魔物の横槍
短くなると言ったな。あれは嘘だ。
「……敗けてんじゃないすか」
場所はシグマらが争った空洞地からトゥロイ側に六百メートルほど離れた位置。あちこちに点在している樹木の、生い茂る枝葉の中に潜むその女は、ペットボトルのキャップほどのサイズのレンズに目を通しながら落胆の息を吐いた。
魔術による加工が施されているそのレンズは、大きさに相応しくないほどの長距離を眺め視ることができ、そのためシグマとワンの決着も見逃すことなく目撃することができた。
「リューズビーリアの継承者にもろくにダメージ与えられてないし。……これもしかして相当な外れクジ引いちゃったんじゃないっすかね?」
苛立ちを隠さない乱暴な口調で、女はワンの醜態ぶりに苦言を呈す。
すると、彼女は自身の懐から仄かに白く光る、意味重な紋様の描かれた符を取り出す。これはいわば携帯電話のような働きを持つ魔術兵装であり、輝いているのは向こう側から着信が入ったことを示している。
女は電話越しならぬ符越しの相手に想像がつきながらも、連絡を取るために魔力を繋いだ。
「はいはーい、大方連絡の内容は予想が付きますが一応訊いてやりますわ。どうしたっすかー、隊長?」
『キ、キリル様‼ わ、我らの王位継承者さまが……!』
「あーやっぱりそれっすか。うん大丈夫知ってます、だってこっから普通に見てたし」
『そ、それでは、我々はどうすればよろしいのでしょうか⁉ このままではリューズビーリア相手に敗北を喫することになってしまいます!」
「うるせぇですねー、あんたは親とはぐれた迷子のガキっすか。ちょっとの想定外くらいでピーピー喚きやがって。落ち着け」
『で、ですが……』
「敗北を喫することになるのはしゃーね―でしょうよ。我らが王位継承者さまが敗けた以上、こっからどうやったところで勝てやしねぇっすよ。重要なのはこれ以上傷口を広げないためにすることっす」
キリルと呼ばれた女は左手で符を持ちながら、右手を横に伸ばす。そこには木の枝に吊り下げるように掛けられていた、彼女の身の丈ほどもある巨大な弓があった。
「とりあえずあんたらはそこで伸びてるワンを回収して撤退してくださいな。一応そんなナリっすが、自分らが勝利するには欠かせない要因ですし。絶対にリューズビーリアの連中に渡すんじゃねぇっすよ」
『で、ですが、追撃を逃れるほどの機動はもはや我々にはありません……』
「ああ、そういうことなら安心してくださいな」
キリルは符を頬と肩で挟み、開いた左手で手にした弓の弦をはじき具合を確かめる。
上場たる仕上がりに笑みを浮かべながら、彼女ははっきりと断言した。
「追って来るような空気の読めねぇ連中は、総じて自分がハリネズミにしてやるっすよ」
◇◇◆◆◆
それが致命撃でないことは理解していた。
いくら音の刃の強襲に適応できたと言っても、それらを迎撃するためには常に周囲への警戒をしていなければならない。その警戒にリソースを割かれていたせいで、シグマは万全での一撃を決められなかったのだ。
今は開いた距離の向こう側で、ワンは気を失ったまま沈黙している。だが、おそらくはまだ息がある。
「ハウル、王位継承戦は……この戦いは、どうすれば僕の勝ちになるんだ?」
あとどれだけ敵から奪えばいいのか。その答えをシグマは訊ねる。
すでに勝者と敗者の区別は付いた。だが、ここで終わるのはスポーツの世界だけだ。
彼らが行っているのは、特殊な形式なれど戦争行為。数多の殺し合いが容認される場。
そこに求められる決着は、一つしかない。
「…………殺すんだよ。それでトゥロイは王位継承戦への参戦資格を失ってしまうんだから」
そうして彼女は、悲痛な面持ちで重々しくそう言った。
「厳密には王位継承戦に参戦できなくすればいいんだけど、その方法は限られてくる。儀式剣を壊すのも一つの手だけど、あれは他の武器よりも一段と頑丈だから壊しにくいし、万が一予備があったらもう一度参戦できることになるから……」
「完全に参戦できなくするようには、殺すことが一番手っ取り早いということか」
ハウルの声が震えを帯びているのに対して、シグマの声はひどく淡々としていた。
そして彼は、触腕を収めぬまま、悠然と一歩を踏み出す。
ワンの下へ向かうその足取りに躊躇は無く、ただ機械的に歩き続ける無機質さだけがあった。
「なら、そうしよう」
そしてシグマは、迷いなくワンを殺すことを受け入れた。
背後でハウルが息を呑む気配が伝わってきたが、彼は敢えて気づかなかったふりをする。
―――躊躇は己を殺す自刃と思え!
