勝利の果てに失くしたもの
「……ただいま」
陽が落ちて暗がりに満ちた部屋の中、音を立てないように配慮してドアが開かれる。
差し込む廊下の灯りと共に入ってきたのは、部屋の主であるシグマだった。
すでにトゥロイとの戦いから八時間が経過している。壁掛けの時計は十時半を示していた。
「はあ、疲れた……」
部屋の明かりを点けるのも億劫になるほど疲弊していたシグマは、部屋に入るやフラフラと自身のベッドの方へ彷徨い、そして倒れ込むようにダイブする。
トゥロイとの戦争が終わってから、いろんなことがあった。
まずは自国の勝利を大々的に民衆へ告知するための凱旋パレードへの参加。そして各部隊の損失や成果の報告を受けて、それが終わった後はレオンに連れられて慰労会という名の飲み会に参加させられた。
どれもこれも、一日を賭して行うような濃密の業務である。前者二つは国務のためにもないがしろにするわけにはいかないと納得するにしても、戦闘での疲労も蓄積している身としては中々に堪えるものがあった。
ちなみに最後者の慰労会もとい飲み会については、辞退の旨を却下されて強制的に連れていかれた形である。
おかげでシグマの睡魔はピークに達しようとしていた。飛び込んだ羽毛布団の柔らかさが、それをさらに加速させる。そのまま意識を失うようにして眠りに落ちるだろうと思われた時だった。
「おかえり、遅かったね」
ベッドの向こう側、部屋を二分割する簡易的な仕切りの奥から、同居人であるハウルの声が聞こえ、シグマは瞬間的に目を覚ました。
「あれ、起きてたんだ。明かりも消えてたから、てっきり寝てたのかと思った」
「いや、その、ね? 寝ようとしたんだけど……ここ最近の不摂生が祟りまして……寝ようにも眠れなくて……」
要は魔術研究などによって夜更かしを続けていたせいで、ハウルはすっかり夜型の人間になってしまったらしい。ここ最近の彼女の生活サイクルを考えれば当然の帰結である。
「そ、それより、シグマはどうしてたの? なんかすごい疲れてるけど」
「さっきまでレオンさんや兵士の皆さん方と飲み会だったんだ。……まあ、この面子での飲み会だから覚悟してたんだけどね……すごくをお酒を飲まされたんだ……」
「ま、また飲まされたの?」
かつてシグマが二日酔いでフラフラになっているのを知っているハウルである。その声には心配の他に呆れもやや混じっていた。
「本当にひどかった……。大体なんだよ、『潜り飲み』って。酒樽の中に突き落とされて閉じ込められるとか、名前変えただけで『泳ぎ飲み』と一緒じゃないか……」
ハウルは前々から感じていたが、どうも彼らの飲み会というのは碌でもないらしい。
一応、シグマと一緒にハウルも誘いを受けていたのだが、ルカに「仮にも貴女はアスマジアーニャンの人間なんだから、兵士たちも緊張してしまうわ」という意見によって、やむなく辞退している。
あの時はシグマと一緒にご飯が食べれずに残念な思いだったが、どうも行かないことの方が正解だったらしい。
次にまたレオンから飲み会に誘われた時は、少し考えるべきだと、ハウルは口にせず決心した。
「……ねえ、ハウル」
すると突然、シグマから呼びかけがあった。声は、先ほどまでと比べて沈んでいる。
「今日の飲み会でさ、何人か見知った顔が居なくなってたんだ。誰も、そのことについて触れなかったけど……きっとそういうことなんだよね?」
今日の飲み会は輝きに満ちていたけれど、その実、前回の飲み会と比べて欠けた部分が存在していた。
乱痴気騒ぎを大いに愛する彼らが、このような場を容易く辞退することなどありえない。おそらく病気であっても這ってくることだろう。
でも、それなら。
その上であの場にいなかったということは。
「……たぶん、そうなんだと思う。戦争はいろんな人が犠牲になるから」
そう、戦争の犠牲に隔たりは無い。敵も、味方も、どうあっても犠牲は出る。それは初めから理解しているはずだった。
