鬼神炎姫
わき目も振らず、一心不乱に空を駆けた。跳躍と跳躍と跳躍を繰り返し、最短距離で目的地へと向かう。
「ハッ、ハッ、ハッ―――!」
切れる息の音は、度重なる儀式剣の力の酷使による体力の消耗だけでなく、シグマ自身の湧き上がる焦燥感にも由来するものだ。
ルカが百人程度の少数精鋭だけを引き連れて、一個大隊規模の徒党に挑みに行ったとレオンは言っていた。
なんて、無謀極まりない。
彼女の実力を侮っているわけではないし、並大抵のものに後れを取ることがないことをシグマは理解している。だが、あくまでそれは一対一の想定での話である。
無数のアリが自分たちよりも遥かに力を持ったバッタを殺すことができるように、個々の力が劣った者同士が集えば、それ即ち強大な力となるのだ。
ましてや、今回現れたというアスマジアーニャンの徒党は、ハウル曰く選抜された強力部隊なのだという。
嫌な予感が加速する。ただでさえ高速で向かっているのに、これ以上のスピードが出せないことに苛立ちが募る。
「っ、ルカ……!」
どうか自分が着くまで、無事に持ちこたえてほしい。
祈りにも似た思いを抱えて、シグマはもう一度大地を蹴った。
◇◇◇◇◇
そして。
ようやく目的地にたどり着いたシグマと、彼に連れ抱えられていたハウルは、現場の惨状に言葉を失った。
一言で表現するなら―――そこはまさしく『地獄』だった。
視界に映る大地を埋め尽くす炭化した何かと、鼻孔を撫ぜる大気に充満した燻煙の臭い。焼け焦げた野原のあちこちには未だ残り火が燻っており、それらがのろしのように煙を上げていた。
まるで業火の津波が押し寄せたかのような荒れ果て様。そこに報告にあった魔物の軍勢は存在してはいなかった。
「なにが……いったいここで何があったんだ……?」
シグマは呆然と疑問を口にするも、答える者は誰もいない。
そもそも、この場所に着いた時から異様な空気は蔓延していた。
例えば、シグマらの前で、彼らに背を向ける形で横にずらりと並んでいるリューズビーリアの兵たち。レオンの言っていたことが正しければ、彼らはルカに付き従い迎撃に向かった一番隊であるはずだ。
それがなぜ、誰も争った形跡を付けていないまま、案山子のように突っ立っているのか。
この見渡す限り一面の焦土は、明らかに苛烈な闘争の痕跡であるというのに。
その時、シグマは遠い焦土の中心地に人影を発見した。
影は二つ。内一つは、かつて森で遭遇したオークよりもさらに一回り巨大な体格を持っていた。理由は不明だが、なぜか項垂れるようにして跪いている。
そしてもう一つの人影―――こちらは見覚えがある者だった。
熱気を孕んだ風に揺れる金色の長髪に、周囲の残り火よりも存在を主張する鮮やかな赤のドレス。その凛とした佇まいは、この地獄のような光景の中において、まるで女神のように錯覚してしまう。
「ルカ……」
初めからわかっていた。
こんな惨状を創り出せるほどの実力を持った者など、シグマの知る限りでは彼女しかいないことは。
「え、もしかして……キュクロプスさん……⁉」
一方、シグマと同様に横で呆然としていたハウルは、ルカの前で項垂れる巨体を持つ魔物の正体に気づき、驚いた声を上げた。
「知ってるの?」
「め、面識はないけど、『夜鴉』の十五番隊で隊長を務めていたはず……」
「それじゃあ、やっぱり……」
ハウルが言っていたアスマジアーニャンの特殊精鋭部隊こと『夜鴉』は、確かにこの場所まで急襲していたのだ。
その結果は、目の前の光景がありありと物語っている。
「―――……ば、かな……」
すると、項垂れたままのキュクロプスが、息も絶え絶えに声を吐いた。
「おれ、さまが……おれたち、が、こんな……がき、ひとりに、やられるなんざ……」
よくよく見れば、キュクロプスは全身をボロボロにしており、両脚に至っては膝から下の部位が見当たらない。あれは先ほどから跪いているのではなく、失くした足の代わりに手を使ってなんとか全身を支えているのだ。
「もう仲間は全て逝ったわ。残るは貴様だけよ」
怒りや憎しみ、その他の激情を滲ませるキュクロプスとは対照的に、ルカの声は一切の余剰を許さない厳かなそれ。言い訳も懇願も、今の彼女の前には意味を為さないだろう。
