ブロークン・センセーション
―――あの日の光景は、今も目に焼き付いて離れない。
全身から真っ白な触手みたいなのと、真っ赤な血を流しながら、苦しそうに叫ぶその姿を。
その姿を振り回すようにして、私を助けてくれたことを。
きっと当時の私は、そのことが嬉しすぎて、碌に周りも見えていなかったのだと思う。
でも、それは間違いだった。喜んでいる暇があるのなら、真っ先に儀式剣を鞘に戻させるべきだった。
儀式剣の代償は、担い手を遍く殺す。
その曰くを一瞬でも忘れてしまった私は、きっと類を見ないほどの大馬鹿なんだろう。
でも幸運なことに―――あの人にとっては不幸かもしれないけれど―――シグマはかろうじて生き残ることができた。
それで、きっと安心してしまったのだ。
シグマはこれまでの王位継承者とは違うのだと。もう儀式剣に殺されることは無いのだと。
そう、勝手に思ってしまっていた。
だけど違った。シグマは代償を克服したんじゃなくて、耐えていただけだったんだ。
痛く苦しい思いをしながら、それでも必死に我慢していただけだった。
それを強要してしまったのは、紛れもなく私だ。シグマが苦しんでいるのは、間違いなく私のせいだ。
あの人は気にしないでと言ってくれたけど、身勝手ながらそんな風に割り切ることはできなかった。
もう苦しんでほしくない。
もう戦ってほしくない。
だから代わりに、私が矢面に立つことにしたんだ。
私が戦えば、その分シグマは戦わなくて済む。戦わない分だけ、シグマは苦しまなくて済む。
私が苦しめば苦しむだけ、あの人は楽になる。
酷いとは思わない。むしろこれは当然の罰だ。
もう起きたことを巻き戻せないのなら、せめてこれからの時間を使って償い続ける。
それが私の決めた道。王位継承戦が始まる前に、私が決めた覚悟。
だから当然、トゥロイ軍との戦いでもシグマの前に立って戦う準備はしていた。
その、はずだったのに……
◇◇◆◆◆
時間の経過と共に戦局も徐々に変わりつつある。
混戦は加速し、もはや敵味方両軍の区切り目はどこにも無い。シグマが愚直に進軍したことで後衛もそれに続き、より深くまでトゥロイ軍の中に攻め入ったことが原因として挙げられる。
そのため、今ではシグマの近くにも味方兵が居る状態。迂闊に暴れれば巻き込む可能性が出てくる。
そこでシグマは、戦闘スタイルを変えることでその問題を解決した。
先ほどまでの荒れ狂う暴風のような暴力から、全てを正確に射抜くような精密な一撃へ。
四方八方から放たれるそれぞれの一撃を躱し、あるいは受け止めながら、逆に音速を超えるほどの触腕の一撃を見舞って沈黙させていく。
その戦闘技術の高さには目を見張るものがあるが、これだけでは収まらない。
「う、うわあああぁぁァ⁉」
視界の端に悲鳴を上げるリューズビーリア兵の姿が映る。その者はトゥロイ兵との戦いに敗れ、体勢を崩し尻餅をついている。眼前にはとどめを刺そうと剣を振りかざすトゥロイ兵の姿。
いくら目視できたとしても、シグマからは少し距離がある。手を伸ばしても当然届くわけがなく、かといって向かったところで、戦場にひしめく他の兵を押し退けている間に事は終わるだろう。
つまり、助けられるはずがない。
だというのに、
「ッ!」
シグマは触腕の一つに意識を籠め、恐るべき速度で伸長させる。それは多くの者たちの間をすり抜けながら、瞬く間にその場所へ到達する。
そしてその触腕は、今まさに剣を振り下ろさんとしていたトゥロイ兵の脇腹に直撃し、身体をくの字にひしゃげさせながら吹き飛ばした。
「……え……?」
最悪の結末を覚悟して目を瞑っていたリューズビーリア兵は、いつまでもその時が来ないことを不思議がりながら目を開ける。目の前にいたはずの者が居なくなっているという事実に、彼は呆然と首を傾げていた。
『ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ‼ どうした主! あのような凡夫など捨て置けばいいものを! 何故貴様は手を差し伸べるのだ⁉』
「そうしないと意味が無いからだ!」
嘲り笑うシャルベリアの問いに、シグマは飛びかかってきた敵兵の斬撃を受け止めながら回答を叫んだ。
「全ては救えない。そうするだけの全能を持っていない僕は、間違ってもそんな理想は抱えてはいけないんだ! だから!」
「シグマ、危ないッ!」
その敵兵を触腕で掴んで後方に放り投げると同時に上から危機感を募らせたハウルの声が聞こえる。その瞬間、シグマは高く跳躍し、いつの間にか周囲を囲んできた複数の槍兵の刺突を回避する。
「僕はせめて、手の届く範囲のものは絶対に守ると決めたんだ! それが例え名前の知らない人であったとしても、僕と同じ戦場に立ってくれる味方なら絶対に見捨てない!」
宙に浮いたまま、シグマは背中から生え出でる触腕を羽広げるように展開し、それぞれの鋭利な先端を真下―――刺突を行ってきた槍兵の方へ向ける。
であれば、この後に起こる未来など想像に難くない。
「―――そのために、この力を使う!」
全身を捻じり振り下ろされる、まるで悪魔の手を思わせる触腕の凶爪。風切り音と共に振るわれたそれは、眼下にいた敵兵を貫いて遠く彼方まで抛り飛ばした。
