は、悪夢に怯える少女にように無力で憐れだった。
―――殺した、殺した、殺した―――他でもない、私自身が。
―――あれだけ、彼の前で、絶対に助けると豪語しておいて。
―――なのに、とどめを刺したのは、私だった。
―――私が、殺してしまった。
そうだ、ヅィーヴェンの言う通り、彼女は儀式剣の恐ろしさを知っていた。その剣を抜けば例外なく死に至ると、知っていたはずなのに。
あろうことかその儀式剣を、シグマが生き残るための唯一の方法と教唆して、渡してしまった。
彼が生き残るには最もかけ離れた方法を、ハウルはそれこそが最適解と吹聴して行わせたのだ。
嗚呼、なんて卑怯。なんて外道。なんて残虐。
こんな悪魔、存在しているだけでも許し難い―――!
「……ぅ、あ……」
心が根元から圧し折れていく。自己嫌悪の螺旋階段を落下するように降りていき、もはや自分の価値が見出せない。
知らず眼から涙が零れてくる。シグマを助けられなかったことだけでなく、自分が知らぬうちに度し難い外道に堕ちていた絶望が形となって、止まらなかった。
もう彼女に先ほどまでの闘争の意思はない。すでに戦意は喪失し、ともすれば人としても再起不能なまでに、ハウルは打ちのめされていた。
その枯れたような姿を見て、ヅィーヴェンはあからさまに落胆したような表情を見せた。
「……ハウル、たしかに貴女が行ったことは外道であり、それが無意識の行動となれば自信をひどく嫌悪するのも道理でしょうが……彼にも今は戦闘中ですよ? だというのに場違いにも呆けるとは……これは仕置きが必要ですね」
そして、遂にヅィーヴェンが動く。
彼は先ほどのハウルの攻撃を防いだ右腕をもう一度水平に上げ、その掌を彼女に向けた。
「では遅くなりましたが、先ほどの模範解答です。貴女は生み出した光球をそのまま撃ち出していましたが、それでは満点にはなりません。状況に応じて、その形状を様々に変化させて対応し、初めて最適解となるのです。―――こんな風にね」
途端、そこから溢れ出す黒禍の影。渦のように回転しているそれは、やがてその全体を捻じり伸ばしていき―――先端を鋭利な棘と化す。
そこには、全てを呑み込むような黒で出来た、一振りの槍ができていた。
さらに変化はそれだけに止まらず。できた槍が突然沸騰し、発生した気泡の中からいくつもの槍が生まれ出る。
その数は意趣返しのつもりか、先ほどハウルが放った光球の数と全く同じだった。
そしてヅィーヴェンが残酷に嗤い、ゆったりとした動きで片手を掲げる。
「『基礎魔術の形状変化による状況打破』―――その身をもって体感しなさい」
パチンと軽快な音を立てる指ならし。
それが合図となって、宙に浮いていた槍の数々が矢継ぎ早に放たれる―――!
「あ……―――」
寸前まで呆けていたハウルに迎撃の対処など行えるはずもなく。
―――着弾。
常時展開されていた彼女の防御結界も紙の如く、槍は全てを貫き裂いた。
「ぐぁ……っ⁉」
衣服が破られ、現れた素肌を裂かれ、着弾の衝撃波でまたも脳が揺さぶられる。
全身から発せられる灼熱のような痛みと、止めどなく放たれる危険信号。それでも脳震盪によって霞んだ思考では、もはやどういった反応を取ればいいのかも判断が付かず、ただただ激痛に苛むしかなかった。
それでもハウルが解せなかったのは、自分が未だ生きているということだった。
あれだけの数の槍が殺到して、急所の一つも貫けなかったのは明らかにおかしい。おそらうその点はヅィーヴェンが上手く調節したのだろう。
では、なぜそんな真似をしたのか。
「それではこれで講義を終了とします。次の機会に備えてしっかり復習しておくように」
ヅィーヴェンが近寄ってきた気配を、ハウルは虚ろな感覚で捉えた。
でも、もう四肢に力は入らない。戦闘によるダメージもさることながら、なによりも絶望により心を折られたことが深刻だった。
見ろ、後悔と自己嫌悪が重なった結果、彼女の瞳から色が消えている。あれだけ様々な感情を見せていたハウルの眼は、今では人形の無機質なそれと何ら変わらない。
もう今のハウルは、自身の生死にすら関心を持っていない。
心を失い、生きる意味を失った者―――廃人が、そこにはいた。
ヅィーヴェンはそんな彼女の腕を掴み、何の配慮も無く無造作に持ち上げる。四肢に力を籠められないハウルは、自分の腕に吊り上げられているといった形になっていた。
「では帰りますよ、ハウル。儀式剣も回収し、急ぎ城へ帰還し王に献上しなくては。そこで貴女も謁見を交わし、今後はあの方の下で尽くしなさい。そうすれば、いずれ自ずとあの方の素晴らしさを理解できるでしょう。
大丈夫、王は寛大な心をお持ちです。たとえ一度裏切った者でも、少なからず慈悲を授けてくれるでしょう」
そのままボロ雑巾のようなハウルを引きずり、ヅィーヴェンは儀式剣を回収するため、シグマがいた場所へ向かっていく。
その最中、
「ハウル、貴女は魔術師としては未熟で無能極まりない存在ですが、女性としての点から見れば多少の価値は見出せます。ですからその長所を活かして、王の慰安を務めなさい。それがあの方の傍に置いてもらうための方法として、最も手っ取り早いでしょう」
そんな地獄のような未来を、ハウルに約束した。
でも、もう彼女に抵抗する術も、力も、気力もない。
いっそのこと舌でも噛んで自決してやろうとも考えたが、結局そんな勇気も振り絞れなかった。
―――そんな卑怯者の末路には、簡単には死ねない地獄の方がお似合いだ。
心の奥底で、悪鬼の彼女が嘲笑している。
だけど、それを否定しようとする感情は湧き上がらなかった。だって、それは事実なのだから。
(私はシグマを殺してしまった。甘い言葉で囁いて、そのまま地獄へ突き落した)
それが答え。それが全て。結局のところ、これは完全な因果応報なのだ。
だからこの先、彼女に訪れる地獄を拒絶する権利など一切無い。たとえどれほどつらくとも、弱音の一つも漏らすことは許されない。
―――それが私の罰というのなら、私はそれを受け入れよう。
そうやって諦めて、最後の思考も放棄しようとする。
その時だった。
「……ん?」
怪訝な声を上げたのはヅィーヴェンだった。彼は眉間にしわを寄せ、突然その場で立ち止まる。
「……?」
ハウルも彼の行動に一瞬だけ疑問を持ったが、すぐにそれを棄てる。
たとえこの先何が起ころうとも、もはやこの事態は打開できないと諦観しているからだ。
だから彼女は変わらず、最後の思考を棄てるため、自身の意識を鎮めようと目を閉じた。
―――遠くから、地響きが聴こえる。