道すがら、この戦いの参戦前にシャルベリアが言っていた言葉を思い出した。
その通りだと、今さらながらにシグマは同意する。
ここで殺すことを躊躇して見逃せば、いずれワンは体勢を整えて再び勝負を挑んでくるかもしれない。あるいはシグマへの復讐と称して、彼の身近な人たちに危害を加えるかもしれない。
その可能性が、シグマは何よりも恐ろしい。
失いたくない。奪われたくない。だから、その仮説を現実にする可能性を完全にゼロにするには―――殺すしかない。
ならばシグマは、それを容易く行える。
たとえ殺した人間の血に汚れる姿を見られてハウルたちに幻滅されることになるのだとしても、逆に彼女たちが自らの血に沈むような事態よりは絶対にマシだと信じている。
やがてワンの下に辿りついたシグマは、一度だけ気を失った彼の顔を睥睨する。
「……ごめんなさい」
聞こえるはずのない謝罪を口にして、シグマは触腕を構える。一秒後、音速で振るわれる触腕の切先は、狙い過たずワンの首元を切り裂いて、絶命に至らしめることだろう。
だが、その直前に―――彼方で何かが陽の光を反射して瞬いたのを、シグマは見逃さなかった。
「―――っ、危ないっ!」
「きゃあっ⁉」
嫌な予感が触腕を動かし、背中のハウルを掴んで後方へ放り投げる。焦燥に駆られた行動では彼女の安全を考慮することができず、結果、ハウルは何度も地面を転がることになる。
そして次の瞬間―――シグマの右肩に、巨大な風穴が穿いた。
「シ、シグマ⁉」
地面から起き上がったハウルは、目に飛び込んできたその光景に思わず叫ぶ。
今やシグマの右腕は、肩との繋がりをほとんど失くしてぶら下がるような状態になっていた。やがてわずかに残って双方を繋いでいた拙い糸のような肉も、腕の自重に耐えきれず千切れ、そのため今度こそシグマの右腕は落下することとなる。
「っ、左腕が終わったと思ったら、次は右とか……!」
悪態を吐きながら、シグマは傷口を押さえて、先ほど謎の光を視認した方角を見やる。
そうして、見てしまった。
こちらへ群れ成すように飛来してくる、無数の矢の雨を。
全触腕を地面に叩きつけ、後方へ弾け跳ぶ。途端、シグマがコンマ一秒前までいた場所は矢の絨毯が敷かれることとなった。
だが、それだけでは終わらない。
矢は、獲物を追う猛獣のように、シグマを狙って絶えず放たれる。逃げても逃げても、放たれる矢は彼の軌跡を射抜いていく。
もしもシグマが足を止めたその時は、瞬く間にハリネズミの運命を辿るだろう。おそらく射手が未だにシグマを捉えられないのは、その距離が大きく離れすぎているためだ。もしも射手があと半分ほど近くで射っていたら、その時は結果は変わっていたかもしれない。
だが、逆に言えば、シグマはこのまま回避に専念し続ければ、矢に当たることはないというわけだ。
「なら、このまま凌ぎ切れば―――!」
いずれ相手の矢の方が先に尽きる。そう結論付けて、シグマはさらに回避行動に本腰を入れようとした。
だが、
『戯け! 敵の狙いは貴様を射抜くことではない! あの豚を撤退させるための時間稼ぎだ!』
シャルベリアの叱咤に、シグマはハッとワンの居た方向を確認する。
―――そこに、奴はいなかった。
意識を取り戻したわけではない。気を失ったままの彼は、周辺で待機していたトゥロイ兵たちに担がれて、今にも戦地となった空白地から抜け出そうとしていた。
「逃がすか!」
敵の意図にようやく気付き、急いでシグマはワンを追う。
だが、強襲する矢の雨はそれを許さない。彼の征く手を阻むようにして、なおも降りかかってくる。
「くそっ、鬱陶しい!」
苛立ちを募らせて、シグマは右肩の傷口から触腕を生み出し、空に向かって横薙ぎに払う。鞭のような一閃は、飛んできた矢を残さず弾き返した。
「よし、これなら―――ッ⁉」
ようやく迎撃が成功し、手応えを時間し始めた矢先、飛来する矢の中に明らかにシグマを狙いとしてないものがあった。
それが狙うはさらに後方。そこに居るのは、ハウルだった。
シグマは弾けるように後方へ転身、飛び込むようにして彼女を抱きとめ、勢いのままその場から退避する。そしてすぐ近くで何かが地面に突き刺さる音が聴こえ、冷や汗が彼の首元を伝う。
おそらく敵の射手にとって、ハウルを狙った一撃は当たろうが当たらまいがどちらでもよかったに違いない。
重要なのは、シグマを少しでもワンから遠ざけること。
先ほどからの狙撃も、シグマへの命中は二の次で、本命は回避行動を取らせることでワンとの距離を開かせることだったのだろう。
優勢に動いていたと思っていたのが、実は踊らされていた。良いように操られていた自身の不甲斐なさに、シグマは歯噛みする。