ゴミのように宙を舞う、何人もの兵士たち。その行く末には目もくれず、シグマは大量の触腕と共に着地し、そのまま四つん這いの体勢に倒れ込む。
直後、ハウルを抱えていた触腕以外の全てが爆発するように全方位に伸長した。それらは空気を裂いて瞬く間に伸び切ると、その遠線上にいたトゥロイ兵を串刺しにする。
「……え……」
貫かれた者たちは皆、何が起こったのかわからないという顔をしていた。
しかしシグマは触腕を引っ込めると、彼らは糸の切れた人形のように地面に倒れ伏す。
そして、対照的にシグマはゆっくりと身体を起こす。戦場においてはあまりにも緩やかなその動きは、もはや不気味なそれとしてしか映らず、知らずトゥロイ兵を後ずさらせた。
―――どうして。
これまでに繰り広げられた彼の活躍を見せられて、ハウルは口を震わせて声にならない呟きを漏らす。
儀式剣は規格外の激痛をもたらすと聞いていた。実際、過去に見た彼の戦いぶりは、それに苛まれてひどく苦しんでいたのを覚えている。
だから、もう戦わせないために自分が戦うことを誓った。
でも、今目の前に居るシグマには、その必要性をまるで感じない。
それ自体は喜ぶべき事のはずだ。……だというのに、この拭いきれない不安は何なのか。
儀式剣のもたらす代償は、担い手を遍く殺す。
それほどの破滅を、単に『克服』したとは考えにくい。工夫次第で克服できる程度のものであれば、おそらく大昔の時点でどうにかなっているはずである。
であれば彼は、いったいどのような方法を取って克服したのか。
ただでは済まないその代償を、いったい何を支払って超越したのか。
「……本当に、大丈夫なの……?」
シグマの身を案じたハウルの声は、戦場の賑わいにかき消されて、彼の耳には届かない。
彼の目は、ひたすら前方を見据えていた。
「逃げる気があるならそれでいい。僕は追うような真似はしない。だけど……」
じりじりと後退する彼らを一瞥するシグマ。その瞳の奥には、些末さと苛立ちを併せ持ったような感情が存在した。
「この期に及んでなお逃げないのなら、真っ向から君たちを叩き潰す」
その言葉は、一部のトゥロイ兵には侮辱と捉えられた。
どれだけ我らを侮ればいいのかと、どれだけ我らを弄れば気が済むのかと、そうした怒りを伴った砲声を上げて多くの兵が突進する。
だが、それは勇敢ではない。どうあっても勝てない存在に挑みかかるのは、愚行以外の何物でもないのだ。
それらを薙ぎ払い、打ち倒していきながら、シグマはさらに先へと進む。
屈強な兵士たちが打ちのめされ、沈んでいくその様は、もはや人智を超えた所業である。
それを成し得ているシグマの姿は、もはや人とは呼べないだろう。
―――バケモノ。
敵も、味方も、多くの兵が彼をそう呼んだ。
◆◆◇◇◇
「……妙ね」
シグマの居る戦場から離れた位置にあるリューズビーリアの仮陣地で、ルカは遠見礼装で見た彼の戦いぶりをそう評した。すると、横にいたレオンが顎に手を当てて頷く。
「そうですね、何と言いますか……動きが精密過ぎます」
「先ほど見せられた広範囲の一撃、あれにはさすがの私も驚いたわ。まさかあの混戦状態にあって、トゥロイ兵だけを正確に捉えるなんて」
ルカの言う広範囲の攻撃とは、シグマは多くの触腕を爆発するように伸長させて、周囲の低兵を同時に屠った技の事だ。
あの時、彼の周囲にはトゥロイ兵だけでなく、それらと戦い合うリューズビーリア兵も多くいた。そのような混戦状態の中とあっては、屈指の実力者であるルカであっても迂闊に力は使えない。
だが、シグマが突き出した触腕を引っ込めた時、そこに倒れ伏したのはトゥロイ兵だけ。リューズビーリア兵はかすり傷の一つも負うことは無かった。
「シグマの動きは、演習の時や狼を撃退したときと比べて格段に向上している。……手を抜いていた、ってことはないわよね?」
「それは無いでしょう。どちらとも手を抜いたところで、彼が得られるメリットは何も無いのですから」
「だけどそうなると、今度は今のシグマの動きに説明が付かなくなる……。あれだけの向上は、些細な鍛錬で得られるようなものじゃない。何かこう、余計な枷が外れたかのような……」
そこでルカは、ふと、シグマが儀式剣に代償があると言っていたことを思い出す。
たしかあの時、彼はその代償を「少し痛いだけの、単純なもの」と称していた。それがもたらす苦痛によって、戦場でも苦悶の表情を浮かべていたのだと。
だが、今のシグマから窺える表情に、そのような気配は微塵もない。
となると、考えられるのは……
(痛みが消えた? たったそれだけで、あそこまで動きが良くなるものなのかしら……?)
「姫様」
思案に沈みかけるルカだったが、不意に横からレオンに呼ばれたことで我に返る。
「ご覧ください。おそらく始まりますよ」
そう言って彼は遠見礼装に映る戦場の光景を指さす。追うようにルカもその光景を見つめると、彼の言いたいことがわかり、納得した。
「―――王位継承者同士の戦いが」
次は12/30に更新します。
次が今年最後ですね。
早いものです。