「此度の闘争、逃げ出すことなく挑みかかった貴様に敬意を表して、僭越ながらこの私自ら介錯を務めてあげる。潔く逝きなさい」
キュクロプスが重々しく面を上げる。そこに浮かんでいる感情は、まさしく激怒。
ルカを睨む巨大な瞳には、糾弾するような憎悪が渦巻いていた。
「け、いい、だ……? ざけん、な……ぼう、がい、なんて、くそみてぇなこと……しやがった、てめぇが、きれい、ごと、を……いってんじゃ、ねぇ……!」
離れた位置にいるシグマにさえ聞こえる歯軋りの音。途切れ途切れの言葉が何を言っているのかはわからなかったが、それでも彼がルカに対して深い怒りを抱いているのは明確に伝わってきた。
「…………」
この場に気づけた者は誰一人といなかったが、ルカは僅かに動きを止めた。しかしそれも一瞬、ゆっくりと自身の剣を持ち上げる。
「何をことかはわからないけれど、所詮は敗者の戯言。生憎ながら聞く耳は持たないわ」
「く、そが……―――」
そして。
神速の如き横薙ぎの一閃が、キュクロプスの頸を切断した。
ずるりと、頭部を失くした図体は、ズルリと生々しい音を立てその場に倒伏する。
それで終わり。もはや急襲してきた魔物は一人残らず討伐され、残ったのは焦げた肉の臭いが充満した焦土だけ。
その凄惨な劇幕の一部始終を、シグマとハウルは目を逸らすことができずに眺めているだけだった。
「ご覧あれ、継承者殿」
すると、シグマがルカを発見したことに気づいたのか、彼の付近にいた兵の一人が背を向けたまま声を掛けてきた。
「あれこそが我らが主君の在り方。リューズビーリアの全国民が理想と憧憬し、我らの拠り所として君臨し続ける、最も偉大な御方の姿であられる」
その声はどこか誇らしげだった。
まるで憧れのスポーツ選手と共にフィールドで駆けることに喜びを感じているような、そんな気配が伝わってきた。
「願わくば、継承者殿が姫君と同じ場所に到達されますように。いつか貴方様を王と慕うことになりましょう我らは、ただそれだけを望みます」
同じ場所。同じ立ち位置。彼女が視ているものを、自分も視れるように。
兵士の語った理想は、即ちシグマの目標でもある。王として正しくありたいと望んだ彼は、ルカこそを道標として理想の最果てへ目指すつもりだった。その道のりは果てしなく困難であり、踏破には多くの時間と苦労を要するだろう。
だけど、トゥロイ軍との戦いを得て、少しは自分も王位継承者としての役割を果たせたと、僅かながら彼女の居る場所へ近づけたと、そうした成長の実感を抱いた……はずだった。
でも、今は。
この惨憺たる有様を目の当たりにしてしまった今となっては。
「……あら? なんだ、結局シグマたちもこちらへ来てしまったのね」
全ての事柄を終えて、ルカは首だけを動かして後方へ振り返る。
物言いも先ほどのような厳格なものではなく、どこか慈愛を感じさせる優し気な声色で。
「けれど残念。御足労悪いのだけれど、もう此処に居た魔物たちは皆、私の首級となったわ」
これまで屠ったのであろう敵の返り血に塗れた、誇らしげな微笑みを浮かべていた。
彼女の持つ深紅の瞳に囚われて、シグマは動けない。
近づけたと思ったのは間違いだった。そんな感傷はまやかしで、実際はさらに距離が開いていた。
いったいあとどれだけ死地を乗り越えれば、ルカに届くことができるのだろう。
『ハ、ハ、ハ。たった一人でこれほど素敵な戦場の舞台を創り上げるとは、やはりあのお転婆娘は度し難いな。本気の手合わせが願えん味方であるのが悔やまれる』
あのシャルベリアでさえも、目の前の光景を目の当たりにしては称賛してしまうほど。
死闘を渇望する彼女からしてみれば、確かにルカとの闘争は乾いた心を満たすほどの魅力を持っていることだろう。
だが、それでもシグマは否定せざるを得なかった。
―――ルカが味方で、本当に良かった。
焦げ付いた死肉の泥土を踏み抜けてこちらへ向かってくるルカを眺めながら、シグマは安堵にも似た面持ちでそう思う。
「一番隊総員、申し訳ないけれどこの辺り一帯の後始末をお願いするわ。このままだと腐った肉が疫病の病床になりかねない」
「畏まりました」
「あとから追加の人材も派遣するから、それまで頼むわよ」