いつのまにか矢の雨は止んでいた。シグマとワンに必要な距離が開いたことで、もう牽制は必要ないと判断したのだろう。もしここから更に追おうとすれば、再び矢の驟雨が襲いかかってくるに違いない。
シグマはワンがいるであろう方向を見据える。
まだ敵がそこにいて、生きているのなら、躊躇う必要はどこにも無い。
「ハウル、掴まってて。もう一度トゥロイ軍の中に突撃する」
一息の間に右腕を作り上げ、シグマはそう言った。
その戦意が未だ潰えていない形相を目の当たりにして、ハウルはとてつもない不安を感じる。
もうこれ以上、シグマを戦わせては、何か恐ろしいことが起こるような気がして、だから彼の行動を止めようとした。
その時だった。
「―――継承者様!」
突然、背後から声が聴こえ振り返ると、一人のリューズビーリア兵が向かってきている所だった。彼はシグマの下へ辿り着くと、すぐさまその場に跪く。
「レオン隊長からの伝令であります! 今すぐ陣営にお戻りください!」
「陣営に? この局面でどうして……」
今やワンは完全に無力化しており、その頸を取ることは非常に容易だ。多少の邪魔は入るだろうが、こちらも多少の無理で押し通せばどうにかなる範疇である。
だというのに、みすみす好機を逃すような真似をしてまで、なぜ撤退する必要があるのか。
その理由は、兵士自ら開示した。
「先ほど本国からの報告により、東からアスマジアーニャンの軍旗を掲げた徒党が襲撃してきたとのこと!」
瞬間、シグマの姿が掻き消える。全触腕を駆使して、陣営の方に向かい跳躍したのだ。
詳細は聞いていないが、訊いている暇も惜しい。少なくとも先ほどの兵士が告げた一文だけで、緊急性が十二分に伝わった。
もはやワンへの追撃など頭の外に弾き出される。今は一刻も早くレオンの下に赴き、状況を把握しなければならない。
「アスマジアーニャンが、そんな……」
跳躍中、腕に抱きかかえたハウルが呆然と呟く。
亡命した身でありながらも、故郷である国が遂に行動を起こしたことは、彼女にとっても脳を殴られるほどの衝撃だったことだろう。
だが、彼女には悪いが、慰めの言葉を掛けている場合ではない。
やがてリューズビーリアの陣営が見えてくる。そこにいる人間の中から、目的の人物を探し出すことは非常に容易だった。
「レオンさん!」
陣地内へ盛大な轟音を立てて着地し、シグマはレオンの下へ駆け寄る。
「おや、もう御着きになりましたか。随分と速かったですね」
さすがと言うべきか、呆れるべきか、この切迫した状況下にあっても、彼の飄々とした態度はいつものままだった。
だが、それに言及する間も惜しいと、シグマはレオンに詰め寄る。
「アスマジアーニャンの徒党が出たって、本当ですか⁉」
「ええ、ちょうどシグマさんがトゥロイ国の王位継承者と衝突した頃に、本国から報告から届きました。なんでも六百ほどの化け物たちが森の方角から攻めてきたと」
「六百……⁉」
六百の軍勢など、立派な一個大隊の規模である。ましてやアスマジアーニャンの兵士は皆、それぞれ化け物の姿を取っているとされ、その力も並大抵の兵士をはるかに凌駕していると聞く。
下手をすれば、そのまま国に侵攻され、城下を滅茶苦茶にされかねない。
だというのに、なぜレオンはこうも平常を保っていられるのか。
「報告では、徒党を率いるリーダーは自らの隊を『ヴァローナ』と呼称していたようです」
「そ、それ、確かなんですか⁉」
すると、なぜかハウルが大きい声を上げてレオンに情報の真偽を問う。
「ハウルさんは御存じなんですか?」
「……もしかしたらそれは、アスマジアーニャン特殊精鋭部隊、通称『夜鴉』のことかもしれません。アスマジアーニャン軍の中でもとりわけ成績の優れたモノだけを集めて作られた部隊で、それぞれ能力に応じて序列が割り振られていたはず。もし、それが高位の序列だったら……!」
「ふむ、なるほど……」
顎に手を当てて思案の様子を見せるレオンだが、態度はまるで落ち着いたままだ。
その事態をまるで理解していないような態度に、シグマの苛立ちは募るばかりだ。
「何を悠長にしているんですか! 急いでリューズビーリアへ向かわな、い……と……」
リューズビーリアの名を口にした途端、シグマはある重要なことに気がついた。
どうして今まで気づかなかったのか。今、この陣地内に、リューズビーリアの長の姿が見当たらないことに。
―――いったい彼女はどこにいった?
シグマの戸惑いに察しがついたのか、レオンは思案の素振りを止める。
そして不気味なほど状況に似合わない、柔和な笑みを浮かべて、こう言った。
「姫君でしたら、襲撃の報告があって間もなく、一番隊を引き連れて出陣いたしました。もうここにはおられませんよ?」
すみません間に合わないので次は2/7に更新します