だけど、実際にその現実を目の当たりにしたら、改めて戦争の酷薄さを思い知った。
「シグマは、その、居なくなった人とは仲が良かったの?」
「いいや、単なる顔見知りだよ。言葉を交わしたのかどうかも覚えていない。……でも、だからといって割り切れはしないよ」
他の者たちはどうなのだろう。
レオンも、兵士たちも、今日の飲み会ではシグマが見た限り楽しそうにしていた。
けれど、彼らの心の奥底は。
何も知らず純粋に飲み会を楽しんでいる者もいるかもしれない。仕方ないことだと割り切った者もいるかもしれない。或いは悲しみを隠して周りのために平静を装った者もいるかもしれない。
間違いないのは、以前の飲み会とは違うということだけ。
あの楽しげな雰囲気の後ろ側には、いったいどれだけの感情が伏せられていたのだろう。
「全ては救えない。それができるほど僕は全能じゃない。だけど、それでも……やっぱり身近な人が居なくなるのは悲しいね……」
どこか諦観を感じさせるようなシグマの呟き。それを聞いて、ハウルの胸の奥底が小さく疼く。
知り合いを失う苦しみ。まるで真綿で締め付けられるかのように、ゆっくりと心が軋んでいく。
これに似た感覚を、ハウルは知っている。その一端は今日の戦場で嫌というほど味わった。
「私もシグマが居なくなったら悲しいよ」
その気持ちに嘘はない。だからこそ、こんなにも苦しんでいる。
脳裏に浮かぶのは、戦う彼の姿。これまで誰よりも長くその戦いぶりを見てきて、そして今回誰よりも近くで目の当たりにしたからこそ、その変容が心に残った。
「だから、正直に答えてほしい」
余裕を見せるほどの立ち回り。恐れずに戦いに挑むその姿勢。そして何より、苦痛の色をまるで感じさせないあの様相。
耐えているだけには見えなかった。受け流しているだけにも見えなかった。だからこそ、気づいてしまった。
「シグマは儀式剣の代償をどうやって無くしたの?」
あの時のシグマは、代償である激痛を完全に克服していた。
本来それは喜ぶべき事のはずだ。だけど、彼と共に駆け抜けた戦場では、常に嫌な気配が胸をざわつかせていたのを覚えている。
なにせシグマを蝕む代償は、かつてアスマジアーニャンで歴代の王位継承者を尽く屠った曰く付きである。それだけのものを、理由もなく突然耐えられるなんて、到底信じられない。
少なくとも彼は何かしらの方法を取ったはずだ。ならばそれを訊かなければならない。
どうか杞憂のまま終わってほしいという願いを抱きながら、ハウルはシグマの答えを待つ。
「…………特訓をしていたんだ」
やがて静かに、シグマは経緯を話し始めた。
「このところ毎夜、それこそ今日アスマジアーニャンが攻めてきたあの辺りで、儀式剣の力をより細かく制御できるように練習していた。たぶん、それで長いこと力を使い過ぎたのがきっかけなんだと思う」
この世全ての痛みを統合してもなお届かない激痛を、明確な死を意識させるほどの代償を、日がな浴び続けることにより、感覚は徐々に麻痺していった。
その果てに、やがて訪れたその結果は、
「僕の痛覚は完全に無くなった」
自身の機構が欠落したという事実を、シグマは淡々と告げた。
「もう今じゃ、儀式剣を抜こうが抜かまいが、まったく痛みを感じなくなってしまってさ。たぶん誰かに刺されても、僕は刺されたということ自体に気づけないと思う」
シグマはベッドに顔を埋めたまま、横目で自身の右手を見る。そして右手の指を動かして、親指の爪を人差し指の腹に押し当てた。
爪が皮膚に食い込んでいく。それでも止めない。爪が皮膚を破り、赤い血が零れ始める。それでも止めない。刺さった爪を適当に動かし、傷口を乱暴に広げていく。それでも止めない。
これだけやっても、痛みも、苦しみも、悍ましさも―――何も感じられない。
痛みが無いのだから、目の前で起こっている損傷もまるで現実味が無かった。他人事のように、ただ起きている光景を眺めているだけ。
「今日、僕の腕が千切られたのを覚えてる? あの時も実は全然痛くなくて、ちょっと傷口の辺りが気持ち悪い程度にしか感じられなかったんだ。途中で腕が失くなっていることも忘れてしまって……ホント、僕って間抜けだよね」
自嘲気味に笑いながら、シグマはベッドに埋めた重い身体を無理やり起こす。
既に右手は出血で真っ赤に染まっており、このまま寝てしまえば、翌日には純白のシーツに殺人現場さながらの血の跡を設けることになるだろう。
「ごめん、ちょっと手を洗って来るね」
そう言って、シグマは血にまみれた手を抱えて部屋を出ていこうとした。
「……なんで……」
だが、扉を開ける前に聞こえてきたハウルの呟きが、彼の足を止める。
鼓膜を響かせたその声は、今にも泣きだしてしまいそうなほどに震えていた。
「なんでシグマは、そんなにも平然としていられるの……? だってそれは痛みが無くなったんじゃなくて、シグマの痛みを感じる神経が死んでしまったっていうことなんだよ⁉ それなのに、どうして―――!」
「ハウル」
感情的になっていく彼女を、シグマは静かな声色で呼びかける。その冷静さに中てられて、彼女は我に返ったかのように口を噤んだ。
ハウルの言い分もわかる。優しい気質である彼女にとって、シグマが壊れていくことは決して看過できないものなのだから。
でも、これは。
「これは本来なにも力を持っていない僕が、それでも戦うために支払った代償だ。だから何も後悔はしていない」
この選択は、シグマが覚悟して、その代償を受け入れて、その上で至った結果だ。
それはシグマのみが変えられるもの。その決意が固まっている今となっては、たとえハウルであっても無闇に介入することは許されない。
「それに、王位継承者として戦わなければならない以上、遅かれ早かれこうなるのは必然だったんだ。だから君が気負う必要はまったくない。僕の選んだ選択が、少し結果に早く辿りついてしまった。それだけだ」
深刻さをまるで感じさせない物言い。事実、彼の表情に一切の憂いは存在しない。
そして、今度こそシグマは手を洗いに部屋を出る。一瞬だけ廊下の光が部屋に挿し込み、扉が閉じられ再び暗転する。
その暗闇の中に一人残されたハウルは、ずっと扉の方を仕切り越しに見ていた。
「…………どうして?」
もう一度、そこには居ない人物に問いかける。声はやはり震えたままだった。
「どうしてシグマは……頑なに私を責めないの?」
ずっと抱いていた疑問だった。
ハウルにその気が無くとも、彼女の出生や置かれている状況は、否応なしに周囲の人間を振り回す。そして、最もその影響を受けているのは紛れもなくシグマであることだろう。
「私は、ずっと……その覚悟はできてるのに……」
その理不尽に対して、罵倒しても誰も責めないだろうに。
その不条理に対して、見限りをつけても誰も咎めないだろうに。
いつだってシグマは、そんな気配を微塵も見せず、ただ不器用に微笑むだけ。
「どうして……苦しい、くるしいよ……」
彼の優しさが、傷口に沁みていくかのよう。心を締め付ける窮屈さに、たまらずハウルは自身の胸を抑えつけた。
いつからか起こるようになった、正体不明の苦しみ。つらさ。そして同時に感じる、ささやかな愛おしさ。
それが何を意味しているのか、何の予感を表しているのか、ハウルにはわからない。
解っているのはただ一つ―――シグマの事を想うとき、この苦しみは噴出する。
「シグマ……私は……」
苦しみを抱いたまま、ハウルはベッドに置かれた枕に顔を埋める。彼女を迎え入れる柔らかな温もりも、心の苦しみを解くことはできなかった。
―――いったい私は、シグマに何を求めているのだろう―――?
ハウルはひたすら自問を繰り返すけれど、結局答えに辿りつくことはできなかった。
夜は更けていき、静寂は遥かに深いものになっていく。それに身を委ねている内に、心の乱れも落ち着いていって。
やがて訪れた睡魔は、待ち人の到来を待たずして、ハウルの意識を連れ去った。
次は3/2に更新します
※明日の3/3に更新します。申し訳ないです