先ほどシグマに言葉を掛けていた兵士と言葉を交わし、他の兵士たちが作業のために散っていったのを確認して、ルカは今度こそシグマの下へ歩いてきた。
「トゥロイ軍はどうなったのかしら?」
「撤退したよ。……その、王位継承者は逃がしてしまった。ごめん」
「責める気は無いわ。今回の戦いの最重要目的はトゥロイ軍に勝つことだもの。それが達成できたのなら、あとは何も求めない」
気のせいか、ルカの様子がトゥロイ軍と戦う前よりも清々しく晴れ渡っているような感じがした。
「それはともかく―――」
すると、彼女は視線をずらし、シグマの横を見た。底には心ここにあらずといった様子で焦土を見つめるハウルがいる。
「ハウル」
「……あひゃいっ⁉」
ルカが呼び掛けた途端、ハウルは驚いたように素っ頓狂な声を上げる。まるでルカが近くに来ていたことに今気づいたとでもいうような反応だった。
だが、無理もないだろうと、シグマは口にせず思う。
今しがたルカが斃したのは、ハウルの故郷の軍勢だ。その立場が複雑化している彼女としても、やはり同じ国の人間が殺されることに思うことはあるのだろう。
けれど、
「貴女の心情がわからないとは言わない。でも、その不平不満は飲み込みなさい。私はこの国を守らなければならない以上、彼らを撃滅する必要があった」
そう、ルカは行ったことは、彼女の立ち位置を鑑みれば何をおかしくはない。むしろリューズビーリアの民からしてみれば、称賛を受けるほどのものだ。
「それは……仕方のないことだって、わかっています」
それをハウルも理解しているから、沈んだ表情で頷くしかない。
だが、彼女が抱いている思いは、ルカに対する怒りでも憎しみでもなくて。
「ただ、悲しいと……ここで潰えた彼らに対して、そう思うことだけは、赦してください」
たとえ袂を分かれようとも、元をたどれば同じ国の同胞たち。だからこそハウルは、キュクロプスたちを完全な敵とは割り切れなかった。
もしかすれば―――あのクーデターさえなければ、ともに戦線に立っていた未来も、確かに在ったはずなのに。
理由としてはそれだけだ。だがそれだけの理由で、ハウルにとっては哀悼の意を示す十分なものとなる。
そして、そんな些細な頼みを跳ね除けるほど、ルカも器の小さい人物ではない。
ハウルの双眸を見つめながら思案の素振りを見せた後、ルカは静かに頷いた。
「後悔は無いようにしなさい」
「ありがとう、ございます」
ハウルは礼を言い、もう一度焦土の方を向いて、祈るように目を閉じた。
それを傍目に見ながら、シグマはルカに問いかける。
「ところで、これからどうするの?」
「一度レオンたち本隊と合流するわ。初戦を制したのだから、民衆に知らしめるためにも、凱旋は大きい規模でする必要がある」
「そっか、賑やかになりそうだね」
「……何を他人事みたいに言っているのよ。言っておくけど、今回の主役は貴方なのだからね?」
「え、僕⁉」
「貴方の武功を鑑みれば当然でしょう。凱旋のパレードを行うときも、貴方には最も目立つ位置にいてもらうから」
突然のむちゃぶりにサッと顔を青ざめさせるシグマ。その様を見て、ルカは勝ち誇ったように微笑んだ。
「さあ、そうと決まれば合流に向かうわよ。それまでに民衆に見られても恥をかくことがないよう調子を整えておきなさい。緊張で赤面してる英雄なんて、きっと皆の笑い種よ?」
有無を言わせず合流を促すルカに、シグマは仕方なく転身した。そして、彼らの一悶着の間に伝えるべきことを伝えたハウルも、同じように彼を追う。
遠ざかる二人を内心可笑しく眺めていたルカは、一度だけ後方を一瞥する。
「……………」
そこにあるのは、彼女が創り出した焦土の光景。その中のあるものに対して、怪訝そうに眼を細めた。
やがて再び前を向き、今度こそ遠ざかった二人を追う。
その横顔には、先ほどと同じ、勝利に比たる満足げな微笑みが浮かんでいた。
焦げ付いた臭いを放つ、一面の焦土。
ルカが視線を向けた先には、例に漏れず炭化した魔物の屍が転がっている。
そしてそれには、同じように炭化した矢のようなものが深々と突き立てられていた